神は私たちの内におられる 2012年7月15日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
神は私たちの内におられる
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
コリントの信徒への手紙一 14章20節~25節
聖書の言葉
14:20 兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。
14:21 律法にこう書いてあります。「『異国の言葉を語る人々によって、/異国の人々の唇で/わたしはこの民に語るが、/それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』/と主は言われる。」
14:22 このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。
14:23 教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。
14:24 反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、
14:25 心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。コリントの信徒への手紙一 14章20節~25節
メッセージ
関連する説教を探す
今朝はコリントの信徒への手紙一第14章20節から25節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
20節をお読みします。
兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人となってください。
このパウロの言葉は、直前の19節を受けてのものであります。そこでパウロは、「わたしは他の人たちを教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」と記しておりました。このパウロの判断は大人の判断なのですね。パウロは「物の判断については子供となってはいけません」と記していますが、子供の判断とは、自己中心的な判断と言えます。コリントの信徒たちは異言を語る自分のことだけを考えて、聞く人を造り上げるかどうかには無関心であったわけです。しかし、パウロはそのようなコリントの信徒たちに「物の判断については大人になってください」と語るのです。大人の判断とは、自分だけではなくて、他の人に与える影響を考慮してくだされる判断のことです。異言で祈り、賛美しても、それを聞く人は「アーメン」と言うことができず、造り上げられないわけですから、大人の判断からすれば、異言よりも預言の方がまさっており、異言よりも預言を追い求めるべきであるのです。パウロの「わたしは他の人をも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」とは、そのような大人の判断であるわけです。
21節、22節をお読みします。
律法にこう書いてあります。「『異国の言葉を語る人々によって、異国の人々の唇で/わたしはこの民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』と主は言われる。」このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。
ここで「律法」とありますが、ここでの律法は狭い意味でのいわゆるモーセ五書ではなくて、広い意味での旧約聖書全体を指しています。ここでパウロは、イザヤ書第28章11節、12節を自由に引用しています。イスラエルの民は、イザヤを通して語られる主の御言葉をあざけり、耳を傾けませんでした。それゆえ、主は「異国の言葉を語る人々によって、異国の人々の唇で、わたしはこの民に語る」と言われるのです。ここでの「異国」は、北王国イスラエルを滅ぼすことになるアッシリア帝国のことであります。聞いて分かるイスラエルの言葉でも耳を傾けないイスラエルの民が、聞いても分からないアッシリアの言葉に耳を傾けないのは当然のことであります。そして、この当然のことを前提として、パウロは「このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです」と言うのです。ここはなかなか解釈の難しいところであります。「異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしである」。ここでの異言は、「異国の言葉」、「異国の人々の唇で語られる主の言葉」と対応しています。どうして、主はイスラエルの民に、異国の言葉で語られるのでしょうか?それはイスラエルの民が預言者イザヤの語る主の言葉、預言をあざけり、受け入れなかったからです。つまり、主が異国の言葉でイスラエルの民に語られることは、彼らの不信仰に対する主の裁きを意味しているわけです。それゆえ、パウロは「異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしです」と言うのです。異言は、聞く人を信じさせようとするものではなく、聞く人をいよいよ信じない者とするしるしなのです。こう聞きますと、異言は無益であるばかりではなく、有害であることが分かってきます。異言は信じていない者をそのまま放置するのではなくて、さらに信じない者とする裁きのしるしであるとパウロは言うのです。そのような裁きのしるしを熱心に求めることは、どう考えても大人の判断ではないわけですね。では、「預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです」はどうでしょうか?預言者イザヤによって語られた預言、聞いた人に分かる預言は、主を信じていない者のためではなく、主を信じる、主の民に与えられたしるしであるのです。ここでパウロは、目的からではなく、結果から記しております。預言は目的から言えば、信じていない者を信じさせるという面がありますけれども、しるしとしての結果から言えば、信じていない者ではなく、信じる者のためのしるしであるのです。それゆえ、預言は信じる者たちを主の民としていよいよ造り上げることができるのです。
