天に属する人の似姿 2012年9月23日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
15:45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
15:46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。
15:47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。
15:48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。
15:49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。コリントの信徒への手紙一 15章44節~49節

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 35節に、「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません」とありますように、パウロは35節以下で、復活の体について教えております。パウロはそのように問う者たちの目を、神様の創造の御業に向けさせます。ただの種粒が土の中に蒔かれて、芽を出し、茎を伸ばし、穂をつける。そのようにして、神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになるではないか、とパウロは記すのです。また、創世記の第1章にある天地創造の記述を背景として、神はそれぞれの生き物の生活空間に適した肉体を与えられたことを指摘いたします。人間の肉体は、水の中にずっといるとふやけて崩れてしまいますが、魚は水の中にずっといることができます。このように、生き物の肉体は、それぞれ違うのです。神はそのような多様な肉体を造ることのできるお方であるのです。また、神は地上の体だけではなく、天上の体、太陽や月や星々という光輝く体をも造られたお方であります。そして、天上の体の輝きにも違いがあるわけです。そのような神の豊かな創造の御業を思い起こさせつつ、パウロは、「死者の復活もこれと同じです」と言うのであります。つまり、死者の復活とは、完成される神の国にふさわしい肉体に造り変えられる新しい創造でもあるのです。この地上に生きるのにふさわしいものとして、私たちの肉体を造られた神は、世の終わりに完成する神の国に生きるのにふさわしい肉体を、私たちに与えてくださるのです。つまり、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」。ですから、私たちにとって、復活は希望であるわけであります。ここまでが前回お話したことでありまして、今朝は44節以下をご一緒に学びたいと願います。

 44節をお読みします。

 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。

 パウロは、蒔かれる体を「朽ちるもの」「卑しいもの」「弱いもの」と言い表しましたが、ここではそれを「自然の命の体」と言い表しています。また、パウロは、復活する体を「朽ちないもの」「輝かしいもの」「力強いもの」と言い表しましたが、ここではそれを「霊の体」と言い表しています。「自然の命の体」とは、私たちの今の体のことですが、動物にも人間にも共通する自然の命が生かし動かし支配している体のことであります。それに対して、復活する「霊の体」とは、触ることのできない空気のような体ということではなくて、聖霊が生かし動かし支配なさる体のことであります。私たちは今自然の命が生かし動かし支配する自然の命の体でありますが、復活の時には聖霊が生かし動かし支配する霊の体となるのです。そして、このことは、最初の人アダムと、最後のアダムであるキリストにおいて見られることであるのです。

 45節をお読みします。

「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。

 ここでパウロは創世記の第2章7節を引用しています。パウロはヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳七十人訳聖書から引用しているのですが、新共同訳聖書の翻訳を見ると、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と記されています。「人はこうして生きる者となった」。この所をパウロは引用しているのですが、「最初の」という言葉と「アダム」という言葉を付け加えて記しております。そのようにして、パウロは「最後のアダム」であるキリストについて語るための道備えをしているわけです。最初の人アダムは、神によって土の塵で形づくられ、その鼻に命の息を吹き入れられて生きる者となりました。そのようにして、最初の人アダムは自然の命に生きる者とされたのです。私たち人間は、まさに生かされているのでありまして、私たちの命の源は創造主である神にあるのです。しかし、最後のアダムであるキリストはそうではありません。最後のアダムであるキリストは命を与える霊となったと言うのです。キリストが私たちの初穂として、死者の中から復活されたこと、それは言い換えれば、キリストが命を与える霊となったということであるのです。すなわち、復活したキリストは、御自身のうちに命を持っておられ、命を与える権能をも持っておられるのです(ヨハネ5:21、26参照)。そのキリストが、聖霊によって、私たちに命を与えてくださったのです。

 46節をお読みします。

 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。

 パウロは、「最初に霊の体があったのではありません」と記しておりますが、これはコリントの信徒たちの中に、霊の体、聖霊が生かし動かし支配なさる体に自分たちは既に生きていると主張する者たちがいたためと思われます。しかし、ここいも順序がありまして、最初に自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。それは死者の復活に順序があるのと同じであります。パウロは23節で、次のように記しておりました。「ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます」。私たちは自然の命の体でありますが、命を与える霊であるキリストが来られるとき、霊の体に復活するのです。あるいは、そのとき地上に生きていれば、生きたまま自然の命の体から霊の体へと変えられるのです。

