復活を信じる生き方 2012年9月09日(日曜 朝の礼拝)
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復活を信じる生き方
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 15章29節~34節
聖書の言葉
15:29 そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。
15:30 また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。
15:31 兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。
15:32 単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、/「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。
15:33 思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。
15:34 正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。コリントの信徒への手紙一 15章29節~34節
メッセージ
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前回、私たちは、キリストが私たちの初穂として復活したこと。また、初穂であるキリストが来られるときに、キリストに属している人たちが復活し、世の終わりが来ることを学びました。世の終わりには、最後の敵である死が滅ぼされ、「神がすべてにおいてすべてとなる」という完全な神の御支配が実現することを学んだのであります。今朝の御言葉はその続きでありまして、パウロは再び死者の復活を否定する者たちを念頭においてこのところを記しております。
29節をお読みします。
そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。
「そうでなければ」とありますが、これは前回学んだ20節から28節までのことがなかったら、ということであります。ひと言で言えば、「死者が決して復活しないのなら」ということです。パウロは、「死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか」と記しておりますが、当時、コリントの信徒たちの中に「死者のために洗礼を受ける人たち」がいたようであります。この「死者のための洗礼」については様々な解釈があり、確かなことは分かりません。そのことをお断りして、私の解釈を2つほど申し述べたいと思います。「死者のために洗礼を受ける人たち」の「死者」とはこれまでの議論からすれば、「キリストを信じて眠りについた人たち」のことを指しています。18節に、「そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです」と記されていたように、コリントの信徒たちの中には、キリストを信じて既に眠りについた人たちがいたのです。そのキリストを信じて眠りについた人たちと再会したという動機から、洗礼を受けた人たちがいたのではないかと私は思います。もちろん、洗礼はイエスは主であると信じて、自らの救いのために受けるものでありますが、キリストを信じて眠りについた人たちと再会したいと願う心が、一つの動機付けになるということがあると思います。キリストを信じて眠りについた人たちと再会することを願って洗礼を受ける人たちがいた。これが私の一つの解釈であります。
もう一つの私の解釈は、「ために」と訳されている言葉を「代わって」と翻訳して、「死者にかわって洗礼を受ける人たち」と読む解釈です。ここでも「死者」は文脈から「キリストを信じて眠りについた人たち」のことを指しています。キリストを信じていたにもかかわらず、洗礼を受けずに死んでしまった人たちがいた。その人たちに代わって、代理で洗礼を受ける人たちがいた。これが私の二つ目の解釈です。
キリストを信じて眠りについた人に再会するために洗礼を受ける人たちがいた。あるいは、キリストを信じて洗礼を受けないまま眠りについた人に代わって洗礼を受ける人たちがいた。どちらの解釈を取るにしても、ここで前提とされていることは、死者が復活するということです。コリントの信徒たちの中には、「死者の復活などない」と言っている人たちもいれば、復活を信じて「死者のために洗礼をうける人たち」もいたのです。その事実を突きつけて、パウロは、「死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか」と問うのです。誤解のないように申しますが、ここでパウロは、「死者のために洗礼を受ける」ことの是非(よしあし)については述べておりません。ただ、コリントの教会に見られた「死者のための洗礼」に言及することによって、死者が復活しないという主張が現実の行いにそぐわないことを示しているのです。
このような論証の仕方を、かつて主イエスもいたしました。ルカによる福音書の第11章に、「ベルゼブル論争」というお話が記されています。イエス様が悪霊を追い出しておられると、群衆の中に「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者がおりました。そのような者に、イエス様は次のように言われたわけです。「わたしが、ベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で悪霊を追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」。これと同じ論法で、パウロも、死者の復活などないという主張するある者たちに、「死者のために洗礼を受ける人たち」が、あなたがたを裁く者となると言っているわけです。
30節から32節までをお読みします。
また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と戦ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。
