偶像への供え物 2012年1月08日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:7 しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。
8:8 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。
8:9 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。
8:10 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。
8:11 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。
8:12 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。
8:13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。コリントの信徒への手紙一 8章7節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 先程はコリントの信徒への手紙一第8章1節から13節までを読んでいただきました。前回は1節から6節までを中心にお話しましたので、今朝は7節から13節までを中心にしてお話しいたします。

 パウロは第7章から、コリント教会からの質問状に答える仕方でこの手紙を書き記しております。第8章では新しい質問を取り上げております。それは「偶像に供えられた肉を食べてよいかどうか」という問題であります。コリントはギリシアの町でありまして、ギリシア人は天にも地にも多くの神々がいると考えておりました。それで、多くの神々の像を造り、神殿で祭っていたのです。そして、神々の像に供えられた肉が神殿の食堂でふるまわれたのであります。当時は、神殿の食堂で公的にも私的にも祝いの食事を取ることが社会的慣習でありました。ある研究者は、神殿は古代のレストランであったと言っております。ですから、偶像を礼拝する者たちから神殿の食堂に招待され、偶像に供えられた肉がふるまわれるということが実際にあったのです(5:10参照)。その偶像に供えられた肉を食べてよいかどうかがコリント教会において大きな問題となっていたのです。このことを確認したうえで、7節をお読みします。

 しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。

 「この知識」とは、4節で消極的に、6節で積極的に言い表されている知識のことであります。4節にこう記されておりました。「そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」。この4節は前回も申しましたように、コリントのある信徒たちの言葉をパウロが引用したものと思われます。パウロは1節で、「我々は皆、知識を持っている」というコリントのある信徒たちの言葉を引用しております。その知識の内容が4節に記されているのです。パウロはコリントのある信徒たちの言葉を受け入れつつ、さらにその唯一の神がどのようなお方であるのかを6節に記しています。「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」。この6節は前回申しましたように、初代教会に共通の信仰告白文であると考えられております。多くの神々、多くの主がいると思われていても、私たちキリスト者にとっては、唯一の神、父である神がおられ、また、唯一の主、イエス・キリストがおられるだけなのです。

 このことはキリスト者であるならば、誰もが持っている知識であるはずです。現にパウロも1節で、「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」と語っておりました。では、なぜパウロは7節で「しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません」と記しているのでしょうか?結論から申しますと、これは知識の種類、あるいは知識のレベルの違いによるものであります。私たちも頭では分かっていても心では受け入れられないということがあります。私たちにとって、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、私たちはこの神へ帰って行くのであり、また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在しています。ですから、多くの神々、多くの主は存在しないという理論的な知識はもっているわけです。しかし、その知識が経験的な知識、また感情と結びついた知識までにはなっていないのです。つまり、知識が血肉化されておらず、その人を生かす統一的な原理、世界観とはなっていないのです。そのような意味で、パウロは「この知識がだれにでもあるわけではありません」と語っているわけです。すなわち、「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」。ここに「良心が弱いために」とありますが、これは善悪の判断がつかずに、迷っている状態を意味しています。知識を持っている人たちは、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないのだから、偶像に供えられた肉であろうとただの肉に過ぎないとう確信をもって食べました。しかし、ある人たちは、理論的にはそのような知識を持ってはいるのですが、これまで偶像になじんできた習慣から、経験的に、偶像に供えられた肉に特別な力が宿っており、それを食べると、再び偶像との交わりに入れられるのではないかと心が迷っていたのです。

 8節、9節をお読みします。

 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。

 9節に「ただ、あなたがたのこの自由な態度が」とありますように、8節は知識を持っている人たちの言葉をパウロが引用したものと思われます。知識を持っている人たちは、偶像の神などないのだから、偶像に供えられた肉を食べても霊的に影響は受けないと言って、平気で偶像に供えられた肉を食べたのです。パウロはそのような彼らの振る舞いを「あなたがたのこの自由な態度」と言っています。ここで「自由」と訳されている言葉は、「権利」とも訳される「エクスーシア」というギリシャ語です(新改訳聖書参照)。第6章12節で、パウロは「わたしにはすべてことが許されている」というコリントの信徒たちの主張を引用しておりましたが、そこで「許されている」と訳されている言葉(エクセスティン)からなっているのです。つまり、偶像に供えられている肉を食べることは許されていることであり、権利とも言える自由なことなのです。知識を持っている人たちにとって、偶像に供えられた肉を食べることは権利とも言える自由なことなのであります。しかし、パウロは知識を持っている人たちの自由な態度によって、弱い人たちを罪に誘ってはならないと警告するのです。

