明確な言葉 2012年6月03日(日曜 朝の礼拝)
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コリントの信徒への手紙一 14章6節~12節
聖書の言葉
14:6 だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。
14:7 笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。
14:8 ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。
14:9 同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。
14:10 世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。
14:11 だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。
14:12 あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。コリントの信徒への手紙一 14章6節~12節
メッセージ
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今朝はコリントの信徒への手紙一第14章6節から12節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
今朝の御言葉の直前の5節に、パウロは次のように記しておりました。「あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています」。異言も預言も同じ聖霊の賜物ですから、本来は、どちらがよりまさっていることはありません。しかし、教会を造り上げるという尺度からすれば、異言よりも預言の方がまさっているのです。それゆえ、パウロは、「あなたがた皆が預言できればと思います」と記したのです。
今朝の御言葉はこの続きでありまして、パウロは教会を造り上げるためには、異言を語る者よりも預言する者の方がまさっていることを具体的に、またいくつかの類比・アナロジーを用いて記しております。ちなみに類比とは、「関係の類似・同一性があること」を意味します。
6節をお読みします。
だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。
ここでパウロは具体的に、もし自分がコリントの信徒たちのもとに行って、異言を語ったらどうであろうかと考えさせます。異言は、人にではなく、神に向かって語られる言葉であり、人には分からない秘められた言葉であります。ですから、もしパウロがコリントの教会に行っても、異言で語ったとしたら、それを聞いているコリントの信徒たちに何の益ももたらさないのです。異言ではなく、啓示か知識か預言か教えかによって語ることによってはじめて、それを聞くコリントの信徒たちに益となるわけです。ここに「啓示か知識か預言か教え」とありますが、私たちはここからパウロが「預言」を啓示や知識や教えをも含むものとして用いていることが分かります。パウロがもしコリントの信徒たちのもとへ行ったとしても、預言ではなく異言で語ったならば、それを聞くコリントの信徒たちを教会として造り上げるのに何の益にもならないのです。
7節から9節までをお読みします。
笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。
ここでパウロは異言の類比として、楽器について記しています。「命のない楽器」とは自分で息をしていない楽器であり、笛でもラッパでも人間から息を吹き込んでもらって初めて音が出るわけです。そして、笛であれ竪琴であれ、音の変化があって、はじめて何の曲かが分かるわけです。また、ラッパは戦いの合図として用いられましたが、そのラッパがはっきりした音を出さなければ、誰も戦いの準備をしないわけです。それと同じように、コリントの信徒たちが異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか分かってもらえないとパウロは言うのです。異言は、音の変化がなく、何を吹き、何を弾いているのか分からない楽器や、はっきりした音を出さないラッパのように、聞く人にとって何を話しているか分からない言葉であるのです。「空に向かって語ることになる」とは、異言が教会を造り上げるという尺度からすれば空しい言葉であることを表しています。
10節から12節までをお読みします。
世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。
