唯一の神、唯一の主 2012年1月01日(日曜 朝の礼拝)
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唯一の神、唯一の主
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 8章1節~6節
聖書の言葉
8:1 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。
8:2 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。
8:3 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。
8:4 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。
8:5 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、
8:6 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。コリントの信徒への手紙一 8章1節~6節
メッセージ
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新しい年の最初の日に、皆様と共に主を礼拝できますことを感謝しております。週報の表紙に記されているとおり、今年2012年の年間テーマは「復活の希望に生きる」、年間聖句は「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(コリントの信徒への手紙一15章20節)であります。このテーマと聖句を選ばせていただいたのは、私たちが復活の希望に生きる者となりたいと願ったからであります。私たちキリスト者には等しく与えられている希望があります。それが復活の希望です。どうぞ、主の日の礼拝ごと、私たちが復活の希望を与えられ、復活の希望に生かされていることを心に留めていただきたいと願います。
さて、先程はコリントの信徒への手紙一第8章1節から13節までをお読みしました。このところは内容の豊かなところでありますので、2回に分けてお話したいと思います。今朝は1節から6節までを中心にお話いたします。
では、1節から3節までをお読みします。
偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。
第8章に入りまして、パウロは新しい問題を取り扱っております。それは「偶像に供えられた肉を食べてもよいかどうか」という問題であります。パウロは第7章から、コリント教会からの質問状に答える仕方で、この手紙を書き進めていますが、コリント教会から「偶像に供えられた肉を食べてもよいかどうか」という質問があったのです。コリントはギリシャの都市であります。ギリシャ人は、ギリシャ神話に見られるように多くの神々がいると考えておりました。ですからコリントにも多くの神々を祭る神殿があったのです。その神殿で神々にささげられた肉が、神殿にある食堂でふるまわれたのです。当時は、神殿とか神々に関わる場所で食事を取ることが社会的慣習であり、公的にも私的にも、人々が社会の付き合いとして集まる機会には、必ず供え物の肉がふるまわれたと言われます。その偶像に供えられた肉を食べてよいかどうかがコリント信徒たちの間で大きな問題となっていたのです。
わたしは先程、ギリシャの都市コリントには多くの神々を祭る神殿があったと申しましたけれども、パウロは「神々」とは言わず「偶像」と言っています。そして、やはりコリントの信徒たちも「神々」とは言わず「偶像」と言っていたと思います。パウロもコリントの信徒たちも神々として祭られている像が、実体をもたない空しいものであることを知っていたのです。そのような意味で、パウロは「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』というのは確かです」と語っているのです。
「我々は皆、知識を持っている」という言葉がカギ括弧でくくられていますが、これはコリントのある信徒たちの主張を表すという新共同訳聖書の解釈であります。コリントのある信徒たちは、我々は皆、神々として祭られている像がむなしい偶像であるという知識を持っているのだから、偶像に供えられた肉を食べてもかまわないと考えていたようであります。そして、その「知識」に基づいて偶像に供えられた肉を食べることをためらう者たちを「弱い人々」と呼んで見下していたのです。しかし、パウロは偶像に供えられた肉の問題を解決するのは知識ではなく、愛であると語ります。パウロは「我々は皆、知識を持っている」というコリントのある信徒たちの主張を認めながらも、「ただ、知識は人を高ぶらせ、愛は造り上げる」と語ります。ここで「造り上げる」と訳されている言葉は直訳すると「(家を)建てる」という言葉です。新改訳聖書は「愛は人の徳を建てます」と翻訳しています。パウロは第3章10節以下で教会を建物にたとえておりましたので、むしろ「愛は教会を建てる」と理解したらよいと思います。知識は人を高ぶらせ教会を分裂させますが、愛は教会を造り上げるのです。パウロは知識を誇る者たちに、「自分は何か知っていると思う人がいれば、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」と苦言を呈します。これは古代ギリシャの哲学者ソクラテスの「無知の知」を思い起こさせる言葉ですが、岩波書店の新約聖書を見ると次のように訳されています。「もし誰かが、自分は何かを知ったと思うなら、その人はまだ、〔本来〕知るべき仕方では何ごとも知ってはいない」。この翻訳によりますと、パウロが問題としておりますのは知識そのものというよりも、その知り方であります。つまり、神を愛することと切り離された知り方、神への愛に基づかない知識がここで問題とされているのです。それゆえ、続けてパウロは「しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」と記すのです。神を知ること、それは神を愛することであるのです。しかし、ここでパウロが「神を愛する人がいれば、その人は神を知っているのです」と記していないことに注意したいと思います。パウロは「神を愛する人がいれば、その人は神から知られているのです」と受け身で記しました。このことは私たちが神様を愛するに先立って、神様が私たちを知ってくださったことを教えています。私たちが神様を愛しているならば、それは神様が私たちをイエス・キリストにあって選んでくださったからであるのです。そしてこのことを知るとき、私たちは知らねばならぬことを知ったと言えるのです。
