自分をよく確かめたうえで 2012年4月01日(日曜 朝の礼拝)
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自分をよく確かめたうえで
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 11章27節~34節
聖書の言葉
11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
11:29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
11:30 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
11:31 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
11:32 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。
11:33 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。
11:34 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。コリントの信徒への手紙一 11章27節~34節
メッセージ
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今朝はコリントの信徒への手紙一第11章27節から34節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
私たちは月に一度、礼拝の中で主の晩餐をしておりますが、コリントの教会では主の日ごとに、仕事を終えた夜に集まって、主の晩餐をしておりました。私たちは礼拝の中で、礼典として主の晩餐をしておりますけれども、コリントの教会において主の晩餐はまさに食事でありました。食事としての主の晩餐の最後に、私たちがしているような礼典としての聖餐式が行われていたのです。コリント教会で行われていた主の晩餐は、いわゆる持ち寄りの食事会でありました。それぞれが食物を持ち寄り、それを主に献げて、主からのもてなしとして皆でそれを食べたのです。このような主の晩餐は、主にある兄弟姉妹への愛を表す愛餐(アガペー)でもあったのです。そこでは持っていない貧しい人も主のもてなしとして食事にあずかることができたのです。しかし、パウロがこの手紙を記したとき、コリントの教会では主の晩餐が原因で仲間割れが生じておりました。自由人の裕福な人たちが、奴隷の貧しい人たちが来るのを待ちきれずに、主の晩餐を乱用して自分の晩餐を始めてしまっていたからです。コリントの教会は「空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいる」という状態であったのです。そのようなコリントの教会にパウロはかつて伝えた主の晩餐の制定の御言葉をもう一度記すのです。そのようにしてパウロは、主の晩餐が私たちのために肉を裂き、血を流された主イエス・キリストを記念する食事であることをコリントの信徒たちに思い起こさせたのです。
27節から32節までをお読みします。
従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。
パウロは、主から受けた「主の晩餐の制定」の御言葉を記した後で、「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」と記しています。ここでパウロが問うているのは、主のパンを食べ、その杯から飲むためのふさわしさであります。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、主の杯を飲んだりする者」とは、具体的にはどのような者たちでしょうか?それは、主の晩餐を乱用して、自分の晩餐を始めてしまう者たちであります。仕事を終えてから来る貧しい人たちの分まで食べてしまって、酔っぱらってしまう人たちのことです。主の晩餐において酔っぱらっていた人たちは、主の晩餐を天の国の宴会のように考えていたようであります。イエス様は神の国を「大宴会」にたとえられましたけれども、コリントのある信徒たちは、主の晩餐を天の国の大宴会のように考えていたようです。コリントの教会には終末に完成される救いが今すでに実現していると考える人たちがいました。そのような人たちにとって、主の晩餐は主イエスを記念する厳かな食事というよりも飲めや歌えの宴会であったのです。その延長線上で彼らは主のパンを食べ、主の杯から飲んでいたのです。つまり、主のパンと主の杯を普段の食べ物と飲み物と同じように飲食していたのです。しかし、前回学んだように、主の晩餐は主イエスが渡される夜に制定された礼典でありまして、パンを私たちのために裂かれた主の体として、杯を新しい契約を立てる主の血として、信仰をもってあずかることが求められているのです。私たちはこのパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせているのだという自覚をもって、聖餐の恵みにあずかるべきであるのです。そのような信仰と自覚を欠いてパンを食べ杯を飲むならば、その人はふさわしくないままで主のパンを食べ、杯を飲むことになり、主の体と血に対して罪を犯すことになるのです。私たちは主イエスの御言葉を信仰をもって受け入れ、パンを主の体として食べ、杯を主の血として飲むことが求められているのです。
パウロは28節で、「だれでも自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」と記していますが、ここで「確かめたうえで」と訳されている言葉を口語訳聖書、新改訳聖書では「吟味して」と訳しております。パウロは私たちが自分自身をよく確かめ、吟味してから、主のパンを食べ、主の杯を飲むことを求めています。私たちは今朝、聖餐の恵みにあずかりますけれども、そのことは先週の週報に予告しておいたことであります。わたしは先週の週報の報告欄に「次週は聖餐の恵みにあずかります。祈りをもって備えましょう」と記しておきました。それは、私たちが自分をよく確かめたうえで、主のパンを食べ、主の杯から飲むためであるのです。ところで、私たちが「自分を確かめた上で」と聞きますと、私たちはそれを個人的に、また内面化して考えてしまうのではないでしょうか?ある人は、自分は罪深い者だから、主のパンを食べ、主の杯を飲むのにはふさわしくないと考えるかも知れません。しかし、そのような考え方は誤解であり、間違いです。むしろ、自分の罪の深さ、大きさを自覚しているならば、いよいよ聖餐にあずかるべきであるのです。聖餐は、罪を犯していない人があずかる礼典ではありません。もしそうならば、だれも聖餐にあずかることはできなくなります。私たちは自分の罪を悔い改めつつ、信仰をもって主のパンと主の杯を受けるべきであるのです。そのようにして、私たちは主イエス・キリストにある罪の赦しにあずかるべきなのです。
