礼拝でのかぶり物 2012年3月11日(日曜 朝の礼拝)
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礼拝でのかぶり物
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 11章2節~16節
聖書の言葉
11:2 あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。
11:3 ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。
11:4 男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。
11:5 女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。
11:6 女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。
11:7 男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。
11:8 というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、
11:9 男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
11:10 だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。
11:11 いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。
11:12 それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。
11:13 自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。
11:14 -15男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。
11:16 この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。コリントの信徒への手紙一 11章2節~16節
メッセージ
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今朝はコリントの信徒への手紙一第11章2節から16節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
2節をお読みします。
あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。
ここでパウロはコリントの信徒たちをほめています。これは唐突な気がしますが、おそらく、パウロはコリントの信徒たちからの手紙にあった文章を用いたのだと思います。コリントの信徒たちからの手紙の中に、「私たちは何かにつけてパウロ先生を思い出し、パウロ先生から伝えられたとおり、伝えられた教えを守っています」という一文があって、それをパウロはここで用いていると考えられるのです。そして、この伝えられた教えの中には、ガラテヤの信徒への手紙第3章28節のパウロの教えも含まれていたのではないかと思います。ここでは26節からお読みします。
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
コリント教会のある女たちは、「そこではもはや、・・・・・・男も女もありません」というパウロの教えを守って、礼拝で頭に物をかぶらなかったと考えられています。彼女たちは、頭に物をかぶらないことによって、自分たちは男と女という性別を越えていると主張したのです。また、彼女たちの主張の背後にはマタイによる福音書第23章30節の主イエスの御言葉があると考えられています。そこには主イエスとサドカイ派の人々との「復活についての問答」が記されています。そこでイエス様は、「復活する時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と言われました。コリント教会のある女たちは、頭に物をかぶらないことによって、男と女という性別を越えた天使のようになっていると主張していたのです。ある英語の注解書を読んでおりましたら、エスカトロジカルウーメンという言葉がありました。これは終末論的な女たちという意味です。コリントの教会には終末に完成する救いに今自分たちはあずかっていると主張する人たちがおりまして、どうもその中には女性が多くいたようであります。私たちは第7章で「結婚について」学びましたが、コリントの教会には、夫婦の交わりを止めてしまう者たち、さらには離縁してしまう者たちがいました。そのことも、「終末に完成する救いに今自分たちはあずかっている」という主張と関係があったのです。「復活する時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」のですから、すでに天使のようになっている者たちが、夫婦関係を続けることはおかしいわけです。また第13章1節でパウロは「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいドラ、やかましいシンバル」と記していますが、終末論的な人たちは、「天使たちの異言」を語っていると主張していたようです。さらに第15章12節でパウロは、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」と記していますが、これも終末論的な人たちのことを言っていると思われます。終末論的な人たちは復活を霊的なものと考えて、すでに自分たちは復活したと主張していたのです。すでに復活したのですから、彼らは天使たちのようになっているわけですね。そのように主張する女たちを念頭に置きながらパウロは今朝の御言葉を記しているのです。
3節から6節までをお読みします。
ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。
ここでパウロは「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」という序列、秩序から、女は頭に物をかぶるべきであることを語っています。教会には神、キリスト、男、女という序列がある。それゆえ、男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになる。また、女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになるとパウロは言うのです。このパウロの言葉の背後には「男は祈ったり預言したりする際に、あたまに物をかぶらない。女は祈ったり預言したりする際に、あたまに物をかぶる」という当時の習慣があります。その習慣を終末論的な女たちは、頭に物をかぶらないことによって無効にした。そのようにして男と女の性別の違いを乗り越えた者として振る舞ったのです。しかし、パウロはキリスト者であっても、神、キリスト、男、女という序列があることを知ってもらいたいと言うのです。ここでは「祈ったり、預言したりする際に」とありますように、礼拝でのことが言われています。新共同訳聖書は「男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭(あたま)に物をかぶるなら、自分の頭(あたま)を侮辱することになります」と記していますが、「頭(あたま)を侮辱する」の「あたま」はむしろ「かしら」と読むべきだと思います。つまり、3節との繋がりから言えば、「侮辱することになる頭(かしら)」とは「キリスト」のことであるのです。ですから、パウロは「男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭(かしら)であるキリストを侮辱することになる」と言っているのです。なぜなら、男が頭に物をかぶるならば、その男はキリストを頭(かしら)としているのではなく、他の男を頭(かしら)とする女の位置に自らを置いているからです。また、パウロは「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭(かしら)である男に恥をかかせることになる」と語ります。なぜなら、女が頭に物をかぶらないならば、その女は頭(かしら)である男をないがしろにして、キリストを頭(かしら)とする男の位置に自らを置いているからです。パウロは、「それは、髪の毛をそり落としたのと同じである」と語ります。これは極端な言い方ですが、頭に物をかぶらないで礼拝することは、自分を男の位置においていることであり、それは結局、男のように髪の毛をそり落としたのと同じことなのだ、と言っているのです。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいなら、頭に物をかぶるべきではないかとパウロは言うのです。頭に物をかぶらないことで、男と女の性別の違いを乗り越えたと言うけれども、それならいっそのこと髪の毛をそり落としてみてはどうか。しかし、それが恥ずかしいなら、頭に物をかぶるべきではないですか。こうパウロは言うのであります。
