朽ちない冠を得るために 2012年2月05日(日曜 朝の礼拝)
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朽ちない冠を得るために
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 9章24節~27節
聖書の言葉
9:24 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
9:25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
9:26 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。
9:27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。
コリントの信徒への手紙一 9章24節~27節
メッセージ
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今朝はコリントの信徒への手紙一第9章24節から27節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
パウロは23節で、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」と記しました。新改訳聖書は23節をこう訳しています。「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです」。パウロが福音のためにした「すべてのこと」とは具体的には、律法に支配されている人に対しては律法に支配されている人のように、律法を持たない人に対しては律法を持たない人のように、弱い人に対しては弱い人になったということであります。特に、パウロがここで強調したいことは、最後の「弱い人に対しては弱い人になった」ということであります。第9章は第8章の「偶像に供えられた肉」の問題の文脈の中で記されております。ですから、ここでの「弱い人」とは「今まで偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず汚されてしまう良心の弱い人」のことであります。コリントの教会では、偶像に供えられた肉を食べてよいかどうかが問題となっておりました。知識のある人たち、世の中に偶像の神などいないことを知っている人たちは、偶像に供えられた肉を平然と食べました。偶像に供えられた肉をただの肉として食べたのです。しかし、教会の中には今まで偶像になじんできた習慣にとらわれて、偶像に供えられた肉を食べることにより、偶像の支配下に置かれるのではないかと考える良心の弱い人がいたのです。その弱い人が知識のある人たちが偶像の神殿で食事の席についているのを見たら、良心が弱いままで偶像に供えられた肉を食べることにならないだろうか。もし、良心が弱いままで偶像に供えられた肉を食べるならば、その弱い人は滅んでしまう。それは、その兄弟のために死んでくださったキリストに対して罪を犯すことになるのだとパウロは記したのです。それでパウロは、第8章13節で「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と記したのであります。パウロは第9章22節で、「弱い人に対しては弱い人になりました。弱い人を得るためです」と記しましたが、その原則の実践こそ、「兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしない」ということであったのです。弱い人を得るために、弱い人をつまずかせないために、肉を食べるという権利を用いないとパウロは言うのです。
第9章に入りまして、パウロは使徒の権利、さらには福音宣教者の権利について論証しました。それはコリントの教会にパウロが使徒であることを疑う者たちがいたということもありますが、自分がその権利を用いなかったことを明らかにするためでありました。パウロが使徒の権利、福音宣教者の権利を論証したのは、自分がそれを用いたいからではありません。パウロがここで言いたいことは、自分たちが権利をいかに用いなかったかということであります。12節後半にありますのように、パウロが報酬を受ける権利を用いなかったのは、キリストの福音を少しでも妨げてはならないと考えたからです。コリントの信徒たちの福音を受け入れる妨げとなってはいけないとパウロは報酬を受ける権利を用いず、すべてを耐え忍んでいるのです。パウロは「律法に支配されている人に対しては律法に支配されている人のようになりました。律法を持たない人に対しては律法を持たない人のようになりました」と記しましたが、コリントの教会が少数のユダヤ人と多数のギリシャ人からなっていたことを知るとき、このパウロの言葉は感慨深いものがあります。つまり、パウロはコリントの信徒たちを得るためにコリントの信徒たちのようになったのです。19節の「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」の「すべての人」とは他でもないこの手紙の宛先であるコリントの信徒たちのことです。パウロは、報酬を受ける権利のある自由な者ですが、自らをコリントの信徒たちの奴隷とし、無報酬で福音を宣べ伝えたのです。それはパウロがキリストの奴隷であり、キリストから福音をゆだねられた者として、共に福音にあずかるためであったのです。
パウロはこのような自分のあり方を、今朝の御言葉で競技大会に参加する運動選手に譬えております。
24節をお読みします。
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
古代ギリシャでは運動競技大会が盛んでありました。最も盛大に行われたのは4年に一度開催されていたオリンピアの競技大会であります。近代オリンピックの起源となった競技大会です。また、コリントの近くでも2年に一度イストミアで競技大会が開催されておりました。パウロも実際に競技大会を観戦したことがあったかも知れませんが、コリントの信徒たちにとって運動選手のたとえは馴染みのあるものでありました。
パウロは「あなたがたは知らないのですか」と書き始めています。これは当然知っていることを思い起こさせるための言い回しです。「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい」。ここでパウロは「あなたがたも」とコリントの信徒たちに、また私たちに勧告しております。「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです」。これは説明を要しないことだと思います。短距離走でも、中距離走でも、長距離走でも、一位の人だけが賞を受けるのであります。誤解のないように申しますが、パウロはここで、私たちにおいても一人だけが賞を受けると言っているのではありません。パウロがここで強調したことは、「一人だけ」ということよりも、「賞を受けるように走る」ことであります。パウロは、コリント信徒たちに、また私たちに、「賞を得る人のように走りなさい」と言うのです。では私たちにとっての「賞」とは何でしょうか?また、「賞を得るために走る」とはどのようなことを意味しているのでしょうか?
