イエス・キリストの黙示 2017年5月14日(日曜 夕方の礼拝)

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イエス・キリストの黙示

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 1章1節~3節 

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。
1:2 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。
1:3 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。ヨハネの黙示録 1章1節~3節 

原稿のアイコンメッセージ

 夕べの礼拝では、出エジプト記を御一緒に学んできましたが、今夕からヨハネの黙示録を御一緒に学んでいきたいと願っております。

 ヨハネの黙示録を読みますと、難しい、分かりにくいという印象を持たれるのではないかと思います。その一つの原因は、ヨハネの黙示録が、黙示文学という私たちには馴染みの無い文学類型で記されているからです。そこで、今夕は初めに、黙示文学について、確認しておきたいと思います。参考資料として、2015年9月に発行した月報の巻頭言をお配りしました。そこで、黙示思想(黙示文書)について記しておきましたので、それを読みたいと思います。

1.黙示(アポカリュプシス)

 この語の本来の意味は、神の言葉と行為が人に示されること(啓示)を意味する。この意味では、旧約時代のイスラエルは黙示を与えられ続けた。特にアモス以後の預言者では、世の終わりの神の裁きが啓示メッセージの重要な位置を占める。

2.黙示思想

 しかし、「黙示思想(黙示文書)」と特に言われる時は、紀元前3~2世紀に明確なかたちを取った特定の思想と文学類型を指す。その起源はおそらく、旧約の預言者思想にペルシャ宗教(ゾロアスター教)が混淆したものと考えられる。その思想的特徴は①二元論、人間について(義人と罪人)、歴史について(今の世と来たるべき世)、②終末(神の介入による世の転換)に対する緊迫感などである。

3.黙示文書

 黙示思想を内容とする一つの文学類型で、神が媒介者(人)を通して人に開示する「宇宙規模の救済の終局」を物語的に書いた文書を言う。その文学的特徴として、①幻によるとされる、②歴史の大破局を描写するためのどぎつい絵画的表現、③象徴的意味を持つ数字の多用などがある。

4.キリスト教と黙示思想・文書

 今ではキリスト教の成立と思想を理解するうえで極めて重要と考えられている。

(1)旧約と黙示思想・文書 世の終わりにおける神の義の貫徹が中心モティーフ。正典ではダニエル書が最重要。外典・偽典にもある。

(2)新約と黙示思想・文書 キリストの再臨による宇宙的完成としての「終わりの日」が中心モティーフ。正典ではヨハネの黙示録が最重要。使徒教父文書・外典にもある。

5.その後の黙示思想・文書

(1)ユダヤ教では、ローマ帝国に対する第二次ユダヤ戦争以後、危険視された。ラビ・ユダヤ教は黙示文学を放棄した。

(2)キリスト教でも、2世紀以降、終末的緊張感が希薄になる状況下で急速に衰えていった。

 ヨハネの黙示録が、このような黙示文書として記されていることを踏まえて、私たちはヨハネの黙示録を学んでいきたいと願います。

 1節をお読みします。

 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。

 「イエス・キリストの黙示」。これが、この書物のタイトル、表題であります。ここで「黙示」と訳されている言葉(アポカリュプシス)は、「啓示」とも訳される言葉であります。「啓示」とは「覆われたものをあらわとすること」でありますが、世の終わりのことが絵画的言語や象徴的な数字によって示されているので、「黙示」と訳されています。執筆者であるヨハネは、「イエス・キリストの黙示」と記すことによって、これから自分が記す文書が黙示文書であることをはっきりとさせているわけです。「イエス・キリストの黙示」、この言葉は、イエス・キリストが示された黙示とも、イエス・キリストを内容とする黙示とも解釈することができます。「僕の絵」という言葉が、「僕が描いた絵」とも、「僕が描かれている絵」とも解釈できるように、「イエス・キリストの黙示」という言葉は、「イエス・キリストが示された黙示」とも、「イエス・キリストを内容とする黙示」とも解釈できるのです。ここでは、「イエス・キリストが示された黙示」と解釈しておきたいと思います。といいますのも、1節の後半に、「キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」と記されているからです。この書物が「ヨハネの黙示録」と呼ばれるのは、ヨハネという人物によって記された黙示録であるからですが、その黙示は、キリストに、さらには神へと遡ることができるのです。そして、それは僕ヨハネだけではなく、僕たちに示すために与えられたものであるのです。ここでの「僕たち」とは、すべてのキリスト者のことを指しております。つまり、神様は、私たちに示すために、この黙示をキリストにお与えになり、そして、キリストは天使を送って僕ヨハネにお伝えになったのです。キリストは天使を送って僕ヨハネに黙示を伝えられたとあります。それは、キリストが天上におられるからでありますね。イエス・キリストは、十字架の死から三日目に復活され、天へと上げられ、父なる神の右に座しておられます。そのキリストが天使を送って僕ヨハネに、すぐにも起こるはずのことをお示しになったのです。「すぐにも起こるはずのこと」とありますが、このように翻訳しますと、「起こらないかも知れない」という印象を受けます。元の言葉を見ますと、「必ず何々することになっている」と訳される、神様の御計画を現すデイという言葉が用いられています。イエス・キリストは、すぐにも起こるべきことを、天使を送って、僕ヨハネに伝えられたのです(口語訳参照)。そして、それはすべての僕たち、すべてのキリスト者に示すためであったのです。ここに、私たちが今夕から、ヨハネの黙示録を学び始める積極的な理由があるのです。

