いつまでも残るもの 2012年5月20日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 13章8節~14章1節
聖書の言葉
13:8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
13:9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
14:1 愛を追い求めなさい。コリントの信徒への手紙一 13章8節~14章1節
メッセージ
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今朝は第13章8節から第14章1節前半を中心にして御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。
パウロは1節から3節で、愛が必要不可欠であることを記しました。また、パウロは4節から7節で愛の特質について記しました。さらにパウロは今朝の御言葉で、愛の永遠性について記しております。第13章は「愛の賛歌」とも呼ばれますけれども、ここでの愛は「聖霊によって私たちの心に注がれている神の愛」のことであります。今朝もローマの信徒への手紙第5章の御言葉をお読みしたいと思います。ローマの信徒への手紙第5章1節から5節までをお読みします。
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
また、パウロはガラテヤの信徒への手紙第5章で、「聖霊の結ぶ実は愛である」と記しております。ガラテヤの信徒への手紙第5章22節に次のように記されています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。預言や異言や知識が聖霊の賜物であるのに対して、愛は聖霊の実であるのです。愛は私たちをキリスト者とする徳であり、品性であるのです。
このことを確認した上で、今朝の御言葉を読み進めてきたいと思います。
コリントの信徒への手紙一第13章8節、9節をお読みします。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
「愛は決して滅びない」は、4節から7節までに記されていた愛の特質の一つであるとも言えます。聖霊によって私たちの心に注がれている神の愛、聖霊の実である愛は、決して滅びないのです。しかし、パウロは「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」と記しています。この3つはどれも聖霊の賜物であります。預言は「神の言葉を語る賜物」であり、パウロがコリントの信徒たちに熱心に求めるように記した聖霊の賜物でありました(12:31、14:1参照)。また、異言は「人には分からない言葉で神秘を語る賜物」であり、コリントの教会では大変重んじられておりました。異言の賜物を持っている人たちは、自らを霊の人であると自慢し、異言を語れない人たちを軽んじていたのです。また、この人たちは、自分たちがすでに終末の救いに与っていると主張していたようであります。主イエスはマタイによる福音書第22章30節で、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と言われましたけれども、異言の賜物を持っている人たちは、自分たちは天使たちの異言を語っているから、もう復活の救いに与っているのだと主張していたのです。このような者たちが、第7章では夫婦の関係を破壊し、第11章では男と女の違いを無くそうしていたわけであります。第15章では復活について教えられておりますけれども、その12節でパウロは次のように記しています。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」。このように主張していたのも、異言の賜物を自慢していた人たちであったと思われます。彼らは自分たちは天使たちの異言を語っているとし、復活の時の恵みに既にあずかっていると主張していたのです。
また、3番目の知識もコリントの信徒たちが重んじていた賜物でありました。
愛は決して滅びないのに、なぜ、預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れるのでしょうか?それは私たちの知識は一部分、預言も一部分であるからです。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れるのです。「廃れる」とは「使われなくなる」という意味です。完全なものが来たときには、部分的なものは必要がなくなるのです。そのことをパウロは幼子のたとえを用いて説明しています。
11節をお読みします。
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
これは私たちにもよく分かることであります。私たちは幼子だったときは、幼子のように話、幼子のように思い、幼子のように考えておりました。しかし、大人となった今は幼子のようには話し、思い、考えなくなったわけです。私の子供はまさに幼子でありますけれども、自分が幼稚園や小学校一年生であったとき、どのように話し、思い、考えていたかなかなか思い出すことができません。それは成人した今、そのことを棄ててしまったからなのです。ここで「棄てた」と訳されている言葉は、「廃れる」と訳されていたのと同じ言葉です。ですから、「幼子だったとき」は神様について部分的にしか知らない今というときの比喩であります。また、「成人した今」とは「完全なものが来たとき」の比喩であるのです。ある研究者は、パウロが「わたしは幼子のように話し」と記すとき、これは異言のことを指していると解説しておりました。確かに、第14章18節を見ますと、「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」と記しされています。また20節で、「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」と記されています。ですから、おそらく、パウロは異言の賜物を念頭に置きながら、「幼子のように話し」と記しているのでありましょう。そうしますと、パウロはここで皮肉を語っていることが分かります。異言の賜物を持っている人たちは、自分たちは天使たちの異言を語っており、終末に完成する救いに既にあずかっていると主張しておりました。しかし、パウロは異言は幼子のように話すことであり、成人した時には棄てられてしまう賜物であるのです。異言は終末の救いに与っているしるしではなく、まだ終末の救いに与っていないことのしるしであるのです。
