何人かでも救うために 2012年1月29日(日曜 朝の礼拝)
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何人かでも救うために
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 9章19節~23節
聖書の言葉
9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
9:21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。コリントの信徒への手紙一 9章19節~23節
メッセージ
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今朝はコリントの信徒への手紙一第9章19節から23節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
19節をお読みします。
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
このパウロの言葉は、1節を受けてのものであります。パウロは1節で、「わたしは自由な者ではないか」と記しておりました。それを再び取り上げて、パウロは「わたしは、だれに対しても自由な者ですが」と記しているのです。また、このパウロの言葉は、前回学びましたように、パウロが権利を用いずに無報酬で福音を告げ知らせていたことと結びついています。パウロは報酬を受ける権利を用いないことによって、だれに対しても自由な者であったのです。しかし、パウロは「わたしはすべての人の奴隷になりました」と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?そのことを正しく理解するために、私たちはパウロがすべての人の奴隷になる以前に、イエス・キリストの奴隷にされたことに思いを向ける必要があります。前回学んだことでありますが、パウロは16節、17節でこう記しておりました。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それはゆだねられている務めなのです」。このパウロの言葉は、自分が福音宣教を委ねられた主イエスの奴隷であることを言い表しています。主イエスの僕であるパウロは報酬の有無に関わらず、福音を告げ知らせていたのです。パウロにとって福音を告げ知らせることは、そうせずにはいられない、ゆだねられた務めでありました。その務めを果たすために、パウロはすべての人の奴隷になったのであります。この「すべての人の奴隷になった」という言葉は、もとの言葉を直訳すると「すべての人に対してわたし自身を奴隷にした」となります。そして、それは「できるだけ多くの人を得るため」であったのです。ここでの「得る」とは、22節に「何人かでも救うためです」とありますように、「救う」とも言い換えることができます。そして、その救いはイエス・キリストの福音を伝え、受け入れられることによって実現されるのです。パウロはできるだけ多くの人にキリストの福音を聞いてもらうために、そして受け入れてもらうために、自分自身をすべての人の奴隷にしたのです。
20節をお読みします。
ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
パウロは「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました」と語っておりますが、これを読むと私たちは驚くかも知れません。なぜなら、パウロは生粋のユダヤ人であるからです。ユダヤ人であるパウロが、ユダヤ人のようになったとはどういう意味かと思うのでありますが、ここでのユダヤ人とはどうやら「律法に支配されている人」のことを言っているようであります。「ユダヤ人」を言い換えたのが「律法に支配されている人」であると理解してよいと思います。「律法に支配されている人」、これはもとの言葉を直訳すると「律法の下にいる人々」となります(ユュポ ノモス)。律法の下にいるユダヤ人ですから、これはイエス・キリストを信じていないユダヤ人のことであります。パウロは血筋から言えばユダヤ人でありますが、律法の下にはもはやいないわけです。イエス・キリストにおいて律法の支配から解放されたゆえに、パウロは律法の下にはもはやいないのです。そしてそのことはイエス・キリストを信じるすべての者たち、私たちにも言えることなのです。イエス・キリストが私たちに代わって律法を落ち度なく守り、私たちに代わって律法違反としての呪いの死を十字架の上で死んでくださった。それゆえイエス・キリストを信じる私たちは律法の支配から解放されているのです。私たちは律法の下ではなく、恵みの下に生かされているのです(ローマ6:14参照)。しかし、パウロは律法に支配されている人を得るために、自分も律法に支配されている人のようになったのです。その具体例が使徒言行録に2つ記されています。一つは第16章にあるように、パウロがその地方に住むユダヤ人たちの手前、テモテに割礼を授けたこと、二つ目は第21章にあるように、主の兄弟ヤコブの言葉に従って、パウロが誓願を立てた四人の者と一緒に清めの儀式を受け、その費用を負担したことです。このようにパウロは律法の下にいる人に福音を伝えるために、自分自身はそうではないのですが、律法の下にいる人のようになったのです。
21節をお読みします。
また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法をもたない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
「律法を持たない人」とは異邦人、ギリシャ人を指しています。ギリシャ人はイスラエルに啓示された律法を知らないので、「律法を持たない人」であるのです。この「律法を持たない人」と訳されているもとの言葉は「アノモス」で、ノモス(律法)に打ち消しのアがついた言葉です。パウロは「自分は神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っている」と記しておりますが、この「律法に従っている」と訳されているもとの言葉は「エンノモス」です。パウロは「わたしはキリストの律法の中にいる」と記しているのです(口語訳聖書参照)。パウロはユダヤ人のように、神の律法の下にいる人(ヒュポ ノモス)ではありません。またギリシャ人のように神の律法を持たない人(アノモス)でもありません。パウロはキリストの律法の中に生きる者(エン ノモス)であると言うのです。キリストの律法の中にいるとはどういうことでしょうか?それは心の中にキリストの律法が刻みこまれており、それに従う者とされているということです(エゼキエル36:25~27参照)。またここで、パウロが「神の律法」に対して「キリストの律法」と言っていることにも注目したいと思います。ここでの神の律法とは、旧約聖書、特にモーセ五書にある神の掟のことです。その神の律法をパウロは律法の目標であり、終わりであるイエス・キリストの手から受け取り直したのです(ローマ10:4参照)。このことは私たちも同じです。私たちはイエス・キリストを通して旧約聖書を与えられているのです。パウロの理解によりますと、キリストの律法とは「隣人を自分のように愛しなさい」という掟でありました。パウロはローマの信徒への手紙第13章8節から10節でこう記しています。新約の293ページです。
