死者の復活がなければ 2012年8月26日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。
15:13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
15:14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
15:15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。
15:16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。
15:17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
15:18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。
15:19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。コリントの信徒への手紙一 15章12節~20節

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 今朝はコリントの信徒への手紙一の第15章12節から20節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 12節をお読みします。

 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。

 パウロは、第15章で、キリストの復活について記しておりますが、それは、コリントの信徒たちの中のある者が「死者の復活などない」と言っていたからであります。パウロはその誤りを正すために、1節から11節で、コリントの信徒たちに告げ知らせた福音を、もう一度知らせたのでありました。11節に、「とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした」とありますが、ここでの「彼ら」とはパウロ以外の使徒たちのことであります。この手紙の第1章を見ますと、コリントの教会には、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」といった分派争いがあったことが記されておりましたけれども、パウロにしても、アポロにしても、ケファにしても皆、同じ福音を宣べ伝えたのです。そして、コリントの信徒たちはその福音を信じたのであります。その福音については、3節から5節までに次のように記されておりました。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。これがエルサレム教会を起源とする最も短い福音伝承であります。この福音をコリントの人々は信じたのです。ですから、彼らは「キリストが聖書に書いてあるとおり復活したこと」を信じたのであります。しかし、そのコリントの信徒たちの中のある者が、「死者の復活などない」と言っていたのです。続く13節に、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」とありますから、コリントの信徒たちの中のある者たちは、「キリストは死者の中から復活した」ことはどうやら信じていたようであります。しかし、彼らは、キリストを信じる者である自分たちが死者の中から復活することは信じることができなかったのです。彼らはキリストの復活を信じても、キリストを信じる者たちの復活を信じられず否定していたのです。死者の復活などないと言っていた人たちがどのような人たちであったのかは分かりませんが、ギリシャ人であるコリントの信徒たちにとって、死者の復活はそもそも受け入れにくい教えでありました。使徒言行録の第17章に、パウロがアテネのアレオパゴスで説教したことが記されています。そこでパウロが死者の復活について語ると、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った、と記されています。ギリシャ人に多く見られる考え方からすれば、救いとは霊魂が肉体という牢獄から解放されることでありました。そのような彼らにとって死者の復活は救いではないわけです。しかし、コリントの信徒たちは、パウロから福音を聞いて、キリストの復活を信じ、また、死者の復活も信じたのでありました。その信じたはずのコリントの信徒たちの中から、「死者の復活などない」と言う者たちが出てきたのです。おそらく、この者たちは、自らを「霊の人」と呼び、天使の異言を語ることができる復活の祝福に、今既にあずかっていると主張する者たちではないかと思われます。つまり、彼らは復活を霊的に捉えて、キリストを信じて、聖霊によって新しく生まれることを、死者の復活と理解したと考えられるのです。いずれにしましても、キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのにもかかわらず、コリントの信徒たちの中のある者は、死者の復活を否定していたのです。そして、それは第15章全体を読むと分かりますように、体の復活の否定であったのです。ある者たちは、死者の復活を霊的な事柄と考え、体の復活を否定していたのであります。

 13節から15節までをお読みします。

 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。

 ある者たちは、キリストの復活は信じても、死者の復活は信じませんでした。彼らは、キリストの復活はあるが、死者の復活はないと主張していたのです。彼らは、キリストの復活と死者の復活を分けて、分離して考えていたわけです。しかし、パウロは、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と記します。パウロは、死者の復活とキリストの復活を、切り離さずに一体的に捉えているのです。この場合の「死者」とは、「キリストを信じて眠りいついた者たち」を指しています。死んだ人間は復活するかという一般論ではなく、キリストを信じて死んだ人間のことがここでは問題となっているのです。どうも、パウロはコリントの信徒たちに、復活についてそれほど教えていなかったようであります。それは、パウロがキリストの再臨が近いと考えていたことと関係があるようです(7:26,29参照)。パウロが最初に記したテサロニケの信徒への手紙一を見ますと、第4章にこう記されています。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知ってほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。これに続けてパウロは、主が来られる日の復活について記すわけです。このようにパウロは、テサロニケの信徒たちに、またコリントの信徒たちにも、復活について詳しく教えていなかったようなのであります。ですから、パウロはこの手紙の第15章で、キリストの復活について、またキリストを信じる者たちの復活について、詳しく教えているのです。第15章は、復活について最も詳しく記してある個所でありまして、私たちは、ある者たちの間違いや疑問のおかげで復活について知ることができるわけです。

