偶像礼拝を避けなさい 2012年2月26日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:14 わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。
10:15 わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。
10:16 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。
10:17 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。
10:18 肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。
10:19 わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。
10:20 いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。
10:21 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。
10:22 それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。コリントの信徒への手紙一 10章14節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はコリントの信徒への手紙一第10章14節から22節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 14節、15節をお読みします。

 わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。

 パウロはコリントの信徒たちに、「わたしの愛する人たち」と呼びかけております。パウロはコリントの信徒たちへの愛から「偶像礼拝を避けなさい」と言うのです。ここでの「偶像礼拝」には、「偶像の神殿の食卓に着く」ことも含まれています。コリント教会の知識のある人たちは偶像の神殿の食卓に着いて、偶像に供えられた肉を平気で食べていました。しかし、パウロは偶像の神殿の食卓に着くことも偶像礼拝であると言うのです。「こういうわけで」とありますうに、パウロはそのことを私たちの先祖たちであるイスラエルの民のむさぼった悪を通して明かとしました。7節に「彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります」と記されていたとおり、偶像への供え物を飲み食いすることは、礼拝行為の一部であるのです。それゆえパウロは偶像の神殿の食卓に着くことを偶像礼拝と呼び、それを避けるように命じるのです。ここで「避ける」と訳されている言葉は「逃げる」とも訳すことができます。偶像礼拝から逃げてどこへ行くのか?それは真実な方である神のもとへであります。前回も申しましたように、人は試練に遭うとき、偶像礼拝の誘惑を受けます。しかしそのとき私たちは偶像礼拝から逃げて、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも供えてくださる神のもとへ行くべきなのです。すなわち教会に来て、兄弟姉妹と共に真実なお方である神を礼拝すべきであるのです。パウロは「偶像礼拝を避けなさい」と記していますが、第6章18節では「みだなら行いを避けなさい」と記しておりました。みだらな行いも、偶像礼拝も、私たちキリスト者が取り組むべきものではなく、できる限り遠ざかるべきものなのです。しかし、パウロはそのことを使徒として一方的に命令するのではなく、「わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。自分で判断しなさい」と記します。パウロはコリントの信徒たちが自分で判断するための材料として、以下、コリントの信徒たちがあずかっている主の晩餐について、またユダヤ人の神殿祭儀について、さらにはギリシャ人の神殿祭儀について記していくのです。

 16節、17節をお読みします。

 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを食べるからです。

 パウロはコリントの信徒たちがあずかっている主の晩餐を背景としてこのところを記しております。ここで「あずかること」と訳されているのは「コイノーニア」というギリシャ語であります。「コイノーニア」とは「交わり」という意味です。ですから岩波書店から出ている翻訳聖書は、16節を次のように訳しています。「私たちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血との交わりなのではないのか。私たちが裂くパン、それはキリストの体との交わりなのではないのか」。私たちも主の晩餐である聖餐式において、ぶどう酒を飲み、パンを食べますけれども、それによって私たちはキリストの血にあずかり、キリストの体にあずかっているのです。すなわち私たちの罪のために肉を裂き、血を流されたイエス・キリストと交わりを持っているのです。その霊的な現実からパウロは、次のように語ります。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを食べるからです」。パウロが「わたしたちは大勢でも一つの体です」と記している「体」は「教会」のことであります。パウロは第12章27節で「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と記しますが、そのことがここに記されているのです。キリストの体である一つのパンを食べている私たちは、大勢であっても一つの体、キリストにある一つの共同体であるのです。

 18節をお読みします。

 肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。

 「肉によるイスラエルの人々」とは、イエス様を信じていないイスラエルの人々のことであります。彼らは血筋から言えばイスラエル人なのですが、約束のメシアであるイエス様を受け入れないことによって自らを神の民にふさわしくない者としてしまったのです。ですから「肉によるイスラエルの人々」とは、イエス・キリストを信じていないユダヤ人たちのことであります。そのユダヤ人たちのことを考えてみなさいとパウロは言うのです。この手紙が記されたのは紀元50年代でありまして、まだエルサレムには神殿がありました。ユダヤ人たちはエルサレム神殿で供え物をささげ、供え物の一部を食べていたのです。供え物を食べる人は、祭壇に仕える祭司だけではありません。供え物を献げる人も供え物を食べたのです(申命記14:22~27、サムエル記上1章参照)。そのようにして、その人は祭壇とかかわる者となったのです。ユダヤ人たちは供え物を献げる祭壇を神のものと考えておりました。ですから肉によるイスラエルの人々にとっても供え物を食べることは、祭壇の所有者である神とかかわる礼拝行為であったのです。

