キリストにあってすべての人が生かされる 2012年9月02日(日曜 朝の礼拝)

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キリストにあってすべての人が生かされる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コリントの信徒への手紙一 15章20節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
15:22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
15:23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、
15:24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。
15:25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
15:26 最後の敵として、死が滅ぼされます。
15:27 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。
15:28 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。コリントの信徒への手紙一 15章20節~28節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、「死者の復活などない」というある者たちの主張がどのような結末へと私たちを導くかを学びました。死者の復活を否定することは、キリストの復活を否定することであり、もし、キリストが復活しなかったのなら、私たちの信仰は空しく、私たちは今なお罪の中にあることになるのです。19節でパウロが記しているように、もしキリストが復活しなかったならば、この世の生活でキリストに望みをかけている私たちはすべての人の中で最も惨めな者であるのです。しかし、これは仮の話でありまして、実際はキリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられたのでありました。

 20節をお読みします。

 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

 キリストの復活、それは眠りについた人たちの初穂としての復活でありました。ここでの「眠りについた人たち」とは、イエス・キリストを信じて眠りについた人たちのことを指しています。ここでパウロは、キリストを信じて眠りについたキリスト者のことについて論じているのです。また、「初穂」とは最初の収穫のことでありまして、後に続く実りを保証するものであります。キリストの復活は、キリストを信じて眠りについた者たちが復活することを保証する初穂としての復活であったのです。パウロは17節で、キリストが復活しなかったという仮定に立って、「そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人も滅んでしまったわけです」と記しましたが、しかし、実際はキリストは復活したのですから、キリストを信じて眠りについた人たちも復活することになるわけです。なぜ、パウロはこのようなことを記すことができたのでしょうか?その根拠が21節、22節に記されています。

 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

 私たちは死ぬことを自然なこと、当然なことと考えがちですが、パウロは、「死が一人の人によって来た」と記します。この一人の人とは最初の人「アダム」のことです。創世記の第3章に記されているように、最初の人アダムが、神の掟に背き、罪を犯したことによって、人は死すべきものとなってしまったのです。創世記の第5章に、「アダムの系図」が記されております。そこにはたとえ何百年生きようとも、「そして、死んだ」と記されています。アダムの系図は、アダムにあって死がすべての人に及んだことを私たちに教えてくれているのです。そもそも神様が造られた良き世界に、死はその場所を持ちませんでした。死は一人の人、アダムによってもたらされ、そしてすべての人に及んだのであります。そして、それと同じように、「死者の復活も一人の人によって来る」とパウロは語るのです。ここでの「一人の人」とは、キリストのことであります。キリストは、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられました。それゆえ、神はキリストを死者の中から復活させられ、この方にあってすべての人が生かされるようになることを示されたのです。ここで「生かされるようになる」と訳されている動詞は未来形で記されています。つまり、ここでパウロは、「キリストにあってすべての人が復活するであろう」と記しているのです。22節の「アダムによって」、また「キリストによって」とある「よって」という言葉は、むしろ「あって」と訳すべき言葉です。英語で言えばインであります。ですから、ここではアダムとの結びつき、またキリストとの結びつきが問題とされているわけです。アダムとの結びつきは、生来の結びつきであります。私たちは罪を犯したアダムの子孫として、罪を持って生まれてくるわけです。その私たちがキリストに結びつくためには、どうすればよいのでしょうか?それは告げ知らされている福音のとおりに、イエス・キリストを信じることです。つまり、キリストにあってすべての人が生かされることになる、「すべての人」とはキリストを信じて、キリストに属している人たちのことであるのです。アダムにあって死ぬことになったすべての人は、まさに全人類であります。しかし、キリストにあって生かされることになるすべての人は、キリストを信じるすべての人であるのです。

 しかし、そうは言っても、キリストを信じる人も死んでしまったではないか。キリストは死から三日目に復活されたけれども、キリストを信じて眠りについた人は眠ったままではないか。このような疑問がわいてくると思います。そのような疑問を背景にしつつ、パウロは23節以下を記しているのです。

 23節から26節までをお読みいたします。

 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、ついで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。

