秩序正しい礼拝 2012年7月29日(日曜 朝の礼拝)
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秩序正しい礼拝
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 14章33節~40節
聖書の言葉
14:33 聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、
14:34 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。
14:35 何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。
14:36 それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。
14:37 自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。
14:38 それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。
14:39 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。
14:40 しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。コリントの信徒への手紙一 14章33節~40節
メッセージ
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今朝はコリントの信徒への手紙一第14章33節後半から40節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
33節後半から36節までをお読みします。
聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。
パウロは、「聖なる者たちすべての教会でそうであるように、婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません」と記しております。現代の私たちがこのパウロの言葉を読みますと、女性蔑視もはなはだしいと思われるかも知れませんが、紀元1世紀の社会において、婦人たちは公の場で語ることが許されておりませんでした。そして、そのことは「聖なる者たちのすべての教会」においても同じであったのです。しかし、ここでパウロは、婦人たちに教会におけるあらゆる発言を禁じているのではないと思います。なぜなら、パウロは第11章5節で、次のように記していたからです。「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります」。パウロは第11章において、礼拝でのかぶり物について記しておりましたが、そこでは、女が祈ったり、預言したりすることが前提とされております。パウロは、女が礼拝において、祈ったり預言したりすることを前提にして、頭に物をかぶりなさいと命じているわけです。ですから、今朝の御言葉でパウロが、「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません」と記すとき、それは祈ったり預言したりすることではなくて、語られた預言を検討することにおいてであるのです。パウロは、29節で、「預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい」と記しておりましたが、預言を検討するにあたって、「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません」と記しているのです。パウロがこのように記したのには、記さずにはおれない事情がコリントの教会にあったからだと思います。すなわち、預言を検討する際の婦人たちの発言によって、礼拝が混乱していたわけです。前回学びましたように、神は無秩序ではなく平和の神であります。ですから、礼拝も秩序正しく行われることが求められるのです。しかし、コリントの教会では預言を検討する際に、婦人たちの発言によって秩序が乱され、混乱していたのです。ですから、パウロは「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません」と記したのです。
また、パウロは「律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい」と記しています。ここでの「律法」が狭い意味でのいわゆるモーセ五書であるのか、広い意味での旧約聖書を指しているのかは分かりません。また、どのような聖句が念頭に置かれているのかもはっきりとは分かりません。しかし、旧約時代は家父長制社会でありましたから、婦人たちに従うことが求められたのはよく分かることであります。
また、パウロはただ「黙っていなさい」というだけではなくて、解決策をも示しております。「何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい」。このパウロの言葉からも、「婦人たちは、教会では黙っていなさい」という命令が、教会におけるすべての発言を禁じるものではなく、預言を検討する際の無秩序な発言を禁じるものであったことが分かります。パウロは預言を検討する際に、むやみやたらと質問する婦人に対して、「何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい」と言うのです。主の日の礼拝において、わたしがお話している最中に、質問がなされるということはありませんが、子供の礼拝ですと、時々質問がありますね。質問が出るということは、お話している側にとって、うれしい面もありますが、あまりしつこく質問されると、「家でお父さん、お母さんに聞いてね」と答えて、話を進めます。それと同じような状況が今朝の御言葉の背後にあるのではないかと思うのです。