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのです。
パウロが自分はキリストの律法の中にいると語るとき、それは「隣人を自分のように愛しなさい」という掟の中にいるということであります。しかし、ここで注意したいことは、パウロはその愛の源を自分自身ではなく、聖霊によって注がれている神の愛、キリストの愛においていることです(ローマ5:5参照)。キリストの律法の中にいるとは、言い換えればキリストの愛の中にいるということでもあるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の311ページです。
キリストの律法の中にいるパウロが、律法を持たない人のようになった具体例が使徒言行録の第17章に記されているアテネでのアレオパゴスの説教に見ることができます。パウロはそこで旧約聖書に訴えるかわりに、古代ギリシャの詩人の言葉を引用して、律法を持たないアテネの人々を説得しております。また、パウロは神の律法である食物規定に縛られることなく、律法を持たない人たちと食事を共にし、交わりを持ちました。それは律法を持たない人にも福音を伝え、受け入れてもらうためであったのです。
22節前半をお読みします。
弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。
新共同訳聖書は、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」と翻訳していますが、元の言葉には「のように」という言葉はありません。「弱い人に対しては、弱い人になった」と記されているのです(新改訳聖書「弱い者になりました」参照)。この具体例は、第8章に記されていた偶像に供えられた肉の問題であります。コリントの教会で偶像に供えた肉を食べてよいかどうかが問題となっておりました。世の中に偶像の神などないことを知っている知識のある人たちは、偶像に供えられた肉を平気で食べました。しかし、そうでない人たちもいたのです。今まで偶像になじんできた習慣から、偶像に供えられた肉を食べることによって偶像の支配下に逆戻りしてしまうと考える良心の弱い人もいたのです。その弱い人が、知識のある人たちが偶像の神殿で食事の席についているのを見たら、良心が弱いのにその人も偶像に供えられた肉を食べることになってしまう。そうすると、その弱い人は滅びてしまうことになるとパウロは記したのでありました。その文脈の中で第9章も記されているわけです。ですから、ここでの「弱い人」とは「偶像に供えられた肉を食べることによって良心が汚されてしまう弱い人」のことを指しているのです。「弱い人を得るため」とはただ福音を伝えて、受け入れてもらうことだけではなくて、その人がキリストの恵みの支配のもとに留まることを意味しているのです。キリストを信じて教会の一員となっても、信仰を捨ててしまう。滅びてしまうということがあるわけです(8:11参照)。そのようなことがないように、パウロは弱い人に対しては弱い人になったのです。ここにパウロが第8章13節で、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と記した理由があるのです。
22節後半から23節までお読みします。
すべての人に対してはすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
パウロは「すべての人に対してはすべてのものになりました」と記していますが、このこともパウロが使徒であることを疑われた理由の一つであったようです。このようなパウロの態度は優柔不断な日和見主義(形勢をうかがって、自分の都合のよい方につこうと二股をかけること)と誤解されていたようです。しかし、それは「何とかして何人かでも救うため」であったのです。ここでパウロが「すべての人を救うため」とは言わずに「何人かでも救うため」と言っていることは胸を打つことであります。パウロは何とかして幾人かでも救うために、すべての人に対してすべてのものになったのです。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と記したパウロは、できるだけ多くの人を得るために、すべての人の奴隷になったパウロでありました。パウロがすべてのことをするのは福音のためであるのです(新改訳聖書参照)。そしてそれは他人の救いのためだけではなく、自分の救いのためでもあったのです。パウロにゆだねられた福音はパウロ一人で大切にしまっておくためにゆだねられたのではありません。パウロは福音をすべての人に告げ知らせるために主イエス・キリストからゆだねられたのです。パウロは福音を告げ知らせるという仕方で、福音に共にあずかる者となるのです。そして、このことはコリントの信徒たち、また私たちにおいても言えることなのです。私たちは福音を告げ知らせることによって、福音にあずかる者となるのです。それゆえ、私たちも福音のためにすべての人のしもべになることが求められているのです。そのとき当然、福音の伝える姿勢も変わってきます。上から、教えてあげようという福音の伝え方ではなくて、どうぞ聞いてください、そして信じてくださいという福音の伝え方になるはずです。パウロの宣教はまさにそのようなものでありました。パウロは福音のためにコリントの信徒たちのしもべとなり、「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」と福音を宣べ伝えたのです(二コリント5:20)。そして、このパウロの姿勢は福音を宣べ伝えるのにふさわしい姿勢であると言えるのです。なぜなら、福音はキリストのへりくだりに基づくものであるからです。パウロはフィリピの信徒への手紙第2章6節から11節で次のように記しています。新約の363ページです。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
このように福音はキリストのへりくだりに基づくものであるのです。それゆえ、福音を伝える私たちにもすべて人に対してへりくだって、福音を宣べ伝えることが求められているのです。