 19節から21節までをお読みします。

 わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。いや、わたしが言おうとしているのは、偶像にささげる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。

 パウロは自問自答することによって、ここまでの議論を交通整理しております。パウロは第8章から「偶像に供えられた肉」の問題について記してきましたが、その4節ではこう記しておりました。「そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」。ここでパウロは「世の中に偶像の神などなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」というコリントの信徒たちの主張を認めております。コリント教会の知識のある人たちは、偶像の神などなく、唯一の神以外にいかなる神もいないのだから、偶像に供えられた肉もただの肉に過ぎないと言って、平気で食べたのです。そのような知識のある人たちに対して、パウロは9節で「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と記したのです。つまりパウロは弱い人たちを滅ぼすことがないように、そのようにしてキリストに対して罪を犯すことがないように気をつけなさいと記したのでした。このように第8章では、パウロは偶像の神殿の食卓に着くことそれ自体の理由からは禁じていなかったのです。しかし今朝の御言葉では、偶像に献げる供え物は神ではなく悪霊どもに献げているという点から、偶像の神殿の食卓に着くことを禁じているのです。確かに偶像に献げられた肉は、知識のある人たちが言うようにただの肉です。また唯一の神以外いかなる神もいない以上、偶像はむなしいもの、実在しないものに過ぎません。では偶像に献げられた肉を食べてよいかと言えば、パウロはそのようには言いません。なぜなら偶像礼拝の背後には、人を真の神から引き離そうとする悪霊どもの力が働いているからです。旧約聖書の申命記第32章17節にこう記されております。「彼らは神ならぬ悪霊に犠牲をささげ/新しく現れ、先祖も知らなかった/無縁の神々に犠牲をささげた」。パウロはこのモーセの言葉を念頭に置いて、偶像にささげる供え物は悪霊にささげているのであると語るのです。なぜ、人は自分で動くことも、話すこともできない偶像を拝むのでしょうか?それは神々ならぬ悪霊どもの働きによることなのです。それゆえ偶像の神殿の食卓に着く者は、悪霊の仲間となるとパウロは警告するのです。ここで「仲間」と訳されているのは「コイノーヌス」というギリシャ語で、「コイノーニア」と近い言葉であります。「仲間」とは「交わる者」であるのです。パウロは「あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません」と記しておりますが、本来それはできないこと、相反することなのです。なぜなら、コリントの信徒たちは主の晩餐にあずかり、イエス・キリストと交わる者、イエス・キリストの仲間となっているからです。それゆえパウロは、「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません」と記すのです。コリントの信徒たちだけではありません。月ごとに主の晩餐である聖餐にあずかっている私たちも、決して悪霊の杯を飲み、悪霊の食卓に着くことはできないのです。

 22節をお読みします。

 それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。

 パウロはここでも申命記の第32章の御言葉を念頭に置いて、警告の言葉を記しています。申命記の第32章21節前半にこう記されています。「彼らは神ならぬものをもって/わたしのねたみを引き起こし/むなしいものをもって/わたしの怒りを燃えたたせた」。主の杯を飲み、主の食卓に着きながら、悪霊の杯を飲み、悪霊の食卓に着くならば、それは主にねたみを起こさせることになるのです。ここでの主はイエス・キリストのことであります。主イエス・キリストは私たちをねたむほどに愛しておられるのです。なぜなら主は御自分の命をもって私たちを贖われた唯一の主であるからです。主にねたみを起こさせること、それは主より強い者ではない私たちにとって滅びを意味します。それゆえ私たちは偶像礼拝を避けなければならないのです。私たちは主イエス・キリストとの交わりに生きる者として、ただ主にのみ仕える者でありたいと願います(マタイ4:9~10参照)。

 

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