前回の説教で、コリント教会に見られた異言と、使徒言行録第2章に記されているペンテコステの出来事は別の出来事であると申しました。五旬祭の日、イエスの弟子たちのうえに聖霊が降り、弟子たちは霊が語らせるままに、他の国々で語り出しました。これは多国語奇蹟でありまして、異言とは厳密には異なります。しかし、現象としては大変似ているわけです。それで、パウロは異言を世にあるたくさんの言葉、外国語との類比で記しています。「世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません」。どんな言葉にも意味がある。それが分からないなら、それはその言葉そのものが分からないからなのです。そうであれば「話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになる」わけです。言葉の分からない外国人同士であれば、一緒にいても交わりを持ち、交わりを造り上げていくことはできないわけです。パウロは教会の集会において異言を語ることはそれと同じことだと言うのです。ここでも要点は異言が聞く人にとって意味の分からない言葉であるということです。ですから、パウロは「あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい」と記すのです。ここでパウロは、コリントの信徒たちが「霊的な賜物を熱心に求めている」ことを積極的に評価しています。聖霊の賜物を求めること、それ自体は良いことなのです。しかし、パウロは聖霊の賜物を、自分の益のためではなく、教会を造り上げるために求めるようにと記すのであります。すなわち、最高の道である愛を追い求めつつ、聖霊の賜物を熱心に求めるべきであるのです。そのことを念頭に置きますとき、パウロが「それをますます豊かに受けるように求めなさい」と記す「それ」が預言の賜物であることは明かであります。前回の説教でも言いましたように、預言とは聞く人を造り上げ、励まし、慰める言葉であります。その点においては御言葉の解き明かしである説教に通じるものであります。しかし、説教だけに限定することなく、人を立て上げる言葉としての預言は、誰もが語ることができるということを結論として語ったわけです。今朝は少しアプローチを変えまして、預言の言葉は聖書として私たちに与えられており、誰もが聖書の御言葉を読むことによって、預言を語ることができるのだということを述べたいと思います。漢字を見ると分かりますように、「預言する者」とは神様の言葉を預かって語る者のことを言います。それは私たちに、「主はこう言われる」と言って語り出した旧約の預言者たちを思い出させますけれども、私たちは聖書という形で神の言葉を預かっているわけです。私たちには神の啓示の書としての聖書が与えられているわけです。その聖書の御言葉を読むことによって、私たちは誰もが預言を語ることができるのです。個人的なことを申しますが、わたしが神学校に入学する前に、坂戸教会で送別会をしてくださいました。それは、わたしだけではなく、K・Kくんを高島平教会に送る送別会でもありました。当時は、坂戸教会は第一次開拓伝道として高島平教会の再建に取り組んでいたのです。ですから、その送別会はわたしとK・Kくんを送り出す送別会であったのです。その会の始めに司会の執事さんが使徒言行録の第13章2節を読んでくださいました。「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」。これはこれから神学校に行くわたしに取りまして、まさしく預言であったわけです。また、神学校に入学してからも、別の執事さんからお葉書をいただきましたが、そこにはマタイによる福音書の第6章34節の御言葉が記されていました。「明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。この御言葉は、母教会を離れて淋しさを覚えていたわたしを立て上げ、励まし、慰める言葉となったのです。このようにその人を立て上げ、励まし、慰めるために、私たちは聖書の御言葉を選び、それを読んで聞かせたり、書き送ることによって、預言を語ることができるのです。そのために、私たち自身が聖書に親しみ、どこにどのような御言葉が記されているのかを知らなくてはなりません。また、兄弟姉妹がどのような状況にあり、どのような御言葉を必要としているのかを知らなくてはなりません。何よりそこでは、愛をもってその人を立て上げ、慰め、励ますのにふさわしい御言葉を選ぶことが求められます。そこにも人を造り上げる愛という尺度が求められるのです。そして、このことは自分一人で聖書を読むときにしていることだと思います。私たちは自分の置かれている状況に合わせて、自分を造り上げ、励まし、慰める言葉を神の言葉として聞いているのです。ですから、同じ御言葉であっても、その時その時によって、心に響いてくる御言葉は違ってくるわけです。また同じ御言葉であっても、違う響きをたてるということがあるのです。
聖書が預言の言葉であることは、聖書自身が証言しています。今朝はそのことを確認して説教を終わりたいと思います。ペトロの手紙二の第1章20節、21節にこう記されています。
何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。
また、テモテへの手紙二第3章15節から17節には次のように記されています。
また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
このように、聖書は私たちに与えられている預言の書物なのです。それゆえ、私たちは新しい啓示としての預言を求める必要はありません。私たちには啓示としての預言が聖書として既に与えられているからです。聖書から兄弟姉妹を造り上げ、励まし、慰めるための御言葉を選び、語ることで私たちも預言を語ることができるのです。そのような預言の賜物を私たちも熱心に求めたいと願います。