 パウロは、キリストにあってすべての人が生かされることになるであろうと記しましたが、続けて、その順序について記します。キリストを信じて眠りについた者たちもキリストと同じように、死から三日目に復活するのではありません。「一人一人にはそれぞれ順序がある」のです。「最初にキリスト」とありますが、ここで「最初」と訳されている言葉は、20節で「初穂」と訳されていたのと同じ言葉です。ちなみに新改訳聖書は、「まず初穂であるキリスト」と翻訳しています。最初に初穂としてキリストが復活されました。そして、次に、キリストが来られるときに、キリストに属している人たちが復活するのです。キリストを信じて眠りについた者たちは、キリストが来られるときまで、眠りについたままであるのです。ですから、キリストを信じて眠りについた者たちが、キリストと同じように死から三日目に復活しないからといって、「死者の復活などない」と言ってはなりません。キリストを信じて眠りについた人たちは、初穂として復活したキリストが再び来られるときに、復活するのです。そして、ここに見ないで信じる私たちの信仰が求められるのです。パウロは「次いで、世の終わりが来ます」と記しておりますが、ここではキリストに属していない者たちの復活については教えられておりません。パウロの議論の関心は、あくまでキリストを信じて眠りについた者たちの復活にあるからです。「世の終わり」には、どのようなことが起こるのでしょうか?パウロは、「そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます」と記しています。ここでパウロはユダヤの黙示文学の言葉を用いております。「すべての支配、すべての権威や勢力」は、すべての人や事柄の背後に働く悪しき諸霊のことを指しています。世の終わりには、キリストはすべての悪しき諸霊を滅ぼし、父である神に、その御支配を引き渡されるのです。このことは、復活したキリストが天に上げられ、父なる神の右に座して、すでに全世界とあらゆる領域を御支配しておられることを前提にしています。パウロはそのことを詩編第110編を引用して、「キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです」と記しています。詩編の110編1節に、「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう」とありますが、神はイエス様を御自分の右の座に就け、天と地の一切の権能を委ねられているのです。ですから、今すでに、すべての支配、すべての権威や勢力は、キリストの支配の下にあります(エフェソ1:20、21参照)。しかし、それらのすべてが滅ぼされるのは、キリストが来られる世の終わりであるのです。そして、世の終わりには、最後の敵として死が滅ぼされるのです。初穂であるキリストが来られるとき、キリストに属するすべての人が復活することによって、死は命にのみ込まれるのです。キリストの王国において、死はもはや場所を持たないのであります。ここで死が「最後の敵」と言われていることは興味深いことです。パウロは25節で、「キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです」と記しましたが、このすべての敵の最後の敵こそが、死であるのです。死が最後の敵であるということは、キリストのもたらす救いが、死からの救いであるということを教えております。マタイによる福音書は、イエス様が「自分の民を罪から救う」と記しておりますが、罪から救うことと、死から救うことは、一体的なことであります(マタイ1:21参照)。なぜなら、罪の支払う報酬は死であるからです(ローマ6:23参照)。しかし、私たちは死を最後の敵として考えたことがこれまであったでしょうか?おそらく、なかったと思います。なぜなら、死は当然のこととして受け入れなくてはいけない、私たちにとって力あるものであったからです。しかし、キリストが死者の中から復活したことによって、私たちは死を最後の敵として理解し、死に勝利する希望が与えられたのです。イエス・キリストは死者の中からの復活によって、死に勝利されました。キリストは勝利者として死者の中から復活されたのです。ですから、私たちはキリストにあって死に勝利した者として眠りにつくことができるのです。そして、キリストが来られるとき、私たちは死者の中から復活することによって、最後の敵としての死が滅ぼされたことを身をもって知ることができるのです。

 27節、28節をお読みします。

 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させられた方自身が、それに含まれていないことは、明かです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。

 ここでパウロは詩編第8編を引用していますが、「すべて」の中には、最後の敵である死が含まれると記しております。しかし、そのすべてに含まれない方がおられる。それが、キリストの足の下にすべてを服従させられたお方、父なる神であられます。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった父なる神に服従されます。そのようにして、キリストは神の子としてすべての支配を父なる神に引き渡されるのです。そのようにして、「神がすべてにおいてすべてとなられる」という神の完全な御支配が実現するのです。私たちにはこのような希望が与えられているのです。復活の希望は、最後の敵である死が滅ぼされ、神がすべてにおいてすべてとなられるという希望へとつながっているのです。キリストにあって与えられている希望は、私たちの想像を遙かに越えた大きな希望であるのです。

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