勝利を賜る神 2012年9月30日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 15章50節~58節
聖書の言葉
15:50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。
15:51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。
15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。
15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。
15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。コリントの信徒への手紙一 15章50節~58節
メッセージ
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パウロは49節で、「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」と記しておりました。「土からできたその人」とは最初の人アダムのことであり、「天に属するその人」とは最後のアダムであるイエス・キリストのことであります。私たちは最初の人アダムの似姿であるように、最後のアダムであるキリストの似姿にもなるのです。つまり、キリストと同じ朽ちない、輝かしい、力強い、霊の体で復活するのです。霊の体とは、触ることのできない空気のような体ではなく、聖霊が生かし動かし支配される体のことであります。私たちは、初穂であるキリストが来られるとき、聖霊が生かし動かし支配される、霊の体になるのです。このことは前回お話ししたことでありますが、今朝は50節以下をご一緒に学びたいと思います。
50節をお読みします。
兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。
パウロは、49節で、「私たちは土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人に似姿にもなるのです」と記しましたが、それは神の国を受け継ぐために必要なことでありました。なぜなら、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできない」からです。「肉と血」とは、アダムの似姿であり、自然の命に生かされている、今の私たちの肉体のことであります。今の私たちの肉体は「朽ちるもの」であるわけです。そのような私たちが朽ちないものである完成された神の国を受け継ぐことはできません。神の国とは、神の王国であり、神の王的支配のことでありますが、現在の朽ちる自然の命の体では、神の王的支配に完全に服従することができず、神の国を受け継ぐことはできないのです。私たちは完成された神の国を受け継ぐのにふさわしい体に変えられる必要があるのです。すなわち、聖霊が生かし動かし支配する、罪から完全に解き放たれた霊の体に変えられる必要があるのです。
旧約聖書のイザヤ書第6章に、イザヤが高く天にある御座に座しておられる主を見たことが記されています。そのとき、イザヤは次のように言いました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」。イザヤにとって、主を仰ぎ見ることは、滅びをもたらす災いでありました。それは、イザヤが汚れた唇の者、咎を負う罪人であったからです。そのようなイザヤにとって、主を仰ぎ見ることは、自らに滅びをもたらす災いでしかなかったのです。このことを覚えるとき、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」という言葉の意味がよくお分かりいただけると思います。私たちはアダムにあって堕落した、土の塵に帰る体をもっては、完全な神の御支配にあずかることはできないのです。世の終わりに完成される神の国にふさわしい体に変えていただかなければならないのです。少し脇道にそれるかも知れませんが、ヨハネの黙示録の第21章に、新しい天と地において、神が人と共に住み給う幻が記されています。その幻は、私たちが霊の体に復活することが前提となっているわけです。このようなパウロの言葉を読みますと、一つの疑問が出て来ると思います。それは、キリストが来られるとき、生きているものはどうなるのか、という疑問であります。死んで葬られた者たちは、キリストが来られるとき、朽ちない、輝かしい、力強い、霊の体に復活するのですが、生きている者たちはどうなるのか?そのような疑問を念頭に置きつつ、51節から53節までを読みたいと思います。
わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なった状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。
パウロは、神の奥義として、「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なった状態に変えられます」と記します。神の国を受け継ぐのにふさわしい朽ちない、輝かしい、力強い、霊の体になるには、必ず死ななければならないというわけではないのです。キリストが来られる時に生き残っている者たちは死を経験せずに、異なった状態、天に属する人の似姿へと変えられるのです。それも、「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに」変えられるのです。徐々に変えられるのではなくて、またたきをする間に、変えられるのであります。「最後のラッパ」とありますが、主イエスも御自分が来られるとき、大きなラッパの音がなるとお語りになりました。イエス様はマタイによる福音書の第24章30節、31節で次のように言われています。「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」。このように、キリストが天から来られるとき、ラッパが鳴り響き、キリストに属している者たちは呼び集められるのです。死者は朽ちない体に復活して、生きている者は一瞬のうちに朽ちない体に変えられて、主のもとに呼び集められるのです。
