一つの体 2012年4月22日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
12:17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
12:18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
12:19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
12:20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
12:23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
12:24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
12:25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。コリントの信徒への手紙一 12章12節~27節

原稿のアイコンメッセージ

 パウロは第12章1節から第14章40節までに渡って、コリント教会から質問のあった霊的な賜物について教えております。前回学んだところですが、8節から11節でパウロは次のように記しています。「ある人には霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」。このようにコリント教会は霊の賜物が豊かな教会でありました。しかし、その霊の賜物が原因で教会に争いが生じていたのです。自分に与えられている賜物のゆえに優越感を持つ人、自分に与えられていない賜物のことで劣等感を持つ人がいたのです。そのようなコリント教会に、パウロはいろいろな賜物があっても、同じ唯一の聖霊から与えられているのだから賜物に優劣はないこと。また、聖霊が一人一人に賜物を分け与えられるのは、教会全体の益のためであることを教えたのです。

 今朝の御言葉も同じような問題意識をもって記されています。パウロはコリント教会を体に例えて、聖霊の賜物についてどのように考えるべきかを教えようとしているのです。

 12節と13節をお読みします。

 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

 「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つである」。このことはよくお分かりいただけると思います。私たちの一つの体は手や足、目や耳といった多くの部分から成っています。部分の数は多くても一つの体です。パウロは「キリストの場合も同様である」と語ります。これはイエス様のお体のことを言っているのではありません。「キリストの場合も同様である」と語ることによって、パウロはキリストを信じる者たちの群れである教会のことを言っているのです。なぜ、パウロはこのように語ることができたのでしょうか?パウロは何の根拠もなく、キリストとコリントの信徒たちを同一視したのではないと思います。パウロにはそのように言い切ることのできる天からの啓示が与えられていたのです。すなわち、使徒言行録第9章が記すところの主イエスからの啓示であります。パウロはかつて教会の迫害者でありました。パウロは主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、ダマスコへと向かったのです。しかし、そのようなパウロを突然、天からの光が照らしたのでありました。そして、パウロは「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞いたのです。パウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えが返ってきたのです。パウロが迫害していたのはイエスの弟子たちでありました。しかし、栄光の主イエスは、パウロが迫害しているのは「わたしである」と言われるのです。このことは教会がキリストの体であることを教えているのです。「キリストの場合も同様である」というとき、そのキリストは霊と体からなる存在であります。聖書は人間が霊と体からなると教えていますが、「キリストの場合も同様である」と記されている「キリスト」も霊と体からなる存在です。教会がキリストと言われる場合、その霊は何かと言えば、キリストの霊、聖霊であります。それゆえパウロは続けてこう記すのです。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」。コリントの教会は、ユダヤ人とギリシア人から、また奴隷と自由な者からなっていました。ユダヤ人とギリシア人とは民族の違いを、奴隷と自由な者とは身分の違いを表しています。そのような違いのある者たちが一つの体となることができたのはなぜか?パウロは、一つの霊によって、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからだと語ります。ここでは洗礼を受けることと聖霊を与えられることが結びつけられて記されています。イエスは主であると言い表し、イエスの御名によって洗礼を受けることによって、イエスの霊が授けられるのです。そのようにして、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な者であろうと、皆一つのキリストの霊を飲ませてもらったのです。そのようにして、私たちは民族の違いを超えて、社会的な地位の違いを超えて、一つのキリストの体とされたのです。洗礼を受け、一つの霊を飲ませてもらった私たちは、一つのキリストの体とされたのです。

 14節から20節までをお読みします。

 体は、一つの部分ではなく、多くの部分からなっています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。

 ここでパウロは自分の賜物を他の人の賜物と比べて劣等感を持っている人を念頭において記しています。「わたしはあの人のような賜物を持っていないから教会に属していないのではないか」と言う人たちがいたのです。そこで、パウロは教会を体に例えて、教会につらなる一人一人をその部分に例えるのです。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくならないように、また、耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくらないように、他の人と同じ賜物を与えられていなくとも、体の一部ではなくならないのです。むしろ、他の人の賜物と違っていて良いのです。もし体全体が目だったら、どこでにおいをかぎますか。もし全体が目だったら、どこで聞きますか。すべてが同じ一つの部分であるならば、それこそ体は成り立たないのです。ですから、神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。私たちの体は神様がデザインしてくださったものであります。そして、それはキリストの体である教会においても言えることなのです。パウロが11節で、「これらすべてのことは、同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」と記しましたように、神は御望みのままに、私たち一人一人に賜物を与えてキリストの体を形作ってくださったのです。

