戒めるための前例 2012年2月19日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
戒めるための前例
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
コリントの信徒への手紙一 10章1節~14節
聖書の言葉
10:1 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、
10:2 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、
10:3 皆、同じ霊的な食物を食べ、
10:4 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。
10:5 しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。
10:6 これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。
10:7 彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。
10:8 彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。
10:9 また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。
10:10 彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。
10:11 これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。
10:12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
10:13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
10:14 わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。コリントの信徒への手紙一 10章1節~14節
メッセージ
関連する説教を探す
先週は特別伝道礼拝でしたのでマタイによる福音書からお話しましたが、今朝から再びコリントの信徒への手紙一を学び続けていきたいと願います。
パウロは27節で「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」と記しておりましたが、今朝の御言葉には旧約聖書に記されている失格者となったイスラエルの人々のことが記されております。
1節から6節までをお読みします。
兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通りぬけ、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食べ物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。
「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい」。これはパウロが新しく大切な教えを語るときの決まった言い回しであります。ここに記されていることは、イスラエルの民がモーセに導かれてエジプトの国を脱出した出エジプトの出来事でありますが、ここでパウロはイスラエルの民を「わたしたちの先祖」と言っています。これは注目すべきことです。コリント教会は少数のユダヤ人と多くのギリシャ人からなる教会でありました。ですから、多くのコリントの信徒たちにとって、イスラエルの民は民族としては祖先ではないのです。しかし、パウロはモーセによって導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民を「わたしたちの先祖」と言うのです。ここにはキリストの教会こそ「神のイスラエル」であるとの信仰理解があります(ガラテヤ6:16参照)。パウロはこの手紙を「コリントにある神の教会」に宛てて書き記しました(1:2参照)。神の教会こそ、主の会衆であるのです。それゆえ、イエス・キリストを信じる私たちにとっても、イスラエルの民は私たちの先祖であるのです。また、イスラエルの民の歴史は私たちの歴史でもあるのです。私たちもイエス・キリストにあって神の民とされているがゆえに、イスラエルの歴史を学ぶ必要があるのです。
2節の「皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ」は、出エジプト記の第13章17節から22節の「火の柱、雲の柱」の話と第14章の「葦の海の奇跡」の話を背景として記されています。イスラエルの民は皆、雲の柱に導かれて進み、海の中の渇いた所を渡ってエジプト人の手から救われました。パウロは雲を「霊」、海を「水」を表すものと解釈して、皆が「モーセに属するものとなる洗礼を授けられた」と記しているのです。パウロは、コリントの信徒たち皆が水と霊によってイエス・キリストに属するものとなる洗礼を授けられたことを前提にして、イスラエルの民の歩みを解釈しているわけです。6節で、「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、私たちが悪をむさぼることのないために」と記しておりますように、パウロは旧約聖書を自分たちの前例として読んでいるのです(予型論的解釈)。
