いろいろな部分
- 日付
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙一 12章28節~31節
12:28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
12:29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。
12:30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。
12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。コリントの信徒への手紙一 12章28節~31節
今朝はコリントの信徒への手紙一12章28節から31節前半より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
パウロは27節で、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と記しています。私たち教会は、キリストの体という統一性と、一人一人はその部分という多様性を持っているのです。また、誰も「わたしは体の一部ではない」とか「お前は要らない」とは言えない互いを必要とする相互依存的な関係にあるのです。パウロはそのことを手や足や目や耳といった体の部分に譬えて教えたわけです。これは前回学んだことでありますが、今朝の28節以下では教会の中に見られる務め、働きが具体的に記されています。パウロは第12章4節から6節で、「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」と記しておりました。そして、「賜物」については8節から10節までに記しました。今朝の御言葉では、「務め」、「働き」については記しているわけです。11節に、「これらすべてのことは、同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」とありましたけれども、人に与えられた霊の賜物が具体的にどのような務め、働きとして教会の中に表れるのかが今朝の御言葉に記されているのです。
28節をお読みいたします。
神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
私たちはここから、コリントの教会の中にどのような務め、働きがあったのかを知ることができます。神は教会の中にいろいろな人をお立てになりましたが、パウロは「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師」を挙げています。「使徒」とは、イエス・キリストの復活の証人であり、イエス・キリストから全権を委ねられて遣わされた者たちのことを言います。この手紙を記しているパウロも使徒でありました(1:1、15:9参照)。使徒は一つの教会に留まらずに、広い地域を行き巡ってイエス・キリストの福音を告げ知らせることを命じられていました。使徒言行録第18章を見ますと、パウロがコリントに1年6ヶ月滞在したことが記されていますが、これは比較的長い滞在でありました。パウロはコリントの信徒への手紙一第3章10節で次のように記しておりました。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています」。このように使徒は教会の土台を据えては、また他の所へと移って行ったわけです。そして使徒が去った後に、イエス・キリストの福音を告げ知らせたのが、第二の預言者や第三の教師であったのです。パウロは第14章で、異言を語る者と比較しつつ預言する者について記しています。3節には「預言をする者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます」とあり、4節後半には「預言する者は教会を造り上げます」とありますから、ここでの預言は新しい啓示というよりも、御言葉の解き明かし、説教であると言えます。この手紙が執筆されたのは紀元55年頃でありますから、まだ新約聖書はありませんでした。当時の聖書は旧約聖書であったわけです。そして、預言する者は使徒たちから受けたイエス・キリストの教えに基づいて聖書を説き明かしたのです。また、第三の教師は、御言葉を教える教師を、特に正しい教理を教える教師のことであると思われます。このようにパウロが第一、第二、第三と挙げている務めはすべてイエス・キリストの御言葉に仕える務めであるのです。そして、パウロは御言葉に仕える務めにだけ、第一、第二、第三と序列をつけているのです。このことは使徒や預言者や教師といった御言葉に仕える務めが、教会の中で重んじられるべき務めであることを表しています。神は教会全体の益のために、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師を立てられたのです。現在に当てはめて、このことを考えて見ますと、現在、使徒はおりません。イエス・キリストの復活の証人であり、イエス・キリストから全権を委ねられて遣わされた使徒たちは一代限りのものであり、既に天に召されました。しかし、使徒が記した書物が私たちには与えられています。すなわち、新約聖書が私たちにとっての使徒に当たるわけです。では、預言者はどうでしょうか?新約正典が完結したことによって啓示は止んでおりますから、新しい啓示を語る預言者は現在の私たちには与えられていません(ヘブライ1:1,2参照)。しかし、使徒の教えである聖書から御言葉を語る説教者は現在の教会にも与えられています。また、御言葉を教える教師、特に教理を教える教師も現在の私たちに与えられています。わたしは礼拝の中でウェストミンスター小教理問答を解説していますが、それは教師の務めを果たしているわけです。また、先週は半日修養会で私たちの教派の創立宣言についてお話しましたが、これも教師の務めであると言えます。このように見ていきますと、第一の使徒は聖書として、第二の預言者、第三の教師は牧師として現在の私たちに与えられていることが分かるのです。