 21節から24節前半までをお読みします。

 目が手に向かって、「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。

 ここでパウロは自分に与えられている賜物のことで優越感を抱き、他の人の賜物を軽蔑していた者たちを念頭において記しています。コリントの教会では、異言という賜物が特に重んじられていました。コリントの教会では異言の賜物を誇って、異言の賜物を与えられていない兄弟姉妹を見下していたということがあったようです。しかし、パウロは目が手に向かって、「お前は要らない」とは言えないように、また頭が足に向かって「お前たちは要らない」と言えないように、だれも体の一部である兄弟姉妹に「お前は要らない」と言うことはできないのです。要らないどころか、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」とパウロは語るのです。23節では、話が体そのものから体を覆う衣服へと移っています。「体の中でほかよりも弱く見える部分」、「体の中でほかよりも格好が悪い部分」、「見苦しい部分」とはどこのことでしょうか。多くの研究者は性器のことであると言っています。性器は体の中でほかよりも弱く見える部分ですが、必要な部分であります。また、性器は恰好が悪い見苦しい部分であるからこそ、私たちはそれを覆って見栄え良くしようとするのです。このような私たちの体について、パウロは「神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられた」と語るのです。そして、このことはキリストの体である教会においても言えることなのです。

 24節後半から27節までをお読みします。

 神は、見劣りする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

 神はキリストの体である教会をどのように組み立てられたのか?それは見劣りする部分をいっそう引き立たせるという仕方によってでありました。自分の賜物を誇っていた信徒たちは、おそらく自分が優れているからこのような霊の賜物を与えられたと考えたことでありましょう。ですから、彼らは霊の賜物を与えられた自分を誇ったのです。しかし、そうではないのです。神は見劣りする部分をいっそう引き立たせて、キリストの体である教会を造られたのです(1:26~31参照)。

 聖霊は賜物、務め、働きを私たちそれぞれに与えてくださいます。その中でも大きな賜物、務め、働きは、牧師、長老、執事でありましょう。特に御言葉の教師である牧師は教会の中で最も重んじられるべき務めであります(政治規準台四十三条参照)。わたしは牧師でありますけれども、ではわたしは他の部分よりも見栄えがよいから牧師とされたのでしょうか?そうではないのです。なぜなら、神様は見劣りする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられるからです。わたしが見栄えのよい部分であるから神様はわたしを牧師とされたのではなくて、わたしが見苦しい部分であるから、神様はわたしに賜物、務め、働きを与えて牧師としてくださったのです。このことは、長老、執事においても同じであります。しかし、私たちはそのことをすぐに忘れてしまうのです。忘れてしまって、自分が見栄えがよい部分であるから、神様はわたしに賜物、務め、働きを与えてくださったと考えるようになるのです。その結果、教会の中に争いが起こり、互いに配慮することができなくなってしまうのです。

 パウロは26節で「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれればすべての部分が共に喜ぶのです」と語りました。私たちはキリストへの信仰によって、またキリストの聖霊によって結び合わされた一つ体であります。ですから、私たちは苦しんでいる人がいれば、その人のために祈ります。また、その人が尊ばれれば、その人のことで主に賛美をささげるのです。

 パウロはコリントの信徒への手紙二の第11章28節から30節で次のように記しています。

 このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。

 なぜ、パウロは弱さを誇ると言うのでしょうか?それは弱い自分に主の恵みが十分に注がれたからです。「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と語ることができたパウロであったから、弱っている人の弱さに寄り添うことができたのです。これは正直しんどいことです。人の苦しみを自分の苦しみとすることはしんどいことです。しかし、イエス・キリストはどうであったでしょうか?イエス・キリストは私たちの苦しみを御自分の苦しみとされました。イエス・キリストは私たちに代わって、私たちが耐えることのできない苦しみを担ってくださったのです。そして今も、天において私たちのために執り成しの祈りをささげてくださっているのです。ですから、キリストの霊を飲ませていただいたき、キリストの体とされた私たちは、苦しみと喜びを共にすべきであるし、そうせずにはおれないのです。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」。そのようにして、私たちはキリストの体であり、また一人一人がその部分であることを確認することができるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す