あなたを救う福音 2012年8月19日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

15:1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。
15:2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。コリントの信徒への手紙一 15章1節~5節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝から第15章に入ります。第15章は復活について記している、長い章であります。12節に、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」とありますように、コリント教会の中には死者の復活を否定する者たちがおりました。それでパウロは、かつて自分が告げ知らせた福音をもう一度知らせることから始めるのであります。

 1節、2節をお読みします。

 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。

 パウロがコリントで宣教したことは、使徒言行録の第18章に記されています。パウロは、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」との主のお言葉に励まされて、一年六か月の間、コリントにとどまって、人々に神の言葉を教えたのでありました。そのかつて告げ知らせた福音を、パウロは「ここでもう一度知らせます」と記すのです。新しいことを教えようと言うのではありません。コリントの信徒たちがすでに受け入れ、生活のよりどころとしている福音をここでもう一度知らせるというのであります。「生活のよりどころとしている福音」とありますが、新改訳聖書は「それによって立っている福音」と翻訳しています。受け入れた者にとって、福音は生活のよりどころ、立つべき土台であるのです。なぜ、パウロはかつて告げ知らせた福音を、もう一度知らせるのか。それは、パウロがどんな言葉で福音を告げ知らせたかを、コリントの信徒たちがしっかりと覚えていなかったからです。コリント教会の中のある者が、「死者の復活などない」と言っている以上、パウロはそのように判断せざるを得ないのであります。「信じる者は救われる」と言いますが、何を信じるか、信じている内容が決定的に重要であるのです。パウロは、「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」と記しております。この言葉は、福音を受け入れ、生活のよりどころとしている私たちにとっても力強い言葉ではないでしょうか?福音には私たちを救う力があるのです。このパウロの確信が、後にローマの信徒への手紙第1章16節で、次のように語られます。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。私たちは福音によって救われているのです。しかし、その福音がどんな言葉であったかを忘れてしまうならば、信じたこと自体が無駄になってしまうのです。ですから、私たちも、パウロがどのような言葉で福音を告げ知らせたかを今朝もう一度確認したいと思います。

 3節から5節までをお読みします。

 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」の「伝えた」、「受けた」は、伝承の継承を表す専門用語であります。つまり、パウロが告げ知らせた福音は、パウロが考え出したものではなく、ケファ(ペトロ)を筆頭とする十二人から、すなわちエルサレム教会から受けて、コリントの教会に伝えたものであるのです。よって、ここには初代教会の最も古い信仰告白文が記されているのです。そして、ここにパウロが受けて、コリントの信徒たちに伝えた最も大切なことが記されているのです。「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」。ここでは、「イエス」ではなくて、「キリスト」と言われています。「キリスト」は、ヘブライ語の「メシア」のギリシャ語訳ですが、「油注がれた者」という意味であります。イスラエルにおいて、王や大祭司は任職する際、頭に油を注ぐという儀式をいたしましたが、イエス様の時代には、王や大祭司の職務を兼ねた究極的な「救い主」を意味する言葉として用いられていました。人々はメシア、救い主の到来を待ち望んでいたのです。しかし、当時の人々には、民の罪を担って死んでしまうメシアという概念はありませんでした。パウロが、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」と記すとき、その聖書とは、何よりもイザヤ書第53章であったと思われます。イザヤ書第53章は「苦難の僕」の預言でありますが、このところとメシアと結びつけて読むということはありませんでした。しかしイエス様は、イザヤ書第53章をメシアと結びつけて、すなわち御自分と結びつけて読まれたのです。そして、そのように弟子たちに教えられたのであります。イザヤ書第53章5節から8節までをお読みしたいと思います。

 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せらて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。

 イエス様は、この苦難の僕として、私たちの罪のために、十字架の上で死んでくださいました。イエス・キリストは、御自分の民を罪から救うために、聖書に従って、自ら進んで十字架の死を死んでくださったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。

 パウロはキリストの死に続けて、「葬られたこと」を挙げています。墓に葬られたことは、キリストが確かに死んだことを証ししています。キリストは死者の世界である陰府にまで降られたお方であるのです。

