霊と理性で賛美する 2012年7月08日(日曜 朝の礼拝)
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霊と理性で賛美する
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 14章13節~19節
聖書の言葉
14:13 だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。
14:14 わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。
14:15 では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。
14:16 さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。
14:17 あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。
14:18 わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。
14:19 しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。コリントの信徒への手紙一 14章13節~19節
メッセージ
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今朝から再び、コリントの信徒への手紙一を読み進めていきたいと思います。
コリントの信徒への手紙一は第7章から、コリント教会からの質問状にパウロが答える形で記されています。パウロは第12章から第14章までに、「聖霊の賜物」について教えております。第12章では、聖霊の賜物には様々な賜物があり、そのことが体の部分に例えられて記されておりました。また、第13章では、聖霊の賜物を生かすのは、聖霊の結ぶ実である愛であることが教えられておりました。どのような聖霊の賜物であっても、愛がなければ無に等しいのです。また、コリントの教会では異言の賜物が重んじられておりましたが、パウロは第14章で、むしろ預言の賜物を熱心に求めるように記しました。今朝の御言葉もその文脈の中で語られていることであります。そのことを踏まえて、13節から15節までをお読みします。
だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。
異言については、2節に「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです」とありました。異言は他の人にとって意味の分からない言葉であるだけでなく、自分にとっても意味の分からない言葉であるのです。ですから、パウロは「異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい」と言うのです。聖霊の賜物には「種々の異言を語る力」だけではなく、「異言を解釈する力」もありますので、異言を解釈する賜物を祈り求めよと言うのです。
パウロは14節で「わたしが異言で祈る場合」と、一人称単数形で記していますが、パウロは異言の賜物を与えられておりました。18節に、「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」とありますように、パウロは異言の賜物を与えられていたのです。何度も申しますように、異言は、啓示の書物としての聖書が完結するまでの限られた期間に与えられていた霊的な賜物でありまして、現在は止んでおります。ですから、私たちは新約聖書の記述から異言がどのようなものであったのかを推測するわけですが、パウロは異言の賜物を与えられておりましたので、自分の体験として、異言について語ることができたのです。パウロは、「わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません」と語ります。「理性は実を結びません」とはどういう意味でしょうか?これはおそらく「言語化しない。言葉となって言い表されない」という意味であると思います。もっと言えば、舌は動いていて音声を発しているのですが、頭の中では自由に他のことを考えることができる、ということだと思います。異言とは、このように霊と理性が分かれてしまっている状態で発せられる言葉、音声であったのです。霊が祈っていても、理性で実を結ばず言語化されないわけですから、それを聞く自分にも、他の人にも何を言っているのか分からないのです。それでパウロはこう記すのです。15節、「では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」。ここでパウロが言っていることは、異言ではなくて、聞いた人が分かる言葉で祈り、賛美しようということです。異言で祈り、異言で賛美することを皆が熱心に求めていたコリントの教会に対して、パウロは聞く人に意味の分かる言葉で祈り、賛美しましょうと言うのです。
16節、17節をお読みします。
さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。
パウロは「聞く人に意味の分かる言葉で祈り、賛美しましょう」と言いましたが、それは「教会に来て間もない人」を配慮してのことであります。霊で賛美の祈りを唱えても、すなわち、異言で賛美の祈りを唱えても、それを聞く人には何を言っているのか分からないのですから、その祈りに「アーメン」ということはできないのです。「アーメン」とは、「真実です」とか「確かです」という意味のヘブライ語であります。歴代誌上の第16章36節に、「イスラエルの神、主をたたえよ/世々とこしえに。民は皆、アーメンと答えよ。主を賛美せよ」とありますように、イスラエルでは祭司の祈りに民衆はアーメン、真実です。確かですと同意を表したのです。そのようにして、イスラエルの民は祭司の祈りを自分のものとし、神の祝福にあずかったのであります。このことがユダヤ人の会堂でも、またキリストの教会においても行われていたのです。他の人の祈りにアーメンと言い、同意することによって、他の人の祈りを自分のものとし、その祝福にあずかることができるならば、その祈りは聞いている人に分かる言葉で語られなくてはなりません。つまり、霊と理性で祈る言葉でなくてはならないのです。そうでないならば、聞いている人は、その人の祈りに「アーメン」と言うことができず、取り残されてしまうからです。アーメンと皆で声を合わせて唱和するところに、教会の一致が表されるわけです。
