造り上げる言葉 2012年5月27日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

14:1 霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。
14:2 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。
14:3 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。
14:4 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。
14:5 あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。コリントの信徒への手紙一 14章1節~5節

原稿のアイコンメッセージ

 教会の暦によりますと、今朝は聖霊降臨を記念するペンテコステの礼拝であります。使徒言行録の第2章を見ますと、五旬祭の日に、弟子たちのうえに聖霊が降ったこと。聖霊に満たされた弟子たちが、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたことが記されております。これは今朝の御言葉に出てくる「異言を語る者」と現象としては大変似ているわけであります。それで、昔から使徒言行録第2章の「聖霊に満たされた弟子たちが、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した」ことと、コリントの信徒たちの異言を同一視する人たちがおりました。しかし、結論から言いますと違うものであります。なぜなら、使徒言行録の第2章5節から11節に次のように記されているからです。

 エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけに取られてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

 このように使徒言行録第2章に記されているのは「人には分からない」異言ではなく、他の国々の言葉で話し出すという多国語奇跡であったのです。そのようにして神様は、全世界の人々が神の偉大な業を語るようになることを示されたのです。ペンテコステは教会の誕生日であるとよく言われますけれども、その日に示された幻は、全世界の人々がイエスは主であると告白し、神をほめたたえるようになるということであったのです。その幻の実現として、私たちは今、日本で神様を礼拝しているのです。

 それでは、第10章に記されているコルネリウスの場合はどうでしょうか?使徒言行録の第10章には、ペトロがローマの百人隊長コルネリウスの家で福音を宣べ伝えたことが記されています。その44節から48節に次のように記されています。

 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。

 ここでは「異邦人が異言を話し」と記されています。ペトロの福音を聞いた者たちに聖霊が降り、彼らは聖霊の賜物として、異言を語り出したのです。それで、ペトロは、割礼を受けていない異邦人にもイエス・キリストの名によって洗礼を授けたわけです。

 また、第19章を見ますと、パウロがエフェソで洗礼者ヨハネの弟子たちに福音を語り、主イエスの名によって洗礼を授けると、その人たちが異言を話したり、預言をしたりしたことが記されています。このように異言は聖霊が降ったことをはっきりと示すしるしであったのです。私たちは使徒言行録の記述からもコリントの信徒たちが異言の賜物が重んじられていた理由が分かるのではないかと思います。

 今朝の御言葉であるコリントの信徒への手紙一第14章1節から4節までをお読みします。

 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。

 1節は第12章30節、31節からの続きであります。第12章30節、31節でパウロはこう記しておりました。「皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたはもっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」。もっと大きな賜物とは、「預言するための賜物」でありますが、パウロはその前に最高の道である愛を教え、その愛を追い求めるように記したのであります。それは、たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、愛を持っていなければ無に等しいからです(13:2参照)。霊的な賜物を熱心に求めるに先立って、私たちは愛を追い求めなくてはならないのであります。パウロは、異言の賜物を熱心に求めるコリントの信徒たちに、「愛を追い求め、預言する賜物を熱心に求めなさい」と語りました。その理由が2節から4節に記されています。啓示の書物である新約聖書が完結したことによって、異言の賜物はやんでおりますから、私たちにはよく分からないのですが、パウロは異言を語る者について、2節で次のように記しています。「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです」。異言は人に向かってではなく、神に向かって語られる人には分からない言葉であります。「彼は霊によって神秘を語っている」とありますように、その内容は秘密のままなのです。それに対して預言する者は「人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます」と記されています。ここで、パウロが想定している状況は、教会の集会であります。教会の集会の中で、異言を語る人は他の人たちにどのような益を及ぼすことができるであろうか?あるいは、教会の集会の中で、預言を語る人は他の人たちにどのような益を及ぼすことができるだろうか?ということをパウロはここで記しているのです。異言が今はやんでいる聖霊の賜物であるように、預言も今はやんでいる聖霊の賜物であると言えます。「人に向かって語られ、人を造り上げ、励まし、慰める」という益においては、御言葉の解き明かしである説教に受け継がれておりますが、ここでの預言は啓示を受けて語るといったものでありますから、現在の説教とは異なります。説教は時間をかけて準備をして語りますけれども、預言にはそのような準備は不必要であったでしょう。しかしそうは言っても、私たちが預言を考えるときに説教を思い浮かべるのはよいと思います。預言も説教も人に向かって語られる言葉であり、人を造り上げ、励まし、慰める言葉であるのです。ここで「人を造り上げ」とありますが、元の言葉には「人を」という言葉はありません。ただ「造り上げ」と記されております。これと同じ言葉が、第8章1節にも記されておりました。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」。このことを思い起こすとき、預言の言葉が愛の言葉であることが分かるのです。それゆえ預言は愛を持って語られねばならないのであります。ここに、パウロが「愛を追い求めつつ、預言の賜物を熱心に求めよ」と記した理由があるのです。現代の預言とも言える説教も、愛を持って、愛の言葉として語られることを求めているのです。また、愛の言葉として聞かれることを求めているのであります。なぜなら、使徒ヨハネがその手紙で記しておりますように、「神は愛である」からです(一ヨハネ4:8参照)。