 2節をお読みします。

 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。

 このヨハネは、伝統的には、使徒ヨハネと考えられてきました。このヨハネが使徒ヨハネであるかどうかは議論のあるところですが、小アジアの教会の事情に詳しい、旧約聖書に精通している権威ある人物であったことは確かであります。ヨハネは、キリストから天使を通して、すぐに起こるべきことを示されました。この書物には、ヨハネに示された神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、ヨハネの見たすべてのことの証しが記されているのです。「神の言葉とイエス・キリストの証し」が「自分の見たすべてのこと」と言い換えられているのは、ヨハネがそれを幻によって示されたからであります。ヨハネによる福音書は、イエスの愛する弟子による証しの書でありました(ヨハネ21:24「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」参照)。同じように、ヨハネの黙示録も、僕ヨハネによる証しの書であると言えるのです。

 3節をお読みします。

 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。

 ヨハネは、自分の証しを、「預言の言葉」と言います。ヨハネの黙示録は預言書であるのです。ヨハネは、明確に、自分が神の言葉、イエス・キリストの言葉を語っていることを意識しています。それゆえ、「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人は幸いである」と断言するのです。ここで、ヨハネは、自分が記した預言の言葉が、教会の礼拝で公に読まれ、聞かれることを想定しています。ヨハネの黙示録は、キリスト教会の礼拝で、公に読まれ、聞かれる書物として記されたのです。ただ聞かれるだけではなく、聞いたことを守るために記された書物であるのです。この書物の中に何が記されているのか?そのことを私たちはこれから学んでいきたいと思います。そして、ヨハネが告げるところの、いや、イエス・キリストの告げるところの幸いにあずかる者になりたいと願います。

 ヨハネは、「時が迫っているからである」と記しておりますが、ここでの「時」とは、世界の終わりの時、であります。世界の終わりの時が迫っているゆえに、すぐにも起こるべきことを、イエス・キリストは、天使を送ってヨハネに示されたのです。世界の終わり、それは、イエス・キリストの再臨によってもたらされます。時が迫っているとは、イエス・キリストの再臨が迫っているということです。ヨハネの黙示録が執筆されたのは、紀元90年代、ローマの皇帝ドミティアヌスの時代であったと言われています。ドミティアヌス帝による迫害の時代に、ヨハネの黙示録は記されたのです。紀元90年代といいますと、イエス・キリストが天へと昇られて、50年以上が経っておりました。その時代のキリスト者たちに、ヨハネは、イエス・キリストの再臨の時が迫っていると告げたのです。そして、今夕、私たちは、イエス・キリストが天へと昇られてから、2000年近く経つ時代にあって、その言葉を聞くのです。これは無理なことでしょうか?ヨハネの黙示録が記されてから、1900年以上経っている時代に生きている私たちは、イエス・キリストの再臨が迫っていると、信じることは不可能なのでしょうか?そうではないと思います。また、そうであってはならないと思うのです。私たちは、今夕、イエス・キリストが天使を通して示されたヨハネの言葉を聞いた、預言の言葉を聞いたのです。「時が迫っているからである」という言葉を聞いたのであります。そうであれば、私たちは、イエス・キリストが来られる日は迫っていると信じるべきであるのです(二ペトロ3:8参照)。イエス様御自身も、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて目を覚ましていない。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」と言われています(マルコ13:32,33)。私たちの信仰が眠り込まないように、私たちは目を覚まして、預言の言葉に耳を傾けていきたいと願います。

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