続けてパウロは「次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです」と記しています。ここには超自然的な賜物と自然的な賜物が入り交じって記されています。超自然的な賜物は、「奇跡を行う者」「病気をいやす者」「異言を語る者」であります。これらは啓示の書物としての新約聖書が完結するまでに一時的に与えられていた霊の賜物であります。そして、コリントの教会において重んじられていたのは、このような超自然的な賜物であったのです。しかし、パウロはそのような超自然的な賜物と並べて、自然的な賜物、「援助する者」「管理する者」を記すのです。援助する者、管理する者は、奇跡を行う者や病気をいやす者と比べると地味でありますけれども、その働きも神様が教会に立てられた務め・奉仕であるのです。援助する者、管理する者は現在の教会の職務としては長老、執事であると言えます。また、奉仕としてはすべての信徒であると言えるのです。すべて教会員は神と教会の前に、最善をつくして、教会の礼拝を守り・その活動に奉仕し・教会を維持することを約束したことを思い起こしていただきたいと思います。私たちの教会も様々な奉仕によって成り立っています。奏楽の奉仕、礼拝当番の奉仕、説教題を書く奉仕、教会学校の奉仕、伝道委員会の奉仕、会計監査の奉仕、会堂掃除の奉仕、トイレ掃除の奉仕、会堂のお花の奉仕など様々な奉仕があります。礼拝の後に、お茶を出すことも地味ですが、一つの奉仕です。そして、そのような奉仕は聖霊が一人一人に分け与えてくださった霊の賜物によるものなのです。今、それぞれ皆さんが教会の中でしている働きは、神様が賜物を与えてくれていることを示しているのです。神様は、教会の中にいろいろな人をお立てになりますけれども、そのとき手ぶらで私たちを働きにつかせるわけではありません。私たちがそれぞれの務め・奉仕をちゃんと成し遂げることができるように、賜物を与えて務め・奉仕に着かせてくださるのです。今、牧師の務めについている人、長老の務めについている人、執事の務めについている人、また様々な奉仕についている人は、その務め・奉仕を成し遂げられる賜物が与えられているのです。このように賜物と務めと働きは切り離すことのできない一体的な関係にあるのです。ですから、牧師、長老、執事は、またそれぞれの奉仕者は心配しないで、主から与えられている賜物を教会のために用いていただきたいと願います。またそのための賜物をますます祈り求めていただきたいと思います。
また、ここで「異言を語る者」が最後に置かれています。これは意図的であると思われます。コリントの教会では超自然的な賜物としての異言が重んじられていました。しかし、パウロは異言を重要ではない賜物として一番最後に記すのです。
29節から31節までをお読みします。
皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。
ここでの疑問文はどれも否定の答えを期待する疑問文で記されています。19節に、「すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう」とありましたように、皆が使徒であるということはないのです。また、皆が奇跡を行う者であるということはないのです。パウロが19節で、「すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう」と言っていたように、皆が同じ務め、働きをするわけではないのです。しかし、コリントの信徒たちは皆が異言を語ろうとしていたのです。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい」とありますが、ここでの「もっと大きな賜物」とは14章1節後半の「預言するための賜物」のことであります。では、パウロは何と比較して、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい」と言ったのでしょうか?それは直前に記されている「異言を語る賜物」と比べてであります(14章も参照)。私たちは、30節、31節から、コリントの信徒たち皆が、異言を語る賜物を受けるよう熱心に努めていたことが分かるのです。しかし、そのようなコリントの信徒たちに、パウロは「もっと大きな賜物」「預言するための賜物を熱心に求めなさい」と言うのです。
「皆が預言者であろうか?そうではあるまい」と記したパウロが、「あなたがたは、もっと大きな賜物・預言するための賜物を求めなさい」と記すのは矛盾していると思われるかも知れません。しかし、わたしはそうではないと思います。そのことは現在の私たちに当てはめて考えてみるとお分かりいただけると思います。私たちの教会で皆が神学校や神学研修所に行って学び、教師試験や説教免許試験を受けて、御言葉の教師になる必要はありません。しかし、皆が御言葉を語るための賜物を求めるべきであるのです。私たちは礼拝の中でウェストミンスター小教理を学び、御言葉の解き明かしである説教を聞きます。それは何のためでしょうか?それは私たちが御言葉を語るためではないでしょうか?まだイエス・キリストのことを知らない、家族や友人に、イエス・キリストのことを伝えるためではないですか?わたしがまだ教師になる前に、自分の母親に、イエス様のことをお話したことがあります。わたしが話し終わると、母はこう言いました。「片岡牧師のしゃべり方にそっくりである」と。わたしは坂戸教会の片岡先生の説教を聞いて信仰を与えられ育っていたので、知らず知らずに口調が似てしまっていたのです。わたしが皆さんに対して願っていることもそのことです。わたしが告げ知らせているイエス・キリストの福音が、皆さんを通して、皆さんの家族や友人へと伝えられていくこと。そのためにわたしは説教者、また教師として、正しく、そして豊かにイエス・キリストの福音を語りたいと願います。どうぞ、そのことを覚えて、わたしの牧師としての働きを祈りをもって支えていただきたいと願います。