神の栄光をあらわすために 2012年3月04日(日曜 朝の礼拝)
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神の栄光をあらわすために
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 10章23節~11章1節
聖書の言葉
10:23 「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。
10:24 だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。
10:25 市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。
10:26 「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。
10:27 あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。
10:28 しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。
10:29 わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。
10:30 わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。
10:31 だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。
10:33 わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。
11:1 わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。コリントの信徒への手紙一 10章23節~11章1節
メッセージ
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パウロは第8章から「偶像に供えられた肉」の問題について語ってきました。コリント教会の知識のある人たちは、偶像の神殿の食事の席に着いて偶像に供えられた肉を平気で食べておりました。しかしパウロはそれを偶像礼拝と呼び、偶像礼拝の背後には悪霊どもが働いていることを指摘することによってそのことを禁じました。主の食卓にあずかっているキリスト者は悪霊の食卓にあずかることはできないのです。今朝の御言葉では、パウロは偶像の神殿での食事以外の場合について教えています。一つは市場で肉を買う場合についてであり、もう一つは信者でない人に招待された場合についてです。これらの具体例を扱う前に、パウロは23節、24節で物事を考える筋道を記しています。
23節、24節をお読みします。
「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。
新共同訳聖書は「すべてのことが許されている」という言葉をカギ括弧で括っていますが、これはコリント教会の知識のある人たちの主張をパウロが引用しているという新共同訳聖書の解釈であります。そして、この主張は第6章12節でも引用されていました。コリント教会のある者たちは「わたしには、すべてのことが許されている」と言って、みだらな行いをしていたのです。それと同じように、コリント教会の知識のある人たちは「すべてのことが許されている」と言って、偶像の神殿で食事の席に着いていたのです。パウロは「すべてのことが許されている」という主張を認めながらも、「しかし、すべてのことが益になるわけではない」と修正を加えています。すなわち、許されているすべてのこととは、益になるすべてのことであるのです。また、パウロは「しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」と修正を加えています。「造り上げる」という言葉を、パウロはすでに第8章1節で記しておりました。「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」。今朝の御言葉で「わたしたちを造り上げるわけではない」とありますように、ここでは「教会を造り上げる」ことが言われているのです。すなわち、許されているすべてのことは、私たちをキリストの教会として造り上げるすべてのことであるのです。「すべてのことが許されている」という言葉は、第6章12節にも記されていたと申しましたが、第6章12節では「わたしには、すべてのことが許されている」と記されておりました。第6章では個人的であるわけです。それに対して今朝の御言葉では「わたしには」という言葉が記されておらず、教会という共同体的視点から語られているのです。それゆえ、パウロは「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」と言うのです。
25節、26節をお読みします。
市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。
コリントの肉市場では、偶像に供えられた肉が流通しておりました。神殿で仕える祭司たちの報酬である肉が市場に売りに出されていたのです。コリント教会の弱い人たちは、市場で売っている肉が偶像に供えられた肉であるかないかを確認して購入していたようであります。しかし、パウロは「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と言うのです。なぜなら「地とそこに満ちているものは、主のもの」であるからです。「地とそこに満ちているものは、主のもの」。これは旧約聖書の詩編第24編1節からの引用でありますが、ここでの「主」はイエス・キリストを指しております。地とそこに満ちているものは、主イエス・キリストのものであるのです。コリントの信徒たちはそのことを知っているのですから、市場で売っているものは良心の問題としていちいち詮索せず、主のものとして感謝し、何でも食べるべきであるのです。
27節から30節までをお読みします。
あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。わたしがこの場合、「良心」という言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。