 パウロは4節で、「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」と、その益を記しています。異言は人ではなく、神に対して語るものであり、誰にも分からないのですから、他の人を造り上げることはありません。しかし、預言する者は人に対して、人に分かる言葉で語るので、教会を造り上げるのです。それゆえ、パウロは5節で次のように記します。

 あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。

 「あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが」というパウロの言葉をコリントの信徒たちへの皮肉であると解釈する人もいますが、わたしは素直にそのまま読みたいと思います。第14章全体を読むと分かることですが、パウロは異言を軽蔑しているわけではありません。パウロは異言が神に語りかける祈りであり、賛美であり、その人を造り上げるという益を認めています。18節でパウロは、「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」と記しておりますし、39節では「異言を語ることを禁じてはなりません」とも記しています。ですから、パウロは異言を軽蔑しているわけではないのです。異言も聖霊の賜物であるのです(12:10参照)。しかし、パウロは「それに以上に、預言できればと思います」と語ります。なぜなら、「異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっているからです」。異言も、預言も同じ聖霊の賜物でありますから、本来、どちらかが勝っているということはないはずなのです。しかし、「教会を造り上げるため」という尺度からすると、預言する者の方がまさっている、より大きいのです。そして、この尺度は最高の道である愛であるとも言えるのです。第13章5節に「愛は自分の利益を求めず」とありましたが、異言を語る人が自分の利益を求めて語るのに対して、預言を語る者はそれを聞く他者の利益を求めて語るのです。ですから、最高の道である愛という尺度からしても、異言よりも預言の方がまさっているのです。ただし、異言を解釈するのであれば、それは預言と同じ益をもたらしますから、話は別であるわけです。

 異言を語る人は人に向かってではなく、神に向かって語っている。しかし、預言を語る者は人に向かって語っている。このことは、私たちが言葉を語るとき、自分のために語っているのか、それとも聞く人たちのために語っているのかを考えさせます。そして、私たちが聞く人の益を考えることなく語るとき、たとえ理解できる言葉を用いても分からないということが起こると思うのです。私たちが自分の欲求を満たすためだけに語るとき、それは人を立て上げる言葉にならないのです。異言と預言についてこのように記したパウロは、後にエフェソの信徒への手紙第4章29節で次のように記しています。今朝はこのところを読んで終わりたいと思います。

 悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。

 私たちは、だれもが説教をするわけではありません。しかし、すべての人が、人を造り上げるのに役立つ言葉を語ることができるのです。私たちは誰もが、人を造り上げるのに役立つ言葉としての預言を語ることができるのです。

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