主の晩餐 2012年3月18日(日曜 朝の礼拝)
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主の晩餐
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 11章17節~22節
聖書の言葉
11:17 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。
11:18 まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。
11:19 あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。
11:20 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
11:21 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
11:22 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。コリントの信徒への手紙一 11章17節~22節
メッセージ
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今朝はコリントの信徒への手紙一第11章17節から22節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
前回私たちは「礼拝でのかぶり物」について学びましたが、パウロは第11章2節から第14章40節まで集会の秩序について教えています。そこでパウロは、「礼拝でのかぶり物」について、「主の晩餐」について、「霊的な賜物、特に異言」について教えております。第11章17節から34節までは「主の晩餐」についての教えでありまして、今朝は17節から22節に記されているコリント教会でもたれていた主の晩餐の問題についてご一緒に学びたいと思います。
17節から19節までをお読みします。
次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかも知れません。
私たちは主の日の礼拝を日曜日の午前10時30分に、教会堂に集まってささげています。しかし、コリント教会では日曜日の夜に、大きな家を持つ信者の家に集まって礼拝をささげておりました。私たちのカレンダーでは日曜日は休日となっていますが、この手紙が記された時代、日曜日は休日ではありませんでした。ですから、それぞれの仕事を終えてから夜に、大きな家を持つ信者の家に集まって礼拝をささげたのです。私たちは教会堂に集まって礼拝をささげていますが、コリント教会は、大きな家を持つ裕福な信者の家で礼拝をささげていたのです。教会(エクレーシア)とは「召し出された者の集い」でありますが、建物が教会ではなくて、主イエスの名によって集まる者たちこそ、教会であるのです。それぞれの仕事を終えた夜に集まったコリントの信徒たちがしたこと、それは主の晩餐、食事でありました。私たちは月に一度、第一週の礼拝において聖餐式をいたします。そこで私たちは、23節以下に記されている「主の晩餐の制定」の御言葉を読み、一欠片のパンを食べ、少量のぶどう酒を飲みます。私たちは食事というよりも儀式として、パンを食べ、ぶどう酒を飲むのです。しかし、コリント教会で行われていた「主の晩餐」はまさしく食事でありました。食事の最後に私たちが今しているような「聖餐式」が行われていたようであります。コリント教会では、初めそれぞれが食べ物を持ち寄って主に献げて、それを皆で分け合って食卓の交わりをしていたようです。これは何も持たない貧しい人々が食事にあずかる慈善の業でもありました。豊かな人々も貧しい人々も同じ食卓にあずかることによって、そこに主にある一致が表されたのです。しかし、パウロは17節でこう言うのです。「次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです」。このパウロの言葉は2節と対応しています。パウロは2節で、「あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います」と記しておりました。ここで「立派だと思う」と訳されている言葉は「ほめたいと思う」と訳されているのと同じ言葉です。「ほめたいと思う」と言っていたパウロが、ここでは「ほめるわけにはいかない」と言うのです。それは、コリント教会の集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いていたからであります。口語訳聖書は、「あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである」と翻訳しています。これは大変厳しい言葉です。なぜ、パウロはこのように言い切ることができたのでしょうか?第一の理由は、コリントの信徒たちが教会で集まる際に、お互いの間に仲間割れがあったからです。パウロは第1章で既に「仲間割れ」(スキスマタ)について語っておりました。しかし、それは「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」と言った指導者を旗印とする党派争いでありました。今朝の御言葉で言われている「仲間割れ」は、これとは種類の違うもののようであります。今朝の御言葉の文脈からすると、ここでの「仲間割れ」は食べ物にまつわるもののようです。パウロはこのことを誰から聞いたかを記しておりませんが、「わたしもある程度そういうことはあろうかと思います」とある程度そのようなことがあることを信じていると告げています。さらにパウロは、「あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかも知れません」と仲間争いが持つ積極的な面についても記しています。これはコリント信徒たちへの配慮、あるいは譲歩と言えましょう。仲間争いしている彼らを全面的に否定するのではなく、仲間争いが持つ良い点に着目してその現実を受け入れているのです。しかし、パウロがここで強調したいのはお互いの間に仲間割れがあることの悪い点であります。パウロはお互いの間に仲間割れがあっては、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないと言うのです。