パウロは17節で、「あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません」と語っています。ここでも「造り上げる」という尺度が出てきます。パウロは異言の賜物を熱心に求めるコリントの教会に、預言の賜物を熱心に求めるように記すのですが、そのようにパウロが記す理由は、預言は教会を造り上げる、他の人を造り上げることができるからなのです(4、12節参照)。異言で感謝の祈りをささげても、それは聞いている人には分かりませんから、その感謝を共有することはできません。ですから、その感謝は異言で祈っているその人だけにとどまり、その祈りを聞いている他の人を造り上げるわけではないのです。聞いている人は、アーメンと言えず、その祈りを自分のものにし、神の祝福にあずかることができないのです。このことは、考えてみればすぐに分かります。私たちの教会でも水曜日の午前と夜に、祈祷会を持っております。そこでは、30分くらい、出席者で順番にお祈りします。そのとき、他の人のお祈りによって、そのお祈りにアーメンと唱和することによって、立て上げられる、主の祝福にあずかるということがあるわけです。このことを私たちは自分の体験としても知っているのです。しかし、異言で祈るならば、霊だけで祈るならば、それは聞いている人を立て上げることができないのです。
18節、19節をお読みします。
わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。
パウロが「霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも讃美することにしましょう」と言うのは、パウロが異言を語ることができないからではありません。そのような誤解を避けるために、パウロは自分がコリントの信徒たちのだれよりも多く異言を語れることを打ち明けます。これはコリントの信徒たちにとって、初めて耳にすることであったと思います。パウロはコリントの信徒たちの誰よりも多く異言を語れるにもかかわらず、おそらくコリントの教会では一度も異言を語ったことはなかったと思います。なぜなら、パウロは19節で、「しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」と記しているからです。パウロは第11章1節で「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と記しましたが、異言を語ることにおいても、コリントの信徒たちはパウロに倣うべきであるのです。すなわち、他の人を教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るよりも、理性によって五つの言葉を語る方をとってもらいたいとパウロはコリントの信徒たちに望んでいるのです。
これは仮定の話ですが、もしパウロが教会で一万の異言を語ったら、異言を重んじていたコリントの信徒たちはもっとパウロを重んじたかも知れません。パウロこそ霊の人であると、パウロを尊重したと思います。そして、ますます異言の賜物を熱心に求めたと思うのです。しかし、それゆえに、パウロはコリントの教会で異言を語らなかったのだと思います。なぜなら、異言では他の人を教えることはできず、他の人を造り上げることはできない、教会を造り上げることはできないからです。パウロは「教会の集会で異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方を望む」と言いましたけれども、この五つの言葉とは、何でしょうか?この五つの言葉とは、少ない言葉を表しているのですが、それは何より、「十字架につけられたキリスト」でありました。パウロは、異言で一万の言葉を語るよりも、理性によって十字架につけられたキリストを宣べ伝えたのです。なぜなら、十字架につけられたキリストこそ、私たちをキリストの教会として立て上げる神の力、神の知恵であるからです。理性によって、十字架につけられたキリストが語られるとき、その説教後の祈りに、会衆が心を一つにして、アーメンと唱えるとき、私たちはキリストの教会として立て上げられるのです。
さて、今朝の御言葉を聞いて、皆さんはどのようなことを考えられたでしょうか?わたしが考えましたことは、讃美歌のことです。私たちがおもに用いている1954年改訂版の『讃美歌』は、文語表現など、分からない言葉が多く含まれています。歌っていても、言葉の意味が分からないのですね。その点から言えば、異言で賛美しているとも言えるのではないかと思います。しかし、それではやはりいけないわけで、私たちは霊でも賛美し、理性でも賛美することにしなくてはならないわけです。意味の分からない言葉で神様を賛美し、アーメンと唱和することは厳格に言えば神様に対して不誠実だと思います。『讃美歌21』は、そのような言葉の問題からも改訂された賛美歌であるのです。『讃美歌21』の「まえがき」に「なぜ、いま改訂なのか」とありまして、その三段落目には、次のように記されています。
また、言葉の問題も大きなものでした。古語そのままの難解な言葉や文語表現等は現代の人々、特に若い人々には理解することが難しく、言語感覚のずれは受けとめ方に大きな違いをもたらしていました。原歌詞と翻訳歌詞とのはなはだしい違い、文法上の問題も明らかになっています。国家神道的表現、差別語、不快語など少なからず見受けられましたが、これらについては、限られた処置として読み替えなどを示唆するにとどまってきました。
このような問題意識をもって改訂された『讃美歌21』をもっと用いることによって、私たちは霊で主を讃美し、理性でも主を讃美する教会になりたいと願います。