また3節の「皆が同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました」は、出エジプト記の第16章の「マナ」の話と第17章の「岩からほとばしる水」の話を背景として記されています。ここではコリントの信徒たちがあずかる主の晩餐のことが言われています。つまり、パウロはマナを主の晩餐であずかる「霊的な食べ物」であるパンとして、「岩からほとばしる水」を主の晩餐であずかる「霊的な飲み物」であるぶどう酒として解釈しているのです。このことは4節後半の「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずついて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」という記述によって確かなものとされています。「岩がイスラエルの民の後をついて来た」という記述は聖書にはありませんが、岩から水がほとばしった出来事は出エジプト記の第17章だけではなく、民数記の第20章にも記されています。それで、ユダヤ人の間には、岩がイスラエルの民の後をついて来たという伝説が生まれたのです。パウロはその伝説を用いて、「この岩こそキリストだった」と言うのです。出エジプトの出来事は紀元前1300年頃と言われていますから、もちろん、イエス・キリストはまだお生まれになっておりません。ですから、ここでの「キリスト」は人になるまえのキリストのことであります(先在のキリスト)。ヨハネによる福音書の冒頭において「言」と呼ばれているキリストのことであります。イスラエルの民は霊的な岩であるキリストから、霊的な水を飲んでいた。すなわち、コリントの信徒たちが主の晩餐においてあずかっているようにイスラエルの民も霊的な飲み物を飲んでいたとパウロは言うのです。
どうやら、コリントの信徒たち、その中でも知識を持っている人たちは、自分たちは洗礼を授けられ、主の晩餐にあずかっているから、偶像の神殿で食事をしても大丈夫だと主張していたようであります。「洗礼」と「主の晩餐」はイエス・キリストが制定された二つの礼典でありますが、それにあずかることによって偶像の神殿で食事をしても自分たちの救いは確かであると考えていたようです。しかし、そうではないのです。パウロはそのことを教えるために、イスラエルの民のことを記しているのです。イスラエルの民は皆、雲の中、海の中で、モーセに属する者となる洗礼を授けられ、霊的な食べ物を食べ、霊的な飲み物を飲むという主の晩餐にあずかりました。では、皆が約束の地に入ることができたかと言えばそうではありません。5節にこう記されています。「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました」。皆がモーセに属する洗礼を受けたにもかかわらず、また皆が霊的な岩であるキリストからほとばしる水を飲んだにもかかわらず、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまったのです。このことは、洗礼を授けられたから、また主の晩餐にあずかっているから偶像の神殿で食事の席についても大丈夫だとは決して言えないことを教えているのです。では、イスラエルの民の大部分はどのような点で神の御心に適わなかったのでしょうか? また、どのような悪をむさぼったのでしょうか?そのことが7節以下に記されています。
7節から12節までをお読みします。
彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
7節から10節までの4つの節に、イスラエルの民がむさぼった悪が一つずつ、合計4つ記されています。それらを一つずつ見ていくことにします。イスラエルの民のむさぼった第一の悪、それは人間の手で造った像を礼拝する、偶像礼拝でした。7節、「彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります」。ここでパウロが引用しているのは出エジプト記の第32章6節であります。出エジプト記の第32章には「金の子牛」の話が記されています。モーセが山からなかなか下りてこないので不安になったイスラエルの民は、アロンに迫って金の子牛を造らせ、それを拝んだのでありました。イスラエルの民は、金の子牛の前の祭壇に和解の献げ物を供えて、飲み食いし、立って戯れたのです。このイスラエルの民の姿は、偶像の神殿の食卓に着いて平気で飲み食いするコリントの信徒たちの前例と言えます。すなわち、パウロはここで無作為にイスラエルの民がむさぼった悪を記しているのではなく、コリントの信徒たちがむさぼっている悪の前例とも言える悪を選んで記しているのです。
イスラエルの民のむさぼった第二の悪、それはみだらな行いであります。8節、「彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました」。パウロはこのところを民数記の第25章を背景に記しています。民数記の第25章は「ペオルにおけるイスラエル」の話をに記していますが、その1節から3節をお読みします。
イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったので、主はイスラエルに対して憤られた。
飛んで9節をお読みします。
この災害で死んだ者は二万四千人であった。
パウロが記した数は民数記の記述よりも千人少ないですが、これは概数であるからと思われます。ここでも問題となっているのは、偶像の食卓に連なることであります。ではなぜ、パウロは「みだらなことをした者」と言っているのでしょうか?それはおそらく、偶像礼拝がしばしばみだらな行いと結びついたからだと思います。異教の神殿には神殿娼婦がおりまして、礼拝行為として性的な営みが行われていたのです。その点においては、コリントも同じでありました。コリントには女神アフロディテの神殿があり、そこには1000人もの神殿娼婦がいたと言われています。パウロはこの手紙の第6章で「あなたがたはキリストの体であるのだから、娼婦と交わってはならない」と記ましたが、コリントの信徒たちにとって偶像を礼拝することとみだらな行いをすることは結びついている一つの誘惑であったのです。
