わたしの記念として 2012年3月25日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。コリントの信徒への手紙一 11章23節~26節 

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はコリントの信徒への手紙一第11章23節から26節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 前回学びましたように、コリント教会では主の日の夜に、それぞれの仕事を終えてから、信者の大きな家に集まって主の晩餐をしておりました。私たちは月に一度、礼拝の中で聖餐式をいたします。しかし、コリント教会において主の晩餐はまさしく食事であったのです。食事の最後に、私たちがしているような聖餐式をしていたのです。主の晩餐はそれぞれが食物を持ち寄って、それを主に献げて、主からいただく食事でありました。しかし、そこに問題が生じておりました。自由人の裕福な信徒が奴隷の貧しい信徒が来るのを待たずに、主の晩餐を乱用して自分の晩餐として食べてしまっていたのです。空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという状態であったのです。ここに生じているのはまさに「食べ物の恨み」であります。本来、主の晩餐は、主にある兄弟愛を表す愛餐(アガペー)でありました。主の晩餐は教会の一致を表す食事であったのです。しかし、その主の晩餐によってに教会の間に仲間割れが生じてしまっていたのです。それゆえ、パウロは22節でこう記すのです。「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません」。この言葉は2節の御言葉と対応しております。パウロは2節でこう記していました。「あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います」。この「立派だと思う」(エパイネオー)は、「ほめたいと思う」とも訳すことができます(新改訳参照)。パウロは2節では、「あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているので、ほめたいと思う」と記しました。しかし、今朝の22節では、「この点についてはほめるわけにはいかない」と記すのです。それは、主の晩餐については、コリントの信徒たちがパウロのことを思い出さず、さらにはパウロから伝えられた教えを伝えたとおりに守っていなかったからです。それゆえ、パウロはもう一度「主の晩餐の制定」の御言葉を記すのです。

 23節の前半をお読みします。

 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。

 ここでの「受けた」(パララムバノー)と「伝えた」(パラディドーミィー)は、ユダヤ人が伝承を表すときに用いる専門用語であります。ですから、パウロが主イエスからの啓示によって、「主の晩餐の制定」の御言葉を受けたというよりも12使徒を中心とするエルサレム教会を経て受けたということであります。「主から受けたもの」とは、その伝承の究極的な源が主であることを言い表しているのです。また、パウロはダマスコ途上において復活の主イエスと見えたわけですから、そのような意味で、伝承の正当な担い手とされたとも言えるわけであります。パウロは復活の主イエスから主の晩餐の制定の御言葉を直接は受けなかったにしても、復活の主と見えることによって、主の晩餐の伝承を伝える正当な担い手とされたのです。

 23節の後半から24節までをお読みします。

 すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

 ここに記されているのは、福音書に記されている主の晩餐の場面であります。新共同訳聖書は小見出しの後に、丸括弧で並行箇所を記しておりますけれども、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に、主の晩餐の場面が記されています。しかし、ここで心に留めておきたいことは、今朝の御言葉が、主の晩餐について記している最も古い文章であるということです。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書の内、最も早く記されたのはマルコによる福音書であると考えられています。マルコによる福音書が紀元70年頃記されて、それを一つの資料としてマタイによる福音書とルカによる福音書がそれぞれ紀元80年ごろ記されたと考えられているのです。しかし、コリントの信徒への手紙一は紀元55年頃に記されました。マルコによる福音書よりもおよそ15年早く記されたのです。ですから、今朝の御言葉は福音書が記される前に初代教会に伝えられたいた主の晩餐についての伝承であるのです。

 「引き渡される夜」とありますが、これは主イエスが12人の一人であるイスカリオテのユダによって、最高法院の議員たちに引き渡された夜のことであります。並行箇所の福音書の記事をお読みいただくと分かりますように、その夜の食事は過越しの食事でありました。主イエスは過越しの食事の席において、主の晩餐を制定されたのです。主イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である」と言われました。主イエスが感謝の祈りをささげられたことは、主イエスがその食卓の主人であることを示しています。イエス様はまさしくその晩餐の主であられたのです。イエス様はパンを裂いて、「これは、あなたがたのためのわたしの体である」と言われました。ただパンを指して「わたしの体である」と言われたのではなくて、パンを裂いて、その裂かれたパンを指して、「これは、あなたがたのためのわたしの体である」と言われたのです。イエス様は御自分が最高法院の手に引き渡されること、さらには御自分が十字架の死に引き渡されることをご存じでありました。また、御自分の死が弟子たちを罪から贖う死であることをご存じでありました。なぜならイエス様はイザヤ書第53章に預言されている主の僕として神様によって十字架の死に引き渡されるからです。イザヤ書第53章10節から12節までをお読みします。

