使徒の権利 2012年1月15日(日曜 朝の礼拝)
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使徒の権利
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 9章1節~12節
聖書の言葉
9:1 わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。
9:2 他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。
9:3 わたしを批判する人たちには、こう弁明します。
9:4 わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。
9:5 わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。
9:6 あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。
9:7 そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。
9:8 わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。
9:9 モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。
9:10 それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。
9:11 わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。
9:12 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。コリントの信徒への手紙一 9章1節~12節
メッセージ
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今朝はコリントの信徒への手紙一第9章1節から12節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
パウロは第8章から偶像に供えられた肉の問題について語っております。今朝の第9章は「使徒の権利」と小見出しがつけられており、偶像に供えられた肉の問題と関係がないようでありますが、実はその文脈の中で語られております。パウロは第8章1節から第11章1節にわたって、偶像に供えられた肉の問題について記しているのです。偶像に供えられた肉については、パウロは知識のある人たちの自由な態度によって、良心の弱い人たちが罪に誘わないように気をつけなさいと語りました。さらには知識のある人たちの自由によって弱い兄弟たちが滅んでしまうならば、それはその兄弟のために死んでくださったキリストに対して罪を犯すことになるのだと語ったのです。それゆえ、パウロは「兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、今後決して肉を口にしません」と語ったのです。知識のあるパウロにとっても、偶像に供えられた肉を食べることは権利とも言える自由なことでしたが、兄弟をつまずかせないために自分はその権利を用いないと言うのです。このパウロの言葉の続きとして、今朝の御言葉が記されているのです。
1節、2節をお読みします。
わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。
1節に4つの疑問文がありますが、元の言葉を見ると、いずれも否定の答えを予想する疑問文で記されています。パウロは「わたしは自由な者である。わたしは使徒である。わたしはわたしたちの主イエスを見た。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果である」と記さずに、レトリックを用いて「わたしは自由な者ではないか。わたしは使徒ではないか。わたしはわたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは主のためにわたしが働いて得た成果ではないか」と問いを重ねているのです。「わたしは使徒ではないか」。このパウロの言葉は、パウロが使徒であることを疑う者たちがいたことを教えています。3節に「わたしを批判する人たち」とありますように、コリントの教会にパウロを批判する人たちがいたのです。なぜ、彼らはパウロが使徒であることを疑問視したのでしょうか?それはパウロがコリント教会からの報酬を受け取らなかったからです。パウロに悪意を持つ人たちは、パウロがコリント教会から報酬を受け取らないのは、本物の使徒ではなく、その権利を持っていないからだと中傷していたのです。しかし、パウロは自分は使徒であると語るのです。そして、自分が使徒であることの証拠として、復活の主イエスを見たこととコリントに教会が生まれたことの2つをあげるのです。パウロが主イエスを見たということは再現することができず、証明できませんけれども、コリントに教会が生まれたということは疑うことのできない事実であります。なぜなら、コリントの信徒たちは、主のためにパウロが働いて得た成果であるからです。そのパウロが使徒であることを否定することは、自分たちが主に結ばれていることを否定することになるのです。それゆえ、パウロが据えたキリストという土台の上に立つコリント教会そのものが、パウロが使徒であることの証拠であるのです。このようにパウロは自分が使徒であることに対して後ろめたい思いは一切ありませんでした。では、なぜパウロは他の使徒たちのようにコリントの教会からの報酬を受け取らないのでしょうか?
