復活の体 2012年9月16日(日曜 朝の礼拝)
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復活の体
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 15章35節~43節
聖書の言葉
15:35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。
15:36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。
15:37 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。
15:38 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
15:39 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。
15:40 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。
15:41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。
15:42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、
15:43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。コリントの信徒への手紙一 15章35節~43節
メッセージ
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12節に、「キリストは、死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」とありますように、パウロは、死者の復活を否定する者たちを念頭に置きつつ、復活について教えております。今朝の御言葉も同じでありまして、ある者たちは、「死者はどんなふうに復活するのか。どんな体で来るのか」と嘲って、死者の復活を否定していたのです。
35節から38節までをお読みします。
しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、あと後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
パウロは、「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません」と記しておりますが、これは死者の復活を否定する者たちの嘲りを先取りする形で記されています。ある者たちは、死者がどのように復活するのか、どんな体で来るのか、と疑問を呈することによって、死者の復活を否定していたのです。ここで、パウロは復活を信じている人たちからの質問を取り上げているのではなくて、復活を信じていない人たちからの質問を取り上げているのです。ある者たちは、死者がどんなふうに復活し、どんな体で来るのかが分からなければ、到底信じられないと言うわけです。おそらく彼らは、葬られた死者が腐乱した体で復活する、ゾンビのようなことを考えていたのだと思います。そのような人に対して、パウロは「愚かな人だ」と答えます。なぜ、パウロは、「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」と聞く者を、「愚か者」と断定するのでしょうか?それは、その答えが種蒔きにおいて、私たちに示されているからです。「あなたがたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、あと後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」。当時の人々は、種を土の中に蒔くことを種が死ぬこと、滅ぶことと考え、種を蒔いた土から芽が出ることを神様の創造の御業によるものと考えていました。現代の私たちは、種の中に胚や胚乳があることを知っていますが、それでも芽を出させてくださるのは、神様の御業であるわけです。パウロは、「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」と嘲り、死者の復活を信じない者たちに、そうは言っても、あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。種を土の中に蒔いて、それから芽が出て、茎が伸びて、穂をつけるでしょう?と言うのです。また、パウロは「あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」と記します。私たちは麦であれ他の穀物であれ、茎がのびて穂をつけている麦そのものを土の中に蒔くということはしません。そうではなくて、「ただの種粒」、「裸の種」を蒔くのです。そのただの種粒に、神は御心のままに、それぞれに体をお与えになるのであります。種の種類に従って、神様は体をお与えになる。アサガオの種ならアサガオ、ひまわりの種ならひまわり、種と体のかたちは異なっていますが、そこには継続性、同一性があるわけです。「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、それが分からなければ信じられない」という者たちに、パウロは、そのようにあなたがたは言うけれども、あなたがたは、土の中に蒔いたただの種粒に、神がそれぞれ体を与えてくださることは知っているではないか。その神の御業に思いを向けず、「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」と聞く人は、愚かな者だ、とパウロは言っているのです。
イエス様も、ヨハネによる福音書の第12章で、御自分の死と復活を、一粒の麦に例えられたことがあります。イエス様は、何人かのギリシャ人が御自分に会いに来たことを、弟子たちから聞いて、こう言われました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。イエス様はここで、一粒の種が土の中に蒔かれるならば、芽が出て、茎が伸びて、穂をつけて多くの実を結ぶという収穫の豊かさを教えられました。それに対して、パウロは、土の中に蒔かれる一つ一つの種に、神はそれぞれ体を与えられることを教えているわけです。神様はこのような仕方で、「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」を私たちに教えてくれているではないか、とパウロは言うのです。