 パウロは、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と記しておりますが、それはなぜでしょうか?それは20節にありますように、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」からです。初穂とは最初の実りであり、その収穫の品質を保証するものであります。キリストは御自分を信じて眠りについた者たちの初穂として、最初の実り、保証として復活させられたのです。前回も申しましたように、「キリストは復活した」と訳されている言葉は、直訳すると「キリストは復活させられている」となります。「復活する」という動詞の受動態の完了形で記されているのです。ですから、キリストが、どっこらしょと、自分で起き上がったのではなくて、神によって、キリストは死者の中から起こされたのです。そして、起こされたキリストは、今も起きておられる。復活させられたキリストは、今も生きておられるわけです。神はなぜ、キリストを復活させられたのか?それはキリストを信じる者たちが同じように死者の中から復活することを示し、保証するためであるのです。

 パウロは、14節以下で、ある者たちの主張に立って、死者が復活しないという仮定に立って、その主張がどれほど恐ろしい結論へと私たちを導くかを記します。死者の復活を否定すること、それはキリストの復活を否定することであり、もし、そうであれば、パウロたちの宣教も、コリントの信徒たちの信仰も無駄となってしまうのです。パウロは2節で、「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」と記しておりましたが、死者の復活を否定することは、キリストの復活を否定することであり、信じたこと自体を無駄にしてしまうことであるのです。そればかりか、もしキリストが復活しなかったならば、パウロたちは神の偽証人とさえ見なされるのです。なぜなら、復活しなかったキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。私たちはここから、パウロが生ける神への畏れを持って、福音を宣べ伝えていたことを教えられます。パウロは、信じることが尊いのであって、信じている内容はどうでもよいとは考えませんでした。パウロにとって、宣べ伝えている内容そのものが大切であり、真実でなくてならなかったのです。なぜなら、パウロが宣べ伝えている福音は、歴史の事実であり、神がキリストについてなされた証しであったからです。神はナザレのイエスを死者の中から復活させることにより、イエスが罪のないお方であり、約束の救い主であることを証しされたのです。

 16節から20節までをお読みします。

 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

 パウロは、死者の復活とキリストの復活が一体的であることを再度強調した後で、「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」と記します。キリストが復活しないということは、キリストがどこかで朽ちててしまったということです。また、キリストが復活しないということは、キリストが今も生きておられることを否定することでもあります。キリストの復活を否定することは、キリストが天に上げられ、父なる神の右に座して、預言者、祭司、王として働いておられるということを否定することでもあるのです。ですから、キリストが復活しなかったら、私たちはどこかで朽ちてしまったキリストを信じているということになります。これほど空しいこと、力のないことはありません。また、そうであるならば、私たちは今もなお自分の罪の中にあるわけです。私たちは、イエス・キリストを信じて、すべての罪が赦され、神の御前に正しい者とされていると信じております。それは、神がキリストを十字架の死から復活させられたからです。神はキリストを十字架の死に引き渡し、死者の中から復活させることによって、キリストを信じる者はすべての罪が赦され、正しい者とされることを示されたのです。このことをパウロは後にローマ書の第4章25節で次のように言い表しました。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」。キリストの復活は、十字架の死によって、私たちのすべての罪が贖われたことの保証であり、私たちがやがてあずかるところの希望であるのです。しかし、ある者たちが主張しているように、キリストの復活がなかったら、私たちはなお自分の罪の中にあることになるのです。

 パウロは更に論を進めます。18節、「そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです」。第11章30節にありましたように、コリントの信徒たちの中にはすでに眠りについた者たちがおりました。しかし、もし死者の復活がなく、またキリストの復活がなかったのなら、キリストを信じて眠りについた人々は滅んでしまったことになります。彼らの罪はキリストによって贖われていないわけですから、彼らは「自分の罪の内に死ぬことになる」わけです(ヨハネ8:24参照)。ですから、19節にありますように、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者」となるのです。このように、死者の復活を否定することは、福音を破壊し、信仰を空しくし、キリスト者を最も惨めな者とするのです。このような結論を、死者の復活を否定するある者たちも到底受け入れられなかったと思います。

 ここまでは仮定に基づいての話でしたが、しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられたのです。神はキリストを復活させられ、キリストは今も生きておられるのです。ですから、福音はまさしく喜びの知らせであり、私たちの信仰は力があり、キリスト者は最も幸いな者であるのです。キリストの復活が、キリストを信じる私たちの復活と一体的な関係にあることを、キリストが私たちの初穂として復活されたことを、私たちは今朝、心に留めたいと願います。

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