20節、21節をお読みします。
それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
コリントに住む人々は20パーセントが自由人であり、80パーセントは奴隷であったと言われています。ですから、コリント教会の信徒の多くが奴隷であったと思われます。裕福な自由人もおりましたけれども、多くは貧しい奴隷であったのです。主の晩餐は、自由人と奴隷といった身分の差、あるいは富む者と貧しい者という貧富の差を超える食卓でありました。主の晩餐は、同じ食卓につくことによって主にあっては身分の差、貧富の差はないことを表す食事であったのです。しかし、コリント教会では主の晩餐がもはや主の晩餐として成り立っていないと言うのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹な者がいるかと思えば、酔っている者もいるからです。コリント教会では仕事を終えた夜に集まっていたと申しましたが、それぞれ仕事が終わる時間はばらばらなのです。自由人は時間が自由ですから比較的早く集まることができました。しかし、奴隷は時間が自由にできず日が暮れてからしばらくして集まるということも多かったようであります。その奴隷である信者が仕事を終えて、教会に行くともう食べ物がなくなっており、何も食べることができない。しかし、自由人の信者は満腹で、酔っている者もいると言うのであります。ここで「自分の分を食べてしまい」とありますが、この「分」と訳されているのは「晩餐」と訳されているのと同じ言葉です。富んでいる自由人は、主の晩餐を乱用して自分の晩餐としてしまっていたのです。それで、パウロは「一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならない」と言ったのです。また、「あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いている」と言ったのです。主の晩餐については、パウロは第10章の16節から17節で次のように述べておりました。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。コリント教会では、私たちが礼拝の中で行っている聖餐式を、主の晩餐である食事の最後に行いました。しかし、何も食べる者がない空腹な人と、満腹して酒に酔っている者とが一緒に聖餐にあずかって、主にある一致を表すことができるのでしょうか?そのような状態がふさわしくないことは明かであります。それゆえ、パウロは22節でこう記すのです。
22節をお読みします。
あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。
このパウロは言葉は、貧しい人々を待つことができずに、教会で自分の晩餐をはじめてしまう裕福な人々に対する言葉であります。パウロは33節、34節でこう記しています。「わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい」。ここでの「空腹の人」とは、貧しい人々が来るのを待ちきれずに自分の晩餐を始めてしまう裕福な人のことであります。そういう人は自分の家で食事を済ませてから集まりなさいとパウロは言うのです。主の晩餐を乱用して自分の晩餐としてしまうことは、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせることであるからです。ここで「貧しい人々」と訳されている言葉は、直訳すると「持っていない人々」となります。主の晩餐ではそれぞれに食べ物を持ち寄って、それを主に献げて、主の晩餐として食卓を共にしておりました。仕事を終えてから来る何も持たない人々も、主のもてなしを期待して教会に来るのです。「主の晩餐」とはイエス様が主人としてもてなしてくださる豪華な夕食という意味であります。ですから、主の晩餐は、それぞれ持ち寄った食べ物をまず主に献げて、主から与えられた物として分け合ったのです。しかし、コリント教会では、主の晩餐においても、富んでいる者と貧しい者との違いが明かとなってしまっていたのです。すなわち、「空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいる」という状態になってしまっていたのです。そして、このような状態が、教会の内に仲間割れを生じさせていたのです。「食べ物の恨みは恐ろしい」と言いますが、主の晩餐によって、かえって富める自由人と貧しい奴隷との間に争いが生じていたのです。
パウロは「神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようと言うのですか」と、「神の教会」と「貧しい人々」とを同義語のように記しています。主の晩餐を乱用して自分の晩餐にしてしまう者たちは、仕事を終えてから来る貧しい人々に恥をかかせるだけではなく、神の教会にも恥をかかせているのです。さらには主の晩餐を制定された主イエス・キリストに恥をかかせているのです。主の晩餐ですから、そこに食べ物がないならば、その食卓の主であるイエス・キリストに恥をかかせることになるわけです。それゆえ、パウロはこの点については、決してほめることはできなかったのです。パウロは、もう一度コリントの信徒たちに伝えた、主の晩餐の制定の言葉を記さずにはおれなかったのであります。