 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/かれは戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。

 イエス様はこれから御自分が引き渡される十字架の死が、弟子たちの罪を贖うための身代わりの死であることをご存じでありました。そして、そのことを教えるために、主イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である」と言われたのです。主イエスが引き渡される夜は過越しの食事でありましたけれども、まさに主イエスは私たちの過越しの子羊として、自らを十字架の上にささげてくださったのです(5:7参照)。主イエスは過越しの食事に代わるものとして、また過越しの食事を完成するものとして、主の晩餐を制定されたのであります。それゆえ、主イエスは続けて「わたしの記念としてこのように行いなさい」と命じられたのです。過越しの食事は年に一度でありましたけれども、初代教会は主の日ごとに、毎週、主の晩餐を祝ったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。25節をお読みします。

 また、食事の後で、杯も同じようにして、この杯は、わたしの血で立てられた新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

 主の晩餐の場面は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に記されていると申しましたが、パウロの言葉に近いのはルカによる福音書の記述であります。ルカによる福音書を見ますと、「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた」と記されています。「この杯」には「ぶどう酒」が入っておりました(マルコ14:25参照)。イエス様は杯の中のぶどう酒と御自分の血を重ねて合わせて、「この杯は、わたしの血で立てられた新しい契約である」と言われたのです。このイエス様の御言葉は、2つの旧約聖書の箇所を背景にして語られています。一つは出エジプト記の第24章に記されているシナイ契約の締結の場面です。出エジプト記の第24章3節から8節までをお読みします。

 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエル十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」。

 シナイ契約が雄牛の血によって締結されたように、主イエスは十字架で流される御自身の血によって新しい契約を締結されるのです。神がイスラエルと新しい契約を結ばれることは、エレミヤ書の第31章に預言されておりました。エレミヤ書の第31章31節から34節までをお読みします。

 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 イエス様は十字架の血潮をもって、エレミヤが預言していた新しい契約を結んでくだいました。主イエス・キリストを信じる私たちは、十字架の血潮によってすべての罪が赦され、聖霊によって主の掟を心に刻まれて、主を知る民とされているのです。私たちはパンを食べ杯を飲むごとに、新しい契約に生かされている恵みを確認することができるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。

 パンを裂いて食べることも、また杯から飲むことも、イエス様は「わたし記念として」行うようにとお命じになりました。ここで「記念」と訳されている言葉(アナムネーシス)は、「思い出すこと」を意味します。ですから、岩波書店から出ている翻訳聖書は、「私を想い起こすために、このことを行いなさい」と訳しています。主の晩餐は、イエス様を、それも私たちのために肉を裂き、血を流されたイエス様を思い起こすための食事であり、礼典であるのです。しかし、それは亡くなった故人を偲ぶ食事ではありません。なぜなら、主イエスは十字架の死から三日目に栄光の体で復活されたからです。私たちのために死なれた主は、私たちの救いを完成するためにやがて来られる主でもあります。ですから、パウロは26節でこう記すのです。

 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

 26節は主イエスの御言葉ではなく、パウロの言葉であります。パウロは第1章23節で「わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」と記しておりましたが、主の晩餐も同じことを告げ知らせているのです。イエス・キリストが十字架について死んでくださった。これは繰り返すことのできない歴史の中で起こった一回的な出来事です。しかし、主イエスは主の晩餐を制定されることによって、私たちがパンを食べ、杯から飲むごとに、主イエスが十字架について私たちのために死んでくださったことを想い起こすことができるようにしてくださったのです。「礼典は見える御言葉である」と言われますが、聖餐式において私たちは十字架につけられたキリストを仰ぐことができます。私たちはパンを食べ、杯から飲むごとに、イエス・キリストがすべての人のために十字架について死んでくださったことを告げ知らせているのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す