また、パウロは「婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです」と記しております。繰り返しになりますが、当時の社会において、公の場で、婦人が発言するのは恥ずべきことでありました。婦人にはだまっているか、夫を通して発言することが求められたのです。そして、このことは当時の教会の集まりにおいても同じように恥ずべきことであったのです。また、パウロは教会の中で発言する婦人に対して、「それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか」と問いかけます。そもそも、なぜ、コリント教会の婦人たちは当時の世の倣いに反して、教会でよく発言したのでしょうか?私はそれを知る手がかりが第11章の「礼拝でのかぶり物」のお話にあると思います。そこに記されているように、コリント教会の婦人たちは、当時の習慣に逆らって、頭にものをかぶりませんでした。当時の社会において、婦人は頭にものをかぶるのが習慣でありましたが、コリント教会の婦人たちは頭にものをかぶらなかったのです。そのようにして彼女たちは、自分たちはすでに完成された救いにあずかっており、天使のようになっていると主張していたのです。コリント教会の婦人たちは、「イエス・キリストにあって男も女もない」というパウロの教えを曲解し、頭にものをかぶらないことによって、自分たちが男女の違いを乗り越え、天使のようになっていると主張していたのです。けれども、キリスト者になっても、男と女の違いがなくなるわけではありません。そのことをパウロは第11章で言葉を尽くし語ったわけであります。そのようなコリント教会の婦人たちが、預言を検討する際にもよく発言して、男と女の違いを乗り越えようとしたと考えられるのです。パウロの「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません」という厳しい言葉は、教会の中で発言することによって、自分たちは男と女の違いを乗り越えていると主張する婦人たちに対して語られたものであるのです。それゆえ、パウロは、「それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか」と問いかけることによって、聖なる者たちのすべての教会と足並みを揃えるようにと訴えるのです。
私たちは、「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません」というパウロの言葉を紀元1世紀のコリントにある教会に対して語られた言葉であり、現代の私たちにも妥当する真理として聞く必要はないと思います。礼拝の中で、私が説教している最中に、発言したり、質問したりする者がいれば、それは男であっても黙るべきであるのです。男であっても、女であっても、そのようにして、礼拝の秩序を乱し、混乱させることは許されないことであるのです。今日は午後から、会員総会がございますが、どうぞ、婦人の方も安心して発言していただきたいと思います。
37節から40節までをお読みします。
自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。
このところは、霊的な賜物についてのまとめの言葉であります。パウロは第12章から霊的な賜物について記してきましたが、その結論がここに記されているのです。パウロは、「自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう」と権威をもって語ります。なぜなら、パウロはイエス・キリストから全権を委ねられた使徒であるからです(1:1参照)。自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っていても、パウロの言葉に主の命令を認めないならば、その人は主から認められないのです。つまり、預言する者でも、霊の人でもないのです。パウロはこれまで記してきたことを背景にして、コリントの信徒たちを「わたしの兄弟たち」と呼びかけ、「預言することを熱心に求めなさい」と命じます。預言こそ、教会を造り上げ、神の臨在を証しするものであるからです。しかし、パウロは、「異言を語ることを禁じてはなりません」とも記しています。「異言を語ることを求めなさい」とは記しませんが、異言を語ることを禁じてはならないとパウロは言うのです。なぜなら、異言も聖霊の賜物であるからです。そうは言っても、パウロは最後に釘をさしています。「しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」。これは具体的には、27節から30節に記されていたことであります。「異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいれば、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい」。このように、礼拝は適切に、秩序正しく行われるべきであるのです。
私たちは週報に記されている礼拝順序に従って礼拝をささげておりますが、この礼拝順序にもやはり意味があるわけです。礼拝とは「イエス・キリストを通しての神と人との会見」であります。ですから、礼拝は神の働きかけとそれに対する人の応答から成り立っています。礼拝は「招きの言葉」で始まりますが、それによって礼拝に私たちを招いてくださったのが神であり、この礼拝の主催者は神であることが示されるのです。私たちはその神の招きに賛美をもって答えるわけです。また、私たちは神によって礼拝に招かれた者として、罪を告白し、赦しを祈り求めるのです。またそれに対して神の側から、罪の赦しが宣言されるのであります。このように、礼拝はイエス・キリストを仲介者とする神と人との会見、交わりであるのです。礼拝式順はそのことを意識して構成されているのです。もちろん、この礼拝式順が完全であると言うわけではありません。礼拝式順、あるいは礼拝のあり方そのものが御言葉によって絶えず改革される必要があります。ある教会では、若者向けの礼拝を持ったり、初心者向けの礼拝を持ったりといろいろな工夫をしています。私たち日本キリスト改革派教会は、2008年に礼拝指針を改定し、「礼拝および教会活動の指針」として新しくいたしました。また、それに基いて、新しい礼拝式文を、今、作成しています。新しい礼拝式文には、いくつかの新しい礼拝式順が示されると思います。しかし、どのような礼拝式順となろうとも、キリスト教会の礼拝の原則は、すべてを適切に、秩序正しく行うことであるのです。