53節に、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」とありますが、ここでパウロは、着物に譬えて、私たちが異なる状態に変えられることを教えています。服を着替えても私であることに変わりはないように、異なった状態に変えられても、私であることに変わりはないのです。また、ここで「必ず何々することになっている」と訳されている言葉は、神様のご計画を表す言葉であります。つまり、この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着ることは、神様のご計画であるのです。このことは、最初の人アダムが神の掟に背かずに、善悪を知る木の実を食べなかったならば、自然の命の体から霊の体へと変えられたことを教えています。エデンの園の中央には、禁じられていた善悪の知識の木の他に、命の木が生えておりました。神はアダムが御自分の御言葉に従われた報酬として、命の木に象徴される永遠の命を与えようとしておられたのです。しかし、アダムは禁じられた木の実を食べて罪を犯しました。アダムは神の掟に背くことによって、神のようになろうとして罪を犯したのです。それゆえ、神はアダムをエデンの園から追放し、命の木に至る道を守るために、ケルビムと、きらめく剣の炎を置かれたわけです。パウロが、キリストを最後のアダムと呼ぶのは、キリストがアダムが成し遂げることのできなかったことを、私たちの代表者として成し遂げてくださったからです。アダムは不従順でありましたが、キリストはへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。それゆえ、神はキリストを死者の中から朽ちない、輝かしい、力強い、霊の体へ復活させられたのです。さらには、御自分の右の座へと上げられたのです。神のご計画には、自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。神は命の主として、この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることを定めておられたのです。
54節から57節までをお読みします。
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。
ここでパウロは、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」ことは旧約聖書の預言の成就であると語っています。「死は勝利にのみ込まれた」。この御言葉は、イザヤ書第25章8節からの引用であると言われています。ここでは7節、8節をお読みします。
主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし/死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。
パウロが引用しているそのままの言葉をここに見いだすことはできません。しかし、ここには、「神が死を永久に滅ぼしてくださる」という神の死に対する勝利が預言されております。
続けてパウロは、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」と記しておりますが、これは、七十人訳聖書のホセア書の第13章14節を引用していると言われています。私たちの手元にあるのはヘブライ語旧約聖書から翻訳したものですが、そちらを読みたいと思います。ホセア書の第13章14節です。
陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみはわたしの目から消え去る。
ホセア書の文脈からすると、これは「エフライムの終わり」を告げる滅びの宣告なのですが、パウロは文脈と切り離して、死に対する嘲りの言葉として、自由にホセア書の言葉を用いています。つまり、パウロは、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。どこにもないではないか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。どこにでもないではないか」と死を嘲るのです。
パウロは56節で、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と記しておりますが、これによってパウロは死と罪の関係、罪と律法の関係をまことに簡潔に言い表しています。つまり、パウロが問題としているのは、罪の報酬としての死、罪の刑罰としての死であるのです。神がアダムに言われたお言葉、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われた「死」であります。「死のとげは罪である」。それゆえ、罪人である私たちは、死を恐れるのです。また、「罪の力は律法」であります。アダムは善悪の知識の木の実を取って食べました。そのことが罪となるのは、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という神の掟があるからです。神の掟があるから罪は力を持つのであります。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」。ですから、死に勝利するには、律法の支配から解き放たれ、罪の支配から解き放たれなければならないのです。死に勝利するには、律法の義を満たし、罪の償いを果たさなければならないのです。そして、ここに、イエス・キリストが十字架の死から復活された理由があるのです。それゆえ、パウロは、「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」と記すことができたのです。神は、私たちの主イエス・キリストにあって、私たちに死に対する勝利を与えてくださいます。なぜなら、十字架の死から復活されたイエス・キリストだけが、律法の義を満たし、罪の償いを成し遂げられたお方であるからです。そのようなお方として、キリストは死に勝利し、栄光の体へと復活されたのであります。イエス・キリストは死に対する勝利者として復活されたのです。それゆえ、キリストに属する私たちは今既に、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」と語りうる者とされているのです。そして、キリストが来られるとき、私たちは復活して、キリストの死に対する勝利に完全にあずかる者とされるのです。
最後、58節をお読みします。
わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
パウロは、コリントの信徒たちを「わたしの愛する兄弟たち」と呼びかけ、「こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」と勧めます。まさにキリストの復活こそ、私たちが主の業に常に励むことができる土台であります。パウロは、14節で次のように記しておりました。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。しかし、事実、キリストは復活しました。それも私たちの初穂として、朽ちない、輝かしい、力強い、霊の体に復活したのです。ですから、私たちは、「主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを」知っているのです。「無駄にならない」とは死を越えて続く永遠の価値を持つということです。私たちが主イエスから託されている福音宣教と教会形成という主の業は、死を越えて続く永遠の価値を持っているのです。私たちのささげる礼拝は、死を越えて続く永遠の価値を持っているのです。なぜなら、私たちの主イエスは死に勝利されたお方、死から三日目に栄光の体へと復活されたお方であるからです。