3節から6節までをお読みします。
わたしを批判する人たちには、こう弁明します。わたしたちは、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよい権利がないのですか。
ここで「権利」という何度も言葉がでてきますが、これは第8章9節で「自由」と訳されていたエクスーシアというギリシャ語であります。つまり、パウロは偶像に供えられた肉を食べる権利と結びつけて使徒の権利について記しているのです。4節から6節にわたって3つの疑問文が記されていますが、これらも否定の答えを予想する疑問文で記されています。つまり、パウロたちには食べたり飲んだりする権利があるのです。しかし、パウロはここでもレトリックとして問いを積み重ねていくのです。「わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか」。これは「わたしたちには、教会の負担で食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか」ということです。続けてパウロは、「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」と問います。ここでの権利は結婚する権利ではなく、一緒に旅をする妻の生活費を教会に負担してもらう権利のことです。パウロは独身でありましたけれども、多くの使徒たちはどうやら結婚していたようであります。ここでの「主の兄弟たち」は、イエス様の弟たちであるヤコブやユダを指していると思われます。教会は使徒たちの妻の生活費をも負担していたのです。さらにパウロは、「あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか」と問います。どうやらバルナバも自分の手で働いて生計を立てていたようであります。他の使徒たちや主の兄弟たちやケファは、教会から生活の資を得ておりましたけれども、わたしとバルナバにはその権利がないので、生計を立てるために他の仕事をしなくてはならないのでしょうか?とパウロは問うのです。そして、もしそうならば、それがどれほど人間の常識から外れたことであるかを身近な例によって示すのです。
7節をお読みします。
そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。
ここには戦争に徴集された兵士とぶどう園の主人と羊飼いの三者があげられています。これらはどれもパウロの働きに通じるものと言えます。パウロはエフェソの信徒への手紙第6章で福音宣教を霊的な戦いと言い表しています。また、旧約聖書においてイスラエルは「主のぶどう畑」と言われています(イザヤ第5章)。また、イスラエルは主を羊飼いと呼び、自分たちを「羊の群れ」と言い表しました(詩篇100編)。パウロはただ身近な三つの職業をあげているのではなくて、自分の働きに通じる三つの職業を選んでここにあげているのです。ここでの答えが「だれもいない」ということは明かでありますが、パウロはさらに問いを積み重ねます。
8節から10節までをお読みします。
わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。
パウロは人間の常識だけではなく、神の律法に訴えて自分たちにも教会から生活の資を得る権利があることを論証します。ここでパウロが引用しているのは申命記の第25章4節の御言葉であります。「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」。これは文字通りには、脱穀している牛に口籠をはめて、牛が食べることを妨げてはいけないという意味ですが、パウロによれば、神は牛ではなく、私たちのことを心にかけて、このように記していると言うのです。これはパウロの聖書の読み方を知るうえで興味深いところであります。すなわち、パウロは聖書を時の終わりに直面している自分たちに向けて記されたものとして読んでいるのです(10:11参照)。イエス様は、聖書の御言葉を御自分と結びつけて読みました(ルカ24:44、ヨハネ5:39参照)。そして、イエス・キリストの使徒であるパウロも、聖書の御言葉をイエス・キリストにある自分たちと結びつけて読んだのです。それゆえ、パウロは「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」という御言葉から、「耕す者が分け前にあずかる望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかる望みをもって脱穀するのは当然である」と語るのです。このように神の律法も、働く者が報酬を受けるのは当然であることを教えているのです(ルカ10:7参照)。
11節から12節前半をお読みします。
わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。
霊的なものを蒔くとは、神の御言葉を宣べ伝えるということです。また、肉のものを刈り取るとは食べ物や飲み物や金銭を報酬として受け取るということであります(ローマ15:27参照)。畑で働く者が分け前にあずかる望みをもって働いているように、コリントの教会という神の畑に霊的なものを蒔いたパウロたちが、コリントの教会から生活の資を得ることは行き過ぎどころか当然であります。しかも、他の人たちが、この権利を持っているとすれば、コリント教会を創立したパウロたちはなおさらこの権利を持っているのです。しかし、パウロたちはこの権利を用いないのです。12節後半。
しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。
パウロは自分も他の使徒たちのように権利を利用したいから、自分にも権利があることを論証してきたのではありません。そうではなくて、「兄弟をつまずかせるくらいなら今後肉を口にしない」と記したパウロが、報酬を受けるという権利を用いない自由にすでに生きていることをコリントの信徒たちに知ってもらいたいのです。パウロは当然の権利を用いずにすべてを耐え忍びました。そして、パウロは今も耐え忍んでいるのです。なぜ、パウロは権利を用いず、すべてを耐え忍んでいるのでしょうか?それは報酬を受けることによって、キリストの福音を少しでも妨げてはならないとパウロは考えたからです。パウロは報酬を受け取るならば、自分に対して悪意を持っている人たちが、「パウロは金銭目的で福音を宣べ伝えている」と中傷することを見越していたのです(二コリント12:16「わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています」参照)。それで、パウロは使徒の権利である報酬を受け取らず、すべてを耐え忍んでいるのです。ここで「耐え忍ぶ」と訳されているのと同じ言葉が第13章7節にも出てきます。第13章にはいわゆる「愛の賛歌」が記されておりますが、その7節に「(愛は)すべてを忍ぶ」と記されているのです。パウロがすべてを耐え忍んでいるのは、キリストの福音を少しでも妨げないためでありますが、それは言い換えれば、コリントの信徒たちを愛するゆえであったのです。福音宣教と隣人愛は一つのことであるわけです。
今朝は最後にコリントの信徒への手紙二の第11章7節から11節までを読んで終わりたいと思います。新約聖書の338ページです。
それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるのでしょうか。わたしは他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることはありません。なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。
私たちは今朝、このパウロの愛を知るものでありたいと願います。