23節から25節までをお読みします。
教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。
パウロは22節で、「異言は信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです」と語りました。このことをパウロはある状況を仮定することによって、論証しております。その仮定とは、「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か、信者でない人が入って来たら、どうであろうか」という仮定です。皆が異言を語ることは、コリントの教会が理想として追い求めていたことであります。その理想が現実となって、そこに教会に来て間もない人か、信者でない人が入って来たらどうでしょうか?「彼は『あなたがたのことが気が変だ』と言って、帰ってしまうでしょう」とパウロは言うのです。このように異言は、信じていない人を信仰から遠ざけていよいよ信じないようにさせるしるしであるのです。では逆に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たらどうでしょうか?パウロは、「彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」と言うのであります。これを読むと、何だやっぱり預言は信じていない者のためのしるしではないか、と思うかも知れません。しかし、そうではないのです。皆が預言しているところに来た、信者でない人か、教会に来て間もない人が、預言を預言として、すなわち神の言葉として聞くことができたのは、その人が信じる者の一員であったからなのです。言葉を換えて言えば、その人が神の選びの民であったからなのです。このように預言は、信じる者たち、すでに信者である者たちに対して語られた言葉であるのです。
私たちの教会では二ヶ月に一度、伝道礼拝をしています。その説教の準備において、わたしは初めての方にも分かってもらえることを願って準備をするのですが、そのとき、一つ心配に思うことは、新しい人は来ないのではないかということです。また、このようにも思います。初めての方が来るとして、その方に焦点をしぼって話をするならば、いつも来ている他の会員はどのような位置づけになるのだろうか?伝道礼拝の説教は、新しい方はよく聞かなければならないが、いつも来ている信者は聞かなくてもよろしいということなのだろうか?そもそも、はじめての方に分かる説教とは何か?このように考えていくと、何も語れなくなってしまうのでありますが、今朝の御言葉で教えられることは、預言に通じる説教は、信じる者、信者に対して語られるしるしであるということです。伝道礼拝の説教であろうと、そうでない主の日の説教であろうと、説教は信じる者たちに与えられているしるしなのです。そして、それゆえに説教を聞いた者たちは、説教者の祈りに「アーメン」と声を合わせるべきであるのです。コリントの教会の礼拝は、今の私たちとは違って、何人もの人が預言を語ったようです。預言の賜物も、異言の賜物と同様、今は止んでおりますけれども、それに通じる説教をするのは、私たちの教会では一人だけであります。わたし一人が説教をするわけです。しかし、その説教を聞いている皆さんも、実はわたしと共に説教をしているのです。それはどのようにしてかと言いますと、説教者のために祈り、説教に熱心に耳を傾け、その祈りにアーメンと唱和することによってであります。前回も申しましたように、「アーメン」とはヘブライ語で「真実です」とか「確かです」という意味の言葉であります。会衆は、説教者の祈りに「アーメン」と言うことによって、その御言葉の恵みを自分のものとするのです。もちろん、そこには「アーメン」を言わないという決断もあります。説教で語られている内容が、聖書の教えに反しているならば、会衆はその説教者の祈りに「アーメン」と言うことはできません。しかし、説教が聖書の教えに適っているならば、会衆は「アーメン」という言葉によって同意を表し、その祝福を自らのものとすべきであるのです。そのようにして、私たちは、皆で預言を語ることができるのです。
皆が預言をしているところへ入って来た、信者でない人か、教会に来て間もない人は、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すとは、彼も信者と声を合わせて、「アーメン」と言えたということでしょう。信者でない人が「アーメン」と言える前提は、信者が声を合わせて「アーメン」と言える説教が語られているということです。言い換えるならば、信者でない人が「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表す前に、信者である私たちが、「まことに、神はわたしたちの内におられます」と言い表すことができなければならないのです。
ジャン・カルヴァンは、「礼拝を礼拝たらしめるものは、イエス・キリストの臨在である」と語りました。イエス・キリストは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われましたけれども、それは御言葉と聖霊における臨在のことであります。神の言葉が語られるとき、神の霊が働かれます。そして、その神の言葉は、聞く者の罪を指摘し、隠していたことを明るみに出し、その人をひれ伏させ神を礼拝させるようにするのです。そのようにして、イエス・キリストは、信じる者を起こしてくださるのです。ここにあるのは、信じない者を何とか説得して信じる者にしようという人間の工夫や努力ではありません。聞く者の心を刺し貫く生きて働く福音の力です。私たちは、それをただ「アーメン」と言うことによっていただくのです。私たちはそのようにして、イエス・キリストの臨在を証しする教会でありたいと願うのであります。