12節をお読みします。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
ここでは鏡のたとえによって、部分的にしか知らない今という時と、完全なものが来るきたるべき時とが教えられています。古代の鏡は青銅を研いたものであり、おぼろな、ぼんやりとした像を映すだけでありました。私たちは今、神様をそのような鏡に映して見ているとパウロは言うのです。鏡に映ったものを見ているわけですから、間接的であるわけです。しかし、そのとき、完全なものが来るときには、私たちは顔と顔とを合わせて神様を見ることになるのです。「顔と顔とを合わせる」とは旧約聖書の表現で、神様との「直接的な人格的な交わり」を意味しています(創32:31、民12:8参照)。私たちは今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、かの日には、顔と顔とを合わせて見ることになる。それは言い換えれば、「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」ということであるのです。私たちは今、神様のことを一部しか知りません。すなわち、神様が私たちの救いのために御自身を啓示してくださった限りにおいて、私たちは神様を知っているのです。しかし、神様は私たちの創造主でありますから、私たちのことを完全に知っておられます。私たちのこれまでしてきたことや心の中にあることまで神様は知っておられるのです。それと同じように、かの日には、私たちも神様のことを完全に知ることになるとパウロは言うのです。
そのときの光景をヨハネの黙示録は、「新しい天と新しい地」という幻によって描いています。ヨハネの黙示録第21章1節から4節までをお読みします。
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
このように、来るべき日には、私たちは神様と顔と顔とを合わせることができるのです。神様との直接的な人格的な交わりに入れられるのです。そのとき、もはや聖書は必要ありません。聖書の解き明かしである説教も不要であります。なぜなら、神様が直接私たちに語りかけてくださるからです。ですから、パウロは「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」と記したのです。神様と顔と顔とを合わせ、神様をはっきり知るようになったとき、預言や知識といった部分的なものは廃れるのです。しかし、パウロはいつまでも残るものがあると言うのです。
今朝の御言葉に戻ります。
13節と14節1節の前半をお読みします。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。愛を追い求めなさい。
パウロは8節で「愛は決して滅びない」と記しておりましたが、ここでは「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る」と記しています。しかし、「その中で最も大いなるものは、愛である」と記しておりますから、まず愛についてだけ考えてみたいと思います。パウロは、「それゆえ」と記しておりますが、これはどのように前の文とつながっているのでしょうか?「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。それゆえ、愛はいつまでも残る(留まる)とパウロは言うのです。このパウロの言葉は、神を知ることが神を愛することであることを私たちに教えています。私たちは今は一部であっても神様を知っている。すなわち神様を愛しているわけです。鏡におぼろに映ったものを見ているようであっても、神様との交わりに生かされているわけであります。そして、その交わりは愛の交わりであるのです。この神様との愛の交わりは死を越えて永遠に続くのであります。そして、ここに永遠の命の秘密があるのです。13節の「信仰と、希望と、愛」は私たちをキリスト者とする3つの徳であります。しかしなぜ、パウロは「その中でも最も大いなるものは、愛である」と記したのでしょうか?7節に、愛は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」とありましたから、信仰も希望も愛を源としていると言うことができます。ですから、パウロは「その中で最も大いなるものは、愛である」と記したのかも知れません。ともかく、愛から信仰も、希望も生まれるということ、それは私たちが心に留めておくべきことであります。神様との愛の交わりに生かされているからこそ、私たちは神様を信頼し、神様に期待しているのです。そして、このことは今だけではなくて、新しい天と新しい地においても変わることがないのです。ですから、私たちは幼子であり、鏡におぼろに映ったものを見ておりますけれども、神様との愛の交わりである永遠の命に既に生かされているのです。それゆえ、パウロは愛を最高の道と呼び、コリントの信徒たちに、また私たちに愛を追い求めなさいと言うのです。