ここでパウロは信仰を持っていない人の家に招待され、それに応じる場合について記しています。偶像の神殿の食堂に招待された場合は、そこで出される肉は100パーセント偶像に供えられた肉でありますから、そのような場合はキリスト者であることを理由に断らなくてはなりません。しかし、信仰を持っていない人の家に招待され、それに応じる場合は、「自分の前に出されるものを、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」とパウロは言うのです。これは市場で売っている肉の場合と同じであります。「地とそこに満ちているものは、主イエス・キリストのもの」でありますから、主に感謝して何でも食べたらよいのです。しかし、もしだれかがあなたに「これは偶像に供えられた肉です」というなら、話は別であります。ここで「偶像に供えられた肉」と訳されている言葉は直訳すると「聖なる供え物」となります(岩波書店の翻訳聖書参照)。偶像という言葉は、唯一の神、唯一の主を知っているキリスト者が用いる蔑称でありまして、信仰を持っていない人、異教徒にとって、偶像は神々であり、「偶像に供えられた肉」は「聖なる供え物」であるのです。ですから、あなたに「これは聖なる供え物の肉です」と言うだれかとは、あなたを招待してくれた信仰を持っていない人であると思われます。招待してくれた信仰を持っていない人があなたに、「これは聖なる供え物の肉です」と言うならば、その人のために、そのように言う人の良心のために食べてはいけないとパウロは言うのです。しかし、それはわたしの自由が他人の良心によって左右されたのではないのです。また、わたしが主に感謝して食べている肉が、そのように言われたからと言って汚れたものとなるわけではないのです。キリスト者は「地とそこに満ちているものは主のもの」であることを知っていますから、「これは偶像に供えられた肉です」と悪口を言われても、感謝して食べることができるのです。「地とそこに満ちるものは主のものである」ことを知っているキリスト者はすべての肉に対して自由なのです。そして、ここではその自由によって、他人の良心のために食べないことをパウロは求めているのです。なぜなら、もしだれかがあなたに「これは聖なる供え物です」と言った後で、あなたがその肉を食べるのを見たならば、キリスト者であっても神々の御利益にあずかりたいのだなぁと偶像に対する確信を強めるかも知れないからです。すなわち、ここでパウロは第8章13節と同じ趣旨のことを言っているのです。パウロは第8章13節で、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と語りました。パウロは兄弟をつまずかせないために、わたしは肉を食べないと言うのです。ではそれは自由ではないかと言えばそうではありません。パウロは自由に肉を食べないのです。肉を食べないという自由もあるのです。そのことを教えるために、パウロは第9章で自分のことを記したのであります。パウロはキリストの使徒でありながら、福音のために使徒としての権利を用いませんでした。また、パウロはだれに対しても自由なものでありましたが、何人かでも救うために自分をすべての人の奴隷にしたのです。私たちキリスト者の自由とは、主に感謝して何でも食べることでもありますが、他人の良心のために食べないということでもあるのです。ですから、他人の良心がわたしの自由を左右しているのではないのです。また、他人の悪口がわたし感謝の思いを損なうわけでもないのです。わたしが自由に食べないのです。自由の主体はわたし自身なのです。
31節、32節をお読みします。
だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。
パウロはこれまで「他人の良心」という視点から自由について語ってきましたが、ここでは「神の栄光」という視点から自由について語っています。新共同訳聖書は「神の栄光を現すために」と訳していますが、もとの言葉には「現す」という言葉はありません。ちなみに、口語訳聖書は「すべて神の栄光のためにすべきである」と訳しています。ここでの「食べるにしろ飲むにしろ」は、先程の信仰のない人の家での食事が背景となっています。コリントの信徒たちは自分の栄光のために「偶像に供えられた肉」を食べるべきではなく、他人の良心のために、また神の栄光のために食べないべきであるのです。ここでは「他人の良心のため」と「神の栄光のため」とが重なっています。それゆえ、パウロは何をするにしても神の栄光のためにしなさいと語った後で、あなたは、ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、人を惑わす原因にならないようにしなさいと言うのです。このパウロの言葉は、第9章19節から22節を背景にして語られています。パウロはそこでユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシア人にはギリシア人のように、弱い人には弱い人になったと語っておりました。ユダヤ人を惑わす原因にならないとは、偶像に供えられた肉を食べないということです。また、ギリシア人を惑わす原因とならないとは招待された家で出された肉をいちいち詮索せずに食べるということです。さらには、もし「それは偶像に供えられた肉です」と言われたならば、そのように言う人の良心のために食べないということです。神の教会を惑わす原因にならないとは、偶像の神殿で食事の席に着いて食べないことです。さらには、市場で売っている肉をいちいち詮索せず食べるということです。このようにコリントの信徒たちは、神の栄光のために、人を惑わす原因とならないように肉を食べるか、食べないかの判断を自分でしなければならないのです。「すべては神の栄光のために」とは、私たち改革派教会のモットーでありますが、今朝の御言葉の文脈からすれば、伝道という観点から言われていることが分かります。私たちは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても神様を伝えるためにすべきであるのです。そして、その模範こそパウロであり、さらにはイエス・キリストであるのです。
33節、第11章1節をお読みします。
わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。
パウロが宣べ伝えるキリストは何より「十字架につけられたキリスト」でありました(1:23参照)。キリストは人々を救うために、自分の益ではなく、多くの人の益を求めて十字架につきました。キリストは自由に十字架についたのです。そして、そこにこそ神の栄光が現されたのです(ヨハネ17章参照)。パウロはそのキリストの律法に従う者であるゆえに、すべての人に対してすべてのものになることができたのです(9:21,22参照)。そして、私たちもパウロのようにキリストの律法に従うことが求められているのです。ここでのキリストの律法とは「人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めてすべてのことをすること」です。神の栄光は、私たちが人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めてするところに光り輝くのです。