7節から10節までをお読みします。
男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのだからです。だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。
ここでパウロは「礼拝の際に男は頭に物をかぶるべきではない。女は頭に物をかぶるべきである」ことを、神の創造の御業から説得しようとしています。創世記の第1章27節に、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と記されていますように、男も女も神にかたどって造られたのです。もちろん、パウロもそのことを知っておりますが、しかし、パウロは男と女の違いを強調するために、創世記の第2章の御言葉に基づいてこの所を記しているのです。創世記第2章によれば、神が最初に造られた人はアダム、男でありました。詩編第8編は、「人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ/御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました」と歌っていますが、この栄光と威光の冠は先ずアダム、男に与えられたのです。創世記第2章によれば、アダムとエバは同時に造られたのではなく、最初にアダム、男が神の姿と栄光を映す者として造られたのです。ですから、パウロは「頭に物をかぶるべきではない」と言うのです。頭に物をかぶることによって、神の栄光を覆ってはいけないとパウロは言うのです。また、パウロは「女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです」と記します。これも創世記第2章の御言葉に基づいています。主なる神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言って、アダムを深い眠りに落とされ、彼のあばら骨から女を造られました。そして、アダムのもとに連れてきたのです。その時のアダムの喜びが次のように記されています。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに男(イシュ)から取られたものだから」。パウロはこの創世記第2章の御言葉に基づいて「女は男の栄光を映す者である」と言うのです。しかし、パウロは「だから頭に物をかぶりなさい」とは記しておりません。パウロは「だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです」と言うのです。ここでパウロが「天使たち」に言及しているのは、終末論的な女たちが、頭に物をかぶらないことによって、天使たちのようになっていると主張していることへの皮肉と読むことができます。ヘブライ人への手紙第2章14節によれば、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」者たちでありました。その天使たちのために、男の栄光を映す者である女は頭に力の印をかぶるべきであるとパウロは言うのです。ここでは「かぶり物」が「力の印」と言い換えられています。ここで「力」と訳されているのはエクスーシアでありまして、「自由」とも「権利」とも訳すことができます。男の栄光を映す者である女にとって、かぶり物は祈ったり預言したりする際に必要な「自由のしるし」、「権利のしるし」であるのです。よって、男の栄光をあらわす女が頭に物をかぶらないなら、それは祈ったり、預言したりする自由、権利を自ら捨ててしまうことになるのです。
11節、12節をお読みします。
いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、またすべてのものが神から出ているからです。
パウロはこれまで神の創造の御業に基づいて語ってきたのですが、ここでは主イエス・キリストに結ばれた者として語っています。パウロが「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません」と記しているように、主イエス・キリストにおいても、男と女の区別はなくならないのです。むしろ、男と女は互いを必要としている、互いになくてはならない存在となるのです。イエス様は「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」と言われましたけども、それは復活の時に、結婚する必要がなくなるということでありまして、男でも女でもない存在に私たちがなることではないのです。私たちは男は男として復活し、女は女として復活するのです。パウロは「主においては男なしに女はなく、女なしに男はない」理由として、「それは女が男から出たように、男も女から生まれ、またすべてのものが神から出ているからです」と語ります。「女が男から出た」とはアダムのあばら骨からエバが造られたことですが、これは男と女が創造された最初のことでありまして、それ以降は女の胎から男も女も生まれてくるのです。それゆえ、男も女も神から出ていると言えるのです。詩編第139編に、「あなたは・・・母の胎内においてわたしを組み立ててくださった」とありますように、男も女も主によって造られたのです。ですから、パウロは神様の御前に男も女も等しく尊い存在であることを否定しているのではありません。男も女も神様の御前に等しく尊い存在なのです。しかし、それは男が女になることでも、女が男になることでもありません。コリントの教会のある女たちは、頭に物をかぶらないことによって、男と女の区別を乗り越えようとしました。しかし、神様の御前に男と女が平等であるとはそのようなことではないのです。むしろ、主によって男として造られた自分を大切にすること、また主によって女として造られた自分を大切にすることで、男と女が互いに助け合う豊かな交わりが生まれるのです。
13節から16節までをお読みします。
自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで祈るのが、ふさわしいかどうか。男は長い髪が恥であるのに対して、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものが教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。
ここでパウロは「男は長い髪が恥であるのに対して、女は長い髪が誉れとなる」という自然の感情に訴えて説得しようとしています。これは私たちにもよく分かることではないでしょうか?パウロは「長い髪は、かぶり物の代わりに与えられている」と言うのですが、そのような習慣がない現代の私たちが読みますとこじつけのようにも思えます。パウロも自分の説得に心許なさを感じたのでしょう。「この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません」と言ってこの議論を打ち切っています。結局、女があたまに物をかぶるのは神学的な事柄というよりも、当時、広く行われていた習慣なのです。パウロはその習慣を神学的に根拠づけて、習慣を無効にしようとする女たちを何とか説得しようとしたのです。当時の神の諸教会では、礼拝の際に女は頭に物をかぶって出席していたようです。そのような神の諸教会の習慣にコリント教会も倣うように、パウロは強く求めているのです。
今朝の御言葉は、礼拝の際に女は頭に物をかぶることが習慣であった教会に書き送られた御言葉でありまして、時代的な制約があると言えます。つまり、今朝の御言葉は、私たちにも女は頭に物をかぶって礼拝に出席することを教えているのではないのです。そのような習慣がない私たちが、そのようなことをする必要はないのです。では、今朝の御言葉から学ぶべきことは何もないかと言えばそうではないと思います。私たちは、今朝の御言葉から、聖書の教える男女平等とは主にあって男も女も等しく尊い存在であるということであって、男が女のようになることでも、女が男のようになることでもないことを教えられます。また、男が男として生きるところに、女が女として生きるところに、互いを必要とする豊かな交わりがあることを教えられるのです。私たちが男であること、あるいは女であることを大切にして生きるところに、神様が望まれる豊かな交わりが生まれるのです。