では今朝の御言葉に戻ります。
イスラエルの民がむさぼった第三の悪は、キリストを試みるということでありました。9節、「また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました」。パウロはこのところを民数記の第21章を背景に記しています。民数記の第21章は「青銅の蛇」のお話が記されていますが、そこにはイスラエルの民が主なる神とモーセを非難して罪を犯したことが記されています。そこに「キリスト」という言葉は出てきませんが、パウロは主なる神と「キリスト」を同一視して、「キリストを試みた」と記しているようです。また、このことは何よりコリントの信徒たちにとって、とりわけ知識のある人たちに見られる罪でありました。パウロは彼らが偶像の神殿の食事の席に着くことによって、キリストを試みていると非難しているのです。
イスラエルの民のむさぼった第四の悪は、不平を言うことでありました。10節、「彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました」。パウロはこのところを民数記の第16章を背景にして記していると思われます。民数記の第16章は「コラ、ダダン、アビラムの反逆」の話を記しています。コラとダダンとアビラムは250名の名のあるイスラエルの人々を仲間に引き入れ、モーセに反逆しましたが、彼らは大地が裂けて、生きたまま陰府へ落ち、滅び去ってしまいます。なぜなら、モーセへの不平はモーセを遣わされた主に対する不平であったからです。コリントの信徒たちはパウロに不平を言っていましたが、それはパウロを遣わされた主イエス・キリストに対する不平であるのです。そして、それは自らに滅びを招く悪であるのです。
パウロは11節で「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」と記しておりますが、ここにあるのは旧約聖書に記されていることが私たちの前例であるとする予型論的な解釈だけではなくて、「それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するため」という終末論的な解釈であります。パウロはイスラエルの民の歴史は時の終わりに生きる自分たちのための歴史であったと言うのです。そして、それは悪をむさぼる誘惑にさらされている私たちへの警告としての意味を持つのです。ですから、パウロは12節でこう記すのです。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」。ここでの「立っていると思う者」とは第一に、「自分は知識を持っていると言って、偶像の神殿の食卓に着いている者たち」のことであります。彼らは自分たちが洗礼を授けられ、主の晩餐にあずかっているゆえに、倒れることはないと考えておりました。しかし、旧約聖書に記されている私たちの先祖の歴史を見るならば、その大部分は悪をむさぼったために、荒れ野で滅ぼされてしまったのです。そして、その悪はコリントの信徒たちの中にも見られる悪でもあるのです。それゆえ、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなければならない。すなわち、知識のある人たちは滅ぼされないように偶像の神殿の食卓に着くことを避けるべきなのです。
13節、14節をお読みします。
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。
パウロは1節から12節でイスラエルの民の前例を記すことによって「偶像礼拝を避ける」ように記しましたが、13節では神が耐えられない試練に遭わせるようなことはなさらないという神の真実に訴えて、偶像礼拝を避けるように記しております。コリントの信徒たちは、イエス・キリストを信じたことにより、様々な試練の中にあったと思われます。神々を拝む多神教の世界において、唯一の主だけを拝んで生きることは大変なことであったと思います。しかし、パウロは「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずだ」と語るのです。なぜなら、神は真実な方であり、あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらないからです。真実な方である神はその人が耐えられないような試練に遭わせることはなさらない。神様は私たちが耐えられるように調節して私たちを試練に遭わせられるのです。また、真実な方である神は「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。ここで「逃れる道」と訳されている言葉は「出口」とも訳すことができます。神様は、私たちに出口のないような試練に遭わせるようなことはなさらない。かならず出口を備えて、私たちの忍耐を支えてくださるのです。そして、私たちにとっての究極的な出口は約束の地とも言える天の国であるのです。天の国において、あらゆる苦しみから解き放たれ、イエス・キリストとキリストを信じる者たちとまみえること、それが私たちにとっての究極的な出口であります。そもそも人はなぜ偶像礼拝をするのでしょうか?それは目に見え、触ることのできる像によって神様の臨在を確保したいと願うからです。ですから人は試練に遭うとき、偶像礼拝の誘惑を受けるのです。しかし、それは真実な方である神を否定し、キリストのよって開かれた出口を自ら閉ざしてしまう罪であるのです。私たちは試練に遭うとき、13節の御言葉を私たちに与えられている神の言葉として心に刻みたいと願います。