4節から6節までをお読みします。
そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
岩波書店の新約聖書を見ますと、「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないこと」がカギ括弧でくくられています。岩波書店の新約聖書は「世の中に偶像の神などない」こと、「唯一の神以外にいかなる神もいない」こともコリントのある信徒たちの主張であると解釈しているのです。そして、わたしもこの解釈は正しいと思います。コリントのある信徒たちは、「我々は皆、知識を持っている」と語っておりましたが、その知識の内容が4節に記されているわけです。つまり、コリントのある信徒たちは、「我々は皆、世の中に偶像の神などなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないという知識を持っている」と主張していたのです。そして、この知識に基づいて、彼らは偶像の神殿で食事の席につき、偶像に供えられた肉を食べたのであります。パウロは、コリントのある信徒たちの知識、「世の中の偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいないことを」、私たちは知っていますと肯定しております。そして、さらにその唯一の神がどのようなお方であるのかを語るのです。それが5節、6節であります。「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」。パウロはここで「神々」と「主たち」を、また「神」と「主」を同義語として用いています。そして、このことは旧約聖書においても見られることであります。例えば申命記の第10章17節、18節にこう記されています。旧約の298ページです。
あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。
このように旧約聖書において「神々」と「主たち」が同義語で用いられているのです。神々の中の神、主なる者たちの中に主、それはヤハウェである、と書いてあるのです。
では今朝の御言葉に戻ります。新約の309ページです。
先程の申命記の御言葉を念頭に置きつつ、改めてパウロの言葉を読みますとき、ひっかかるものがあります。それは唯一の神、唯一の主と言葉を使い分けてはいますが、神と主が同義語であるならば、唯一ではないではないかということです。旧約聖書はヤハウェこそが神々の中の神、主なる者たちの中に主であると語りました。イスラエルをエジプトの地から導き出したヤハウェこそが、唯一の神であり、唯一の主であると告げているわけです。しかし、ここでパウロは唯一の神は父なる神、唯一の主はイエス・キリストと語っているのです。そして、これこそ、わたしたちキリスト者が知っていることなのです。「世の中に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいなかる神もいない」ということであるならば、イエス・キリストを信じていないユダヤ人も知っていたことであります。しかし、私たちはキリスト者は、「唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、私たちはこの神へ帰って行くこと、また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在している」ことを知っているのです。神と主が入れ替え可能な同義語であるならば、理屈から言えば唯一ではなく二人のように思えます。けれども、キリスト教会はこのように信仰を言い表したのです。この6節は、美しい並行文であることから、初代教会に共通の信仰告白であったと考えられています。初代教会は、「私たちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」という信仰に生きたのです。この信仰の告白を念頭に置くとき、パウロが、手紙の挨拶に、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と記している理由が分かるのです。
そもそも私たちはどのようにして、「唯一の神以外にいかなる神もいない」ことを知ったのでしょうか?それはイエス・キリストにおいてであります。イエス・キリストにおいて私たちは神を知った。イエス・キリストにおいて神を知ったということは、言い換えれば、自分は神から愛されている者であることを知ったということです。神は唯一であると言いながら、「私たちにとって唯一の神は父である神であり、また、唯一の主はイエス・キリストである」と告白することは何を意味しているのでしょうか?それは、神は孤独な神ではないということです。また、自分自身に目を注いでうっとりするようなナルシストの神ではないということです。神は唯一でありますけれども、その神は御父と御子との聖霊の交わりに生きる三位一体の神であられるのです。そして、この御子こそ、人となられた神、私たちの主イエス・キリストであるのです。私たちはイエス・キリストを唯一の主と告白することによって、唯一の神を父である神と告白することができるのです。そしてこれこそ、イエス・キリストにおいて御自分を現された神様への正しい信仰の告白であるのです。