 次にパウロはキリストの復活について記しています。「また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」。ここでも「聖書に書いてあるとおり」と記されています。このことから、パウロが受け、告げ知らせた福音の中心は、キリストの死と復活であると理解してよいと思います。聖書、旧約聖書に書いてあるとおり、キリストが私たちの罪のために死に、三日目に復活されたことこそ、福音、良き知らせの核心であるのです。ここでの聖書がどの箇所を指しているのかは分かりませんが、詩編16編などが考えられます。なぜなら、使徒言行録を見ますとペトロもパウロも詩編16編を引用して、キリストの復活を説き明かしているからです。詩編16編8節から11節までをお読みします。

 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。体は安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず/命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。

 このダビデの言葉は、死から三日目に復活したキリストにおいて実現したのです。

 今朝の御言葉に戻ります。

 「また、キリストが聖書にかいてあるとおり三日目に復活したこと」の「復活したこと」はもう少し丁寧に翻訳すると、「起こされていること」となります(岩波訳参照)。ここでは「起こす」という動詞の現在完了形の受動態が用いられています。ということは、キリストは復活したのではなくて、神様によって復活させられたのです。しかも復活させられたキリストは、今も生きていることを表しているのです。現在完了形は、ある動作が過去において完了して、その結果が現在に続いていることを表しますから、神様によって死者の中から起こされたキリストは、今も生きておられるのです。キリストが神によって復活させられたことを覚えるとき、聖書にしたがって事を為してくださったのが神様であることが分かります。神様がキリストを死者の中から起こされたゆえに、キリストの死が聖書に書いてあるとおり私たちの罪のためであったことが分かるのです。先程わたしは、福音の中心はキリストの死と復活であると言いましたけれども、もっと言えば、キリストの復活であります。神様がキリストを聖書に書いてあるとおり三日目に復活させられたことによって、私たちはキリストの死が、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のためであったと言うことができるのです。先程は、イエス様の死を預言するものとしてイザヤ書第53章を読みましたけれども、実はここにはイエス様の復活も預言されているのです。イザヤ書第53章9節から12節までをお読みします。

 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。彼は自らの償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 イエス様は最後の晩餐の席で、12節の御言葉を引用して、次のように言われました。「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」。イエス・キリストの死が、私たちの罪のためであったとどうして言えるのか?それは神様がイエス・キリストを、三日目に復活させたからです。神様はナザレのイエスを十字架の死から三日目に復活させることにより、イエスこそキリスト、救い主であると確証されたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。

 復活されたキリストは、「ケファに現れ、その後十二人に現れました」。そのようにして、キリストは御自分において聖書の預言がことごとく実現したことを弟子たちに示されたのです。ケファとはペトロのことですが、復活されたキリストはまずペトロに現れてくださいました。それはペトロがイエス様が捕らえられた夜に、イエス様のことを三度知らないと言って、イエス様との関係を完全に断ってしまったからです。そのようなペトロのもとを、復活されたキリストはまず最初に訪れてくださいました。そのようにして、キリストはペトロをもう一度立ち上がらせてくださったのです。また、復活されたキリストは十二人に現れてくださいました。十二人とはイエス様が使徒として選ばれた弟子たちのことでありますが、彼らもイエス様が捕らえられた夜に、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。しかし、復活されたイエス・キリストは、その十二人に現れてくださり、御自分が聖書の預言していたキリスト、救い主であることを示されたのです。ちょうど、葬りがキリストの死を証しするように、キリストがケファと十二人に現れたことは、キリストの復活を証ししているのです。このように私たちが受け入れ、生活のよりどころとしている福音は、キリストの死と復活を、何よりキリストの復活を内容としているのです。そして、ここに、信じる者すべてを救う神の力、神の知恵があるのです。私たちはこの福音によって救われているのです。私たちの罪のために十字架の上で死んでくださり、神様によって復活させられたイエス・キリストにあって、私たちは救われているのです。福音そのものに、信じる者を救う力があります。そのことを信じて、私たちも受けた福音を、一人でも多くの方に伝えていきたいと願います。

  

関連する説教を探す関連する説教を探す