パウロは、29節では第三者である彼らについて記していましたが、ここでは「わたしたち」と自分たちのことを記しています。自分たちのことを引き合いに出して、死者が決して復活しないのなら、「なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか」と問うのです(4:9~13、二コリント11:16~33参照)。また、パウロは31節で、「わたしは日々死んでいます」とさえ記しています。「兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます」。ここでの「主キリスト・イエスに結ばれて持つ、あなたがたに対する誇り」とは何でしょうか?それはパウロがイエス・キリストの使徒して、コリントの信徒たちのために誰よりも多く働いたということであります(二コリント11:23参照)。パウロはキリストの使徒として、コリントの信徒たちのために日々死んでいる、死を覚悟しなけれならない日々を送っていたのです。
さらに、パウロは、「単に人間的な動機からエフェソで野獣と戦ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう」と記します。ここで「人間的な動機から」と訳されている言葉は、直訳すると「人間に従って」となります。「死者の復活などないという人間の考え方に従って」ということです。この「野獣と戦った」という言葉が、文字通りのものか、それとも比喩であるのかは意見の分かれるところですが、私としては比喩であると解釈したいと思います。パウロは「反対者たち」を「野獣」に譬えて、その戦いの熾烈さを強調しているのです。このエフェソでの体験が、コリントの信徒への手紙二の第1章8節以下に記されていると考えられています。そこにはこう記されています。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」。なぜ、パウロはエフェソで野獣と戦うことができたのか。それは死者を復活させてくださる神を頼みとしていたからであったのです。このように、パウロがいつも危険を冒し、日々死んでいると言える歩みを成し得たのも、死者が必ず復活するからであるのです。もし、死者の復活がなかったら、いつも危険を冒し、日々死んでいるような使徒としての働きも、エフェソで野獣と戦ったことも何の益もないことになります。それこそ、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになるわけです(イザヤ22:23参照)。死者が復活しないとしたら、この地上の生涯がすべてであることになります。そうであれば、生きている間に楽しめという刹那的な生き方になってしまうとパウロは言うのです。
33節、34節をお読みします。
思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。
パウロはコリントの信徒たちに、「思い違いをしてはいけない」と命じます。このところは「惑わされてはいけない」とも訳すことができます。つまり、パウロは、コリントの信徒たちが、「死者の復活などない」と主張する者たちに、惑わされないように、惑わされて思い違いをしないようにと警告しているのです。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」という言葉のとおり、死者の復活を否定する者たちとの交わりは、死者の復活を信じる者たちの善き生活を破壊してしまうのです。パウロは、「正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない」と記していますが、このことは、死者の復活を否定する者たちが、この地上の生活がすべてであると考えて、罪を犯していたことを暗示しています。コリントの教会には、父の妻をわがものとしている者、娼婦と交わる者など、みだらな罪を犯している者たちがおりました(5:1、6:15参照)。そのことも「死者の復活がない」という主張と関係があったのかも知れません。死者の復活を否定することは、言い換えれば、死後の裁きがないということであります。死者の復活を信じる者は、死後の裁きを信じる者であるのです。パウロは、アレオパゴスの説教で、次のように言っています。「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」(使徒17:30,31)。このように、死者の復活と死後の裁きは一体的な関係にあるのです。ですから、死者の復活がなければ、死後の裁きもないわけです。ですから、罪ということを考えるとき、それは神に対してのことではなく、人間社会の中でのことだけに限定して考えるわけです。当時のギリシャの社会において、娼婦と交わることは罪ではありませんでした。しかし、神に対しては罪であるわけです。それゆえ、死者の復活を信じる者は、死後の裁きを心に留めて、みだらな行いを避けねばならないわけです(6:18参照)。死者の復活を信じる者は、正気になって身を正し、罪を犯してはならないのです。
死者の復活などないと主張するある者たちは、自分たちは知識を持っていると誇っていました。彼らはその知識によって、復活は霊的な事柄であり、自分たちはすでに復活の祝福にあずかっていると考えていたのです。しかし、パウロは、そのような者たちを「神について何も知らない人たち」と断言します。死者の復活を否定することは、突き詰めて言えば、神について何も知らないということであるのです。かつて、主イエスも、復活を否定したサドカイ派の人々に次のように言われました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。主イエスが、死者の復活を否定するサドカイ派の人々に、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言われたように、パウロも、死者の復活を否定する者たちに、「あなたたちは神について何も知らない」と言うのです。死者の復活を否定する者は、結局は神について何も知らないことを自ら暴露してしまっているのです。なぜなら、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であるからです。この地上の間だけ、神は私たちの神であられるのではありません。死んだ後も、神は私たちの神であられるのです。そして、神は私たちの神として、私たちを死者の中から復活させてくださるのです。その初穂として、神はイエス・キリストを復活させてくださったのであります。
私たちは死者の復活を信じる者として、正気になって身を正し、罪を犯さないようにしたいと願います。そのような生き方を通して、私たちが死者の復活を信じる者たちであることを世の人々に証ししてゆきたいと願うのであります。