 10節から12節までをお読みします。

 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。

 10節に「良心が強められて」とありますが、口語訳聖書を見ると「教育されて」と訳されています。もとの言葉は1節で「造り上げる」と訳されているのと同じ言葉です(オイコドメオーの未来形、受動態)。ですからパウロは皮肉を込めてこのところを記しているわけです。あなたがたの自由な態度が弱い人たちを造り上げるどころか、滅ぼしてしまうことになるとパウロは語っているのです。知識を持っている人たちは、偶像の神殿で食事の席に着くことにより、弱い人たちを自分たちのレベルに引き上げよう、教育しようとしたのかもしれません。しかし、実際はその知識によって弱い人が滅んでしまうことになるとパウロは警告します。なぜなら、弱い人は、その肉を依然として偶像に供えられた肉として食べるからです。彼らは偶像に供えられた肉に特別な力が宿っており、それを食べることは偶像との交わりを持つことであるという考えから抜けきれないのです。そうしますとその人は唯一の神を信じる世界観から多くの神々を信じる世界観に連れ戻されてしまうわけです。その人にとって、神々の像はもはや偶像ではなく、神々となってしまうわけであります。そして、それはその人にとって滅びを意味しているのです。しかし、この滅んでしまう弱い人たちとはどういう人たちなのでしょうか?パウロは、それはあなたがたの兄弟姉妹ではありませんかと言うのです。これは6節に記されている信仰告白に基づく霊的な真実であります。「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」と告白する者は皆、神を父とする兄弟姉妹であります。また、その兄弟姉妹のためにも主イエス・キリストは死んでくださったのです。このように考えてきますと、ここでの知識を持っている人たちが本当に知識を持っていたのかが怪しくなってきます。なぜなら、6節の信仰告白を本当に自分のものとしていたならば、弱い人たちが自分たちにとって何者であるかも分かっていたはずであるからです。「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」。この信仰告白が本当に自分のものとなっているならば、弱い人たちが、神を父とする兄弟姉妹であり、その兄弟姉妹のためにも主イエス・キリストが死んでくださったことに思いが至るはずであります。けれども、彼らはそこまで思いが至らなかった。それはパウロが1節から3節で記していたように、彼らの知識が神への愛に基づく知識となっていなかったからであるのです。

 知識を持っている人たちは、弱い人たちが滅びるのも致し方ないと考えたかもしれません。しかし、パウロはその弱い人たちのためにもキリストが死んでくださった事実を思い起こさせることにより、弱い人たちを滅ぼしてはいけないと語るのです。それどころか、「このようにあなたがたが、兄弟に対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです」と語るのです。このパウロの言葉の背後には、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められた方がましである」という主イエスの御言葉があります(マタイ15:6)。私たちの中に滅びてしまってよい者は誰もおりません。主イエス・キリストは弱い者、小さな者のためにも十字架の上で死んでくださったのです。それほどまでに、キリストは私たち一人一人を愛し、高価で尊い者としてくださったのです。そのような兄弟姉妹に対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるならば、それはキリストに対して罪を犯すことになるのです。パウロは弱い人に罪を犯させないためではなく、知識を持っている人にも罪を犯させないために、今朝の御言葉を記しているのです。

 では、知識を持っている人たちはどうすればよいのでしょうか?パウロはそのことを直接記さず、自分ならこうすると、自分のことを語ります。13節。

 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

 ここで、パウロが何よりも重きを置いているのは、自分の兄弟をつまずかせないということです。「つまずく」とは「キリストへの信仰を捨てる」ということです。偶像に供えられた肉を食べることは知識を持っているパウロにとっても許されていることであり、権利とも言える自由なことでありました。しかし、パウロはその権利、自由を兄弟をつまずかせるくらいなら用いないと言うのです。パウロも肉が好きだったと思いますが、自分の兄弟をつまずかせないために、今後決して肉を口にしないと語るのです。パウロはどうしてそれほどの覚悟を言い表すことができたのでしょうか?それはパウロが、偶像の肉を食べることにつまずいてしまう兄弟姉妹のためにも、キリストが死んでくださったことを本当に知っていたからです。それゆえ、パウロは自分に許されていること、権利とも言える自由を用いないのです。本当の自由とはゆるされていることを何でもすることではありません。ゆるされていることをあえてしないという自由もあるのです。パウロはキリストの愛に基づいて、自分はゆるされていることをあえてしない自由に生きると言うのです。

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