 47節から49節までをお読みします。

 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。

 パウロは、先に、「最初の人アダムは命のある生き物となった」という御言葉を引用しましたが、最初の人アダムは、土の塵によって形づくられ、その鼻に神の息を入れられて生きる者となりました。それゆえ、最初の人は地に属する者であるわけです。しかし、第二の人、つまり最後のアダムであるキリストは、天に属する者であるのです。キリストは天から来られた永遠の神の御子であるからであります。キリストは、聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、罪を他にして私たちと同じ人となられましたが、その起源は天にあるのです。

 パウロは「土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです」と記しておりますが、ここでの「土からできた者たち」とは、自然の命に生きているすべての人を指しています。また、「土からできたその人」とは最初の人アダムのことです。そこには「等しい」と言える関係が成り立つ。最初の人アダムが自然の命に生きる者となったように、アダムの子孫であるすべての人が自然の命に生かされている。そこには一体的な関係があるわけです。それと同じように、「天に属する者たち」である「キリストに属している者たち」は、天に属するその人、キリストに等しいのであります。つまり、「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」。ここで、パウロは、創世記の第5章3節を念頭において記しております。創世記の第5章3節に、次のように記されています。「アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた」。アダムの子供のセトが、アダムにそっくりであったように、アダムの子孫である私たちもアダムの似姿となっているのです。私たちが、朽ちる、卑しい、弱い、自然の命の体で生かされていること、その事実が、私たちが土からできたアダムの似姿であることを証ししているのです。しかし、イエス・キリストを信じる私たちは、天に属する者でもあります。それゆえ、天に属するその人、イエス・キリストが来られるとき、私たちは朽ちない、輝かしい、力強い、霊の体に復活するのです。

 パウロは、45節で、「最後のアダムは、命を与える霊となったのです」と記しておりますが、キリストを信じる私たちは、この命を聖霊において既に与えられております。私たちは最初の人アダムと同じように、自然の命の体で生きておりますが、キリストはその私たちに聖霊を与えてくださっているのです。そして、これこそ、私たちが霊の体に復活することの保証であるのです(ローマ8:9~11参照)。私たちの体は自然の命の体であり、それもアダムの罪のよって腐敗した体でありますから、私たちは聖霊の御支配に完全に従うことができず、罪を犯してしまうわけです。パウロはそのことをローマの信徒への手紙の第7章に記しております。少し長いですが、13節から25節までをお読みします。

 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。わたしたちは、律法が霊的なものであることを知っています。わたしは自分のしていることが分かりません。自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては、神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、わたし自身は神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

 なぜ、私たちは神の掟に従うことができないのか。それは私たちがアダムと同じ自然の命の体に生かされているばかりではなく、アダムの罪によって腐敗した、死に定められた体に生かされているからなのです。

 今朝の御言葉に戻ります。

 パウロは、47節で、「最初の人は土ででき、地に属する者であり」と記しておりますが、アダムは、罪の刑罰として「土に返る者」としても地に属する者でありました。神様は罪を犯したアダムに、「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」と言われたわけです(創世記3:19)。パウロは、それを「死に定められた体」と言い表したのです。アダムに与えられた自然の命の体は、アダムの最初の罪によって、死に定められた体でもあります。その私たちの体に復活したイエス・キリストは御自分の命を聖霊において与えてくださいました。ここで言う命とは、命の源である神との永遠の交わりのことであります。私たちは聖霊においてキリストと神秘的に結ばれ、神の子とされて、神を父とする永遠の愛の交わりに生かされているのです。その聖霊が私たちを完全に生かし動かし支配してくださるときが来る。そのようにして、私たちが罪から完全に解き放たれ、神の支配に完全に従うことができるときが来るのです。それが、霊の体に復活するときなのであります。ですから、霊の体に復活するとは、肉体だけのことを言っているのではありません。霊の体に復活するとは、私たちの存在そのものが聖霊の完全な御支配に生きる者として復活することを言うのです。私たちは肉体だけではなく、心と肉体からなる存在そのものが、天に属する人の似姿になるのです。そのようにして、私たちは神の国を受け継ぐのに、ふさわしい者とされるのです。

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