39節から41節までをお読みいたします。
どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれに違いますし、星と星との間にも違いがあります。
ここでパウロは、創世記第1章に記されている神の創造の御業を背景として、それぞれの肉体が異なっていること、また天上の体の輝きと地上の体の輝きは異なっており、さらには天上の体の輝きにもそれぞれ違いがあることを記しています。
少し長いですが、ここで、創世記の第1章全体をお読みしたいと思います。
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。神は言われた。「天の下の水は一つのところに集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」夕べがあり、朝があった。第五の日である。神は言われた。「地は、それぞれの生き物を生み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれ産み出せ。」そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這う物を造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
このように神様は、六つの日に渡って、天地万物をお造りになられたわけであります。
では、今朝の御言葉に戻ります。
パウロが「どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います」と記すとき、創世記の第1章に記されていた神様が創造された順番をひっくり返して記しております。ここでは「体」(ソーマ)ではなく、「肉」(サルクス)という言葉が用いられています。これはヘブライ人の考え方によって分けられているわけです。ヘブライ人は、生き物とは、「息をして、動くもの」と考えておりました。その生き物には肉という言葉を用い、生き物ではないものには体という言葉をパウロは用いているようであります。ここでの「肉」は「肉体」のことですが、確かに人間の肉体、獣の肉体、鳥の肉体、魚の肉体はそれぞれ違うわけです。例えば、人間は空を飛ぶことはできませんが、鳥は空を飛ぶことができます。また、人間は水の中にずっといることはできませんが、魚は水の中にずっといることができます。これは人間の肉体と鳥の肉体が、また人間の肉体と魚の肉体が違うからです。神様は違う肉体をそれぞれにお与えになりました。それはなぜかと言えば、それぞれの生活空間が異なるからであるのです。神様は第6の日に、地の上に生きるものとして、地の獣と人間をお造りになりました。しかも人間は、他の生き物を支配する神の代理人として、神のかたちに似せて造られたわけです。それに対して、神様は第5の日に、魚を水の中に群がるものとして、また鳥を天の大空を飛ぶものとして造られたのです。その生きる空間にあわせてふさわしい肉体を神様はそれぞれにお与えになったのであります。
また、パウロは、「天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています」と記しています。ここでの「天上の体」とは太陽や月や星々といった天体のことを言っているようです。で、「地上の体」とは植物を指しているようであります。ここで「輝き」と訳されている言葉は、「栄光」とも訳すことができます。植物も神の栄光を表しているわけです。イエス様は、野の花を見て、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」と言われました(マタイ6:29、30)。創造主である神の栄光は、あらゆる被造物を通して、地に表されているわけです。しかし、天上の体の栄光と地上の体の栄光は違うわけです。天上の体の栄光は、それこそ輝いているわけです。そして、天上の体である天体の輝きもそれぞれ違いがあるのです。このように神様は、地上の体だけではなくて、天上の栄光に輝く体をも造られたお方であるのです。創世記の第一章によりますと、神は第4の日に、太陽と月と星々をお造りになりました。そうであれば、神が私たちのために、天にふさわしい栄光の肉体を与えてくださるはずではないか、とパウロは言いたいわけです。
42節、43節をお読みします。
死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
パウロは「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」と聞く者たちに対して、蒔かれた種に神が御心のままに体を与えられること、また、それぞれの生き物に生活空間に適した違う肉体が与えられていること、さらには天上の体の栄光と地上の体の栄光が異なっていることを記してきました。そして言うのです。「死者の復活もこれと同じです」。このパウロの論理展開に、皆さんはついて行けるでしょうか?ここで、パウロは神の創造の御業を前提にして、復活について語っているわけです。つまり、復活信仰の前に、創造信仰があるわけです。ですから、神の創造の御業を信じていない人には、「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」は皆目見当もつかないわけです。私たちは神の創造の御業を信じ、この世界と自分が神によって造られたことを信じて、そして、死者の復活を信じているわけです。そのとき、私たちは、「死者の復活もこれと同じです」というパウロの言葉が、腹の中にはまるのです。つまり、死者の復活とは、新しい世に生きるためのふさわしい肉体を与えられることを信じることであるわけです。そのような意味で、復活は新しい創造であると言えるのであります。パウロは記します。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」。ここでの「蒔かれる」とは墓の中に葬られるということです。やがて墓に葬られる私たちの肉体は、朽ちるものであり、卑しいものであり、弱いものであります。しかし、キリストが再び来られるとき、私たちは朽ちない、輝かしい、力強い肉体に復活するのです。私たちは神の国にふさわしい肉体を与えられるのです(15:50参照)。
私たちは、今と同じ肉体で復活するのではありません。もちろんこの私が復活するのですが、その存在は新しい存在となっているのです。私たちは、初穂であるキリストと同じように、朽ちない、輝かしい、力強いものへと復活するのです。ですから、私たちにとって死者の復活は希望であるのです。そして、その希望の確かさを、私たちは神が造られたこの世界の中に見ることができるのです。