パウロが「だれでも、自分をよく確かめた上で」と語るとき、どのようなことを考えていたのかを知る手がかりは続く29節であります。「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」。ここでの「主の体」は、「パン」というよりも「教会」のことであります。パウロは第10章17節で「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と記しておりました。また、少し先の第12章27節でははっきりと「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と記しています。よって、29節の「主の体」は、パンではなく、教会のことを指しているのであります。自分をよく確かめることと主の体である教会をわきまえることは結びついています。つまり、自分をよく確かめるとは個人的に自分の内面を吟味するというよりも、主の体である教会の一員としての自分を吟味するということであるのです。主にある兄弟姉妹との交わりに生きる自分を吟味するということであります。このように読んできますと、パウロがここで問題としているのが、裕福な信徒たちが、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせていることであることが分かります。何も持たない貧しい人々は、主からのもてなしを期待して仕事を終えて集まるのですが、すでに食べ物はなく、空腹のままである。しかし、時間の自由な裕福な人たちは主の晩餐を乱用して自分の晩餐としてしまい、満腹し酔っぱらっている。そのような状態で教会が聖餐式にあずかったらどうなるだろうか。貧しい信徒たちを空腹にしたままで、主のパンを食べ、主の杯を飲むならば、それは自分自身に対する裁きを飲み食いすることになるというのです。パウロは第8章の「偶像に供えられた肉」の問題を論じる中で、「そうすると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストは死んでくださったのです」と語りました(11節)。私たちはそのことを聖餐式において目に見える仕方で確認することができるわけです。私たちは聖餐式において、主の晩餐の制定の御言葉を聞きます。「これは、あなたがたのためのわたしの体である」、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」という言葉を聞いて、自分のためにイエス様が肉を裂き、血を流してくださったことを感謝いたします。また、自分が新しい契約の祝福に入れられていることを感謝いたします。しかし、それは「わたしだけ」ではないのです。信仰を持って主のパンを食べ、主の杯を飲むすべての兄弟姉妹に言えることなのです。「その兄弟のためにも主は死んでくださったのです」というパウロの言葉は、聖餐式においてこそ、私たちが確かめることのできる真実であるのです。けれども、裕福な信徒たちは、貧しい人々に恥をかかせることによって、その兄弟のためにキリストが死んでくださったことを軽んじていたのです。キリストの死を軽んじながら、彼らは聖餐にあずかっていたのです。それゆえ、パウロは「そのような人たちは、自分自身に対する裁きを飲み食いしている」と語るのです。その裁きを、コリントの教会の中にいた弱い者や病人、すでに眠りについた者と結びつけるのです。そのようにして、パウロは裕福な人たちが主を畏れるよう警告するのです。
パウロは29節で「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」と記していましたが、31節では「わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれません」と記しています。「主の体をわきまえる」ことと「自分をわきまえる」ことが並行的に記されています。このことは、31節の「自分」が「主の体である教会の一員である自分」であることを示しています。私たちは主の体である教会の一員として、主にある兄弟姉妹との交わりに生きる者として聖餐にあずかるべきであるのです。パウロは30節で、「そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです」と大胆なことを語りましたが、32節では、主の裁きが教育的な側面を持っていることを記しています。パウロは、「裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです」と語ることによって、コリントの教会にいる弱い者や病人を、さらには既に眠りについた者の遺族を慰めているわけです。つまり、すでに眠りについた者も滅んでしまったのではなくて、主に結ばれて救われたのだとパウロは言っているのです。
33節、34節をお読みします。
わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。
パウロはコリントの信徒たちを「わたしの兄弟たち」と親しく呼びかけ、結論として、「食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい」と記します。時間の自由な裕福な人たちは、仕事を終えてから来る貧しい人たちを待ちきれずに、主の晩餐を乱用して自分の晩餐を始めてしまいました。そのようなことがないように、パウロは「食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい」と言うのです。また、パウロはいささか皮肉を込めて、自分の晩餐を始めてしまう裕福な人たちを空腹な人たちと呼び、自分の家で食事を済ませてから来るようにと言うのです。そのようにして、皆がふさわしい仕方で主のパンを食べ、主の杯を飲むことができるよう勧めているのです。けれども、ただ待ち合わせただけで、コリントの信徒たちはふさわしく主の晩餐にあずかることができるのでしょうか?ここで「待ち合わせる」と訳されている言葉は「受け入れる」とも訳すことができます。むしろ、パウロが願っているのは「互いに受け入れ合う」ことであると思います。自由人の裕福な人たちと奴隷の貧しい人たちとが主にあって互いに受け入れ合うことをパウロは求めているのです。自由人の裕福な人たちと奴隷の貧しい人たちが主にあって互いに受け入れ合うならば、待ち合わせて食卓に着くのは当然のことであります。パウロはできないことを命じているのではなくて、できることを命じているのです。なぜなら、主イエス・キリストは自由人の裕福な兄弟のためだけではなくて、奴隷の貧しい兄弟のためにも死んでくださったお方であるからです。
私たちはこれから聖餐の恵みにあずかります。そこでパンを食べ、杯から飲むとき、どうぞ、主イエスが自分のために肉を裂き、血を流されたことをよく味わい知っていただきたいと思います。またそれだけではなく、自分があずかっているパンとぶどう酒に他の兄弟姉妹もあずかっていることに思いを向けていただきたいと思います。主イエスは私たちを受け入れてくださいました。私たち一人一人のために死んでくださったのです。ですから、私たちは互いに受け入れ合うべきです。主イエスが命じられたように互いに愛し合うべきであります。そして、ここに、パウロが求める主の晩餐にあずかるふさわしさがあるのです。