25節をお読みします。
競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
当時、競技大会に出場する人は、開催の三か月前から訓練に専念したと言われています。競技をする人は皆、その期間すべての点において、食べ物や飲み物においても節制したのです。「節制」とは「放縦に流されないように欲望を理性によって統御すること」を意味します(『広辞苑』)。肉体の欲望を理性によって統御すること、それが節制であります。競技をする人は、賞を得るために、すべての点で節制し、トレーニングを重ね、自分を鍛えあげます。パウロは、「彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠をえるために節制する」と記します。オリンピアの競技大会では月桂樹の冠が、イストミアの競技大会では松の木の冠が賞として与えられました。パウロは24節で、「競技場で走る人は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです」と記しましたが、一人だけが松の木の冠を受けることができたのです。パウロはそれを「朽ちる冠」と呼びまして、朽ちる冠を得るために、競技をする人が皆、節制するならば、私たちは「朽ちない冠」を得るために、なおさら節制すべきであると言うのです。「朽ちない冠」とは最後の審判を通して主イエスから授けられる命の冠、永遠の命のことです。競技をする人は松の木でできた「朽ちる冠」を得るためにすべての点で節制するのですが、私たちキリスト者は永遠の命という「朽ちない冠」を得るためにすべての点で節制すべきなのです。もちろん、競技をする人は松の木でできた冠そのものが欲しいわけではありません。松の木でできた冠そのものが欲しければ、自分で作ればいいことです。彼らが欲しいのは松の木の冠に象徴される人々からの称賛と栄誉であります。競技する人は、人間からの栄誉を求めて食べ物においても節制しました。それならば、私たちは神様からの栄誉を求めて食べ物においても節制すべきであるのです。すなわちパウロはここで、コリント教会の知識ある人たちに、兄弟をつまずかせないために、肉を食べない節制を求めているのです。
26節をお読みします。
だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。
26節は、内容としては24節につながっています。賞を得るように走るとはどういうことか?それは「やみくもに走ったりしない」ということです。新改訳聖書はこの所を「ですから、私は決勝点がどこか分からないような走り方はしていません」と訳しています。パウロは、ゴールがどこだか分からないような走り方はしないと言うのです。言い換えれば、パウロは賞を得るためにゴールを見据えて走ってきたのです。パウロにとってのゴール、私たちキリスト者にとってのゴールとはどこでしょうか?パウロはフィリピの信徒への手紙第3章で次のように記しています。ここでは8節から14節までをお読みします。新約364ページ。
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、それを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたと思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
ここでパウロは、「何とかして死者の中からの復活に達したい」と述べております。パウロにとってのゴール、それは「死者の中から復活」であるのです。そして、これはキリストを信じる私たちのゴール(終着点)でもあるのです。私たちのゴールは死ではありません。死を突き抜けて、死者の中から復活することが私たちのゴールなのです。それは言い換えれば、朽ちない冠を受ける、命の冠を受けるということでもあるのです。もし、私たちにとって死がゴールであるならば、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります(15:32参照)。しかし、私たちのゴールは死者の中からの復活することであるゆえに、私たちはすべての点で節制すべきであるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の311ページです。
パウロは競走(レース)のたとえに続いて、拳闘(ボクシング)のたとえを用いています。パウロは「空を打つような拳闘はしない」と言うのです。これはシャドーボクシングのことを言っているのではなくて、リングで戦っている相手に当たらないようなパンチを放って体力を消耗するようなことはしないという意味であります。逆を言えば、パウロは相手を打ちのめすパンチしか放たないと言うのです。しかも驚くべきことに、その相手は自分自身であるのです。
27節をお読みします。
むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。
パウロが「自分の体を打ちたたいて服従させます」と記すのは、パウロが今朝の御言葉で節制を問題としているからです。ここで「服従させます」と訳されている言葉は直訳すると「奴隷のように引き回す」となります。パウロは19節で「わたしはすべての人に対して自分を奴隷にした」と記しておりましたが、それは「自分の体を打ちたたいて服従させる」という節制によるものであったのです。パウロは「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしない」と記しました。食べ物や飲み物に対する欲望は体から出てくる欲望であります。これを食べたい、あれを飲みたいという欲望は、私たちが毎日体験していることです。パウロはその欲望の出所である体を打ちたたいて服従させると言うのです。体の欲望に自分が従うのではなく、自分に体の欲望を従わせるのであります。ここでパウロが教えていることは、ある目的のために欲望を抑える節制であります。そして、その目的とは、「他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないため」であるのです。ここでの「失格者になる」とは、いわゆる最後の審判において不合格者として主から棄てられるということです。パウロはこの言葉を、コリント教会の知識のある人たちを念頭において記しています。コリント教会の知識のある人たちは偶像に供えられた肉を平気で食べました。自分の体の欲望を抑えることなく、偶像の神殿で食事の席に着いたのです。しかし、そうするならば、あなたがたは失格者となってしまう、とパウロは言うのです。なぜなら、それによって弱い兄弟姉妹が滅んでしまうからです。弱い兄弟姉妹をつまずかせる人は、そのことによって自らを失格者としてしまうのです。
ここでパウロが例にあげておりますのは、いずれも個人競技でありますけれども、パウロの気持ちから言えば、その意味するところは団体競技であります。パウロは救いを個人のこととして捉えているのではなく、共同体(教会)のこととしてに捉えているのです。それゆえ、私たちも福音宣教のために、また弱い兄弟姉妹をつまずかせないために、節制することを学ばねばならないのです。