最高の道 2012年5月06日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:31 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。コリントの信徒への手紙一 12章31節~13章3節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、コリントの信徒への手紙一第12章31節後半から第14章1節前半までをお読みしましたが、今朝は第12章31節後半から第13章3節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 第12章31節後半をお読みします。

 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。

 パウロは31節前半で「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と記しておりました。「もっと大きな賜物」とは第14章1節後半に記されている「預言するための賜物」のことであります。コリントの信徒たちは皆、異言の賜物を熱心に求めていたのですが、パウロはむしろ預言の賜物を熱心に求めなさい、と言うのです。そうしますと、第12章31節後半から第14章1節までは挿入された文書のように読むことができます。第12章31節前半から第14章1節後半を続けて読んでも文書としてはつながるわけです。このことは第12章12節から27節においても言えることであります。第12章11節から28節を続けて読んでも文書としてはつながるのです。しかし、パウロが12節から27節で教えていたことは私たちが教会を考えるうえで欠くことのできない大切な教えでありました。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」。このパウロの教えによって、私たちは自分たちがどのようなものであるかを豊かに教えられたわけであります。ですから、第13章全体は挿入された文書のように読むことができますけれども、ここでパウロは霊的な賜物について教えるうえで、欠くことのできない大切なことを記しているのです。そして、それこそパウロが最高の道という「愛」なのであります。

 第13章1節をお読みします。

 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

 異言を語る者については第14章2節に次のように記されています。「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです」。また、第14章7節から9節には次のように記されています。「笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです」。このように異言は人には理解できない言葉であり、また意味をなさない音声であったのです。異言は新約聖書がまだ完結していない初代教会に与えられていた一時的な賜物でありますが、コリント教会では大変重んじられておりました。皆が異言を語る賜物を熱心に求めていたわけです。そのようなコリントの信徒たちにパウロは言うのです。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」。人々の異言、天使たちの異言は霊的な賜物でありますが、愛がなければ、わたしはさわがしいどらや、やかましいシンバルと同じであるとパウロは語るのです。ここでパウロは「わたし」と一人称単数形で記しておりますが、これはパウロ自身が最高の道である愛を追い求める者であるからでありましょう。あるいは、ここにはパウロの牧会的配慮があるのかも知れません。ともかく、パウロは自分のこととして、最高の道である愛について記すのです。「愛がなければ」とありますが、これはもう少し丁寧に翻訳すると「わたしが愛を持っていなければ」となります。人々の異言、天使たちの異言を語ることはコリントの信徒たちが熱心に求めていた聖霊の賜物でありますが、わたしが愛を持っていなければ、わたしは騒がしいどらや、やかましいシンバルと同じであるとパウロは語るのです。どらもシンバルも音に変化のない打楽器でありますが、それを立て続けに鳴らされたら耐え難いことであります。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛を持っていなければ、わたしは耳をつんざくどらやシンバルと同じであるとパウロは語るのです。

 2節をお読みします。

 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰をもっていようとも、愛がなければ、無に等しい。

 「預言する賜物」はパウロが受けるよう熱心に努めなさいと語っていた「もっと大きな賜物」であります。また、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じることもコリント教会では重んじられて霊的な賜物でありました。コリントの信徒たちは知恵の言葉や知識の言葉も重んじていたのです(1~4章参照)。さらに「山を動かすほどの完全な信仰」とは、聖霊の賜物として与えられる特別に強い信仰のことであります。私たちが、預言する賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていたとすればどれほど素晴らしいことでしょうか?しかし、パウロはたとえそのような霊的な賜物を持っていたとしても、愛を持っていなければ、わたしは無に等しいと言うのです。「無に等しい」と訳されている言葉は元の言葉を見ますと「わたしは無である」と記されています。愛を持っていなければ、たとえ豊かな霊的な賜物を持っていようとも、わたしは無である、とパウロは言うのです。

 3節をお読みします。

 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 

 ここでは話が聖霊の賜物から自己犠牲の行為へと移っています。「全財産を貧しい人々のために使い尽くす」こと、これは徹底した施しと言えます。施しは隣人への愛の行為と考えられておりました。また「誇ろうとしてわが身を死に引き渡す」とは殉教の死を意味しています。殉教の死は神への愛の行為と考えられておりました。しかし、パウロはたとえ、全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、わたしが愛を持っていなければ、わたしには何の益もないというのです。「誇ろうとしてわが身を死に引き渡す」の「誇ろうとして」は、「終末において神様からいただく報いを期待して」ということでありますが、しかし、パウロは愛がなければ「わたしには何の益もない」と言うのです。愛がなければ、わたしは終末において神様から何の報いもいただくことができないとパウロは言うのです。

 このように、たとえ豊かな聖霊の賜物を持っていようと、愛がなければ、わたしは無であります。また、人の目に愛の行為をしようとも、愛がなければ、わたしには何の益もないのです。ですから、パウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を熱心に努めなさい」と記した後で、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と愛について記すのです。このようなパウロの記述から分かりますことは、愛が聖霊の賜物の一つではなく、私たちキリスト者の存在そのものを形作っている徳であり、品性であるということです。パウロが「愛がないなら」と語るとき、それは私たちが生れながらにもっている愛のことを言っているのではありません。ここでパウロは、キリストを信じた者たちに与えられている聖霊によって注がれる神の愛について述べているのです。パウロはローマの信徒への手紙第5章3節から8節で次のように記しています。

 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 私たちに対する神の愛はイエス・キリストの十字架によって示されました。そして、その神の愛は聖霊によって私たちに注がれているのです。そのようにして、私たちは神の愛を知り、神との愛の交わりに生きる者とされているのです。それゆえ、私たちは全身全霊をもって神を愛し、自分のように隣人を愛する者とされているのです。

 また、パウロはガラテヤの信徒への手紙で、「聖霊の結ぶ実は愛である」と記しています。ガラテヤの信徒への手紙第5章22節から26節までをお読みします。

 これに対して霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

 ここでパウロは愛を霊の結ぶ実であると記しています。これは言い換えれば、聖霊は私たちを愛の人に造り変えてくださったということです。イエス・キリストの十字架によって愛を示された神は、聖霊によって私たちの心に神の愛を注ぎ、私たちを愛の人に造り変えてくださったのです。このように愛は、聖霊の賜物とは区別される聖霊の結ぶ実であり、私たちをキリスト者たらしめる徳であり、品性であると言えるのです。しかし、コリントの信徒たちは聖霊の結ぶ実である愛をないがしろにして、聖霊の賜物だけを重んじていたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。

 今朝は最後に、「たとえ」と記されていることに注目して終わりたいと思います。1節に「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも」と記されています。2節にも「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰をもっていようとも」と記されています。また、新共同訳聖書は訳出しておりませんが、もとの言葉を見ますと3節にも「たとえ」という言葉が記されています。「たとえ、全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、たとえ、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」と記されているのです。「たとえ」とは「もし」とも訳される言葉ですから、これは仮定の話であります。そして、わたしはこれは実現不可能な仮定の話ではないかと思うのです。たとえば、預言する賜物を持ちながら、愛がないということがあるのでしょうか?わたしはそのようなことはないと思います。なぜなら、預言することは聖霊の賜物であり、愛は同じ聖霊の結ぶ実であるからです。聖霊の実である愛を持たずに、霊の賜物を求めることは空しいことであるのです。ですから、パウロは第14章1節で「霊的な賜物、特に預言するための賜物を追い求めなさい」と記す前に、「愛を追い求めなさい」と記しているのです。愛がなければ、聖霊の賜物を求めても無駄なのです。そして、もっと言えば、聖霊の実である愛を持たずに、聖霊の賜物を持っていると言うならば、それが本当に聖霊の賜物であるのかが検証される必要があるのです。わたしは預言する賜物、御言葉を語る賜物を持っているという人が、愛を持っていないならば、それが聖霊の賜物であるかどうかは怪しいものとなるのです。このように聖霊の結ぶ実である愛は、聖霊の賜物の真価を問う一つの試金石になるのです。そして何より、私たちがキリスト者であることの試金石になるのであります。なぜなら、キリスト者とは愛の人のことであるからです。キリスト者とは神を愛する者のことであり、神に愛されている自分と同じように隣人を愛する者のことであるのです。それゆえ、最高の道とは、キリスト者として歩む生き方そのものと言うことができるのです。

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