主に仕えるために 2011年12月11日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:25 未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。
7:26 今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。
7:27 妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。
7:28 しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。
7:29 兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、
7:30 泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、
7:31 世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。
7:32 思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、
7:33 結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、
7:34 心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。
7:35 このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。コリントの信徒への手紙一 7章25節~35節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はコリントの信徒への手紙一第7章25節から35節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 25節、26節をお読みします。

 未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状に留まっているのがよいのです。

 パウロは第7章からコリント教会からの質問状に答えるかたちで、この手紙を記しております。パウロはコリント教会からの質問を「何々について言えば」と取り上げて、それについて記しているわけです。今朝の御言葉もそうでありまして、どうやらコリント教会から「未婚の人たち」についての質問があったようであります。パウロはコリント教会からの質問を受けて、「未婚の人たちについて言えば」と、今朝の御言葉を記しているのです。ここで「未婚の人たち」と訳されている言葉は、新改訳聖書では「処女」、口語訳聖書では「おとめ」と訳されています。ですから、「未婚の人たち」とは「一度も結婚したことのない若い人たち」のことであるのです。それも新共同訳聖書の解釈によりますと女性だけではない、男性も含めた、「一度も結婚したことのない若い人たち」のことを指しているのです。パウロは第7章1節で、「そちらから書いてよこしたこととについて言えば、男は女に触れない方がよい」とコリント教会の主張を原則的には認めましたけれども、そのことは結婚適齢期を迎える若い人たちにも言えることなのであろうか?という質問が今朝の御言葉の背後にどうやらあるようであります。その質問を取り上げて、パウロは、「未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として意見を述べます」と語っているのです。ここでまず心に留めたいことは、今朝の御言葉は「指示」ではなく「意見」であるということです。パウロが断っておりますように、未婚の人たち、結婚適齢期を迎えた若い人たちについて、パウロは主イエスの指示を受けていないのです。それでパウロは主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べているわけです。「指示」と「意見」とどう違うのかと言いますと、主の指示に従わないことは罪でありますが、意見に従わないことは罪ではありません。28節に「しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません」とありますように、パウロの意見に反したことをしても、罪を犯したわけではないのです。すなわち、パウロの意見は私たちを束縛するものではないのであります(35節参照)。しかし、パウロの意見は、主の憐れみにより信任を得ている者としての意見でありますから、傾聴するに値する意見であると思われます。私たちは今朝の御言葉を、主の憐れみにより信任を得ているパウロの意見として耳を傾けたいと思います。

 パウロは「人は現状にとどまっているのがよいのです」と語っておりますが、これは前回学んだ原理、原則に通じるものであります。今朝の御言葉の直前の24節には「兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前に留まっていなさい」とあります。それと同じ主旨のことを26節でも語っているわけです。しかし、ここではある前提のもとに、パウロは「人は現状にとどまっているのがよいのです」と語っています。その前提とは、「今危機が迫っている状態にある」ということです。パウロは今危機が迫っている状態にあるという前提のもとに、「人は現状にとどまっているのがよいのです」と語っているのです。では、「今迫っている危機」とは何でしょうか?29節に「定められた時は迫っています」とありますように、それは主イエス・キリストの再臨に先立つ苦難のことであります。26節の「危機」は「苦難」とも訳すことができるのです。マタイによる福音書の第24章1節から14節に次のように記されています。

 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

 これが「終末の徴」についての主イエスの教えであり、パウロの時代認識でありました。パウロによれば、今は主イエス・キリストの再臨の先触れとしてキリスト者に苦難が迫っている時代なのです。パウロは自分が受けた迫害を世の終わりの先触れとして理解していたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。

 27節、28節をお読みします。

 妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。

 今苦難が迫っているので、人は現状にとどまっているのがよいと意見したパウロは、未婚の人たちの具体的な状況へと筆を進めています。「妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない」とありますが、このところを岩波書店から出ている翻訳聖書は次のように訳しています。「もしもあなたが女性と〔婚約をして〕結ばれているなら、〔それを〕解こうとしたりしないようにしなさい。もしもあなたが女性から解かれているのなら、女性を求めようとしたりしないようにしなさい」。27節で「妻」と訳されている言葉は「女」とも訳すことができます。それで、女と結ばれているとは婚約によって結ばれていると解釈することができるのです。未婚の人たちであっても、婚約関係にあるならば、そのつながりを解こうとしてはいけない。また未婚の人たちが誰とも婚約していないならば、配偶者を求めてはいけない。しかし、婚約者がいない未婚の人が結婚しても罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではないのです。なぜなら、先程も言いましたように、パウロは未婚の人たちについての主の指示を受けておらず、意見を述べているにすぎないからです。パウロは未婚の人が結婚しても罪を犯すわけではないと明言したうえで、次のように語ります。「ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです」。このパウロの言葉も、「今危機が迫っている状態にある」という時代認識を前提としております。危機が迫っている今、結婚をしてあえて苦労を負うべきではないとパウロは考えているわけです。結婚するとは伴侶に対する責任を当然負うことになります。33節にありますように、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世の事に心を遣うようになります。また、34節にありますように、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を遣うようになるのです。そのように結婚した者は伴侶に対する義務、さらには子供が生まれれば子供に対する義務を負うことになるわけです。パウロはそのような義務、またそのための苦労を、世の終わりの苦難が迫っている今は負うべきではないと考えて、「人は現状に留まっているのがよい」と意見を述べているのです。

 29節から31節までをお読みします。

 兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

 パウロは「定められた時は迫っています」と記していますが、定められた時とは、復活された主イエス・キリストが天から再び地上に来られる再臨の日であります。主イエス・キリストが生きている者と死んだ者とを裁くために来られる日、それがここでの「定められた時」であります。パウロがどれほど定められた時が迫っていると考えていたかは第15章51節を読むとよく分かります。ここでは50節から52節をお読みします。

 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

 このようにパウロはすぐにでもキリストが来られて、自分とコリントの信徒たちが死を経験せずに栄光の状態へと変えられると考えていたのです。それほどまでにパウロは「定められた時は迫っている」と考えていたのです(マルコ9:1「また、イエスは言われた『はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる』」参照)。

 今朝の御言葉に戻ります。

 「定められた時は迫っている」という時代認識に立って、パウロは次のように語ります。「今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」。この世の有様は過ぎ去る!これは聖書が私たちに教えるところの真理であります。イエス・キリストが栄光の体へと復活されたことは、この世の有様は過ぎ去ることを私たちに教えているのです(15:32参照)。この世の有様は過ぎ去るという認識は私たちの生き方そのものを変えてしまいます。そのことを知るとき、私たちはこの世の事柄に執着しないようになります。そして、それがパウロがここで求めている生き方であるのです。私たちはイエス・キリストの復活によってこの世の有様は過ぎ去ることを知っているのですから、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきなのです。私たちはこの世の事に執着せず、天を目指す旅人としてこの地上を歩むべきであるのです(ヘブライ11:13~16参照)。

 32節から35節までをお読みします。

 思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。

 パウロは未婚の人たちについて、今危機が迫っている状態にあるので、現状に留まって結婚しないでいるのがよいでしょうと意見を述べました。それは未婚の人たちを思い煩わせたくないからであります。「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます」。このパウロの言葉も、「定められた時は迫っている」という時代認識を前提としております。定められている時が迫っている今、未婚の人たちは独身のままで、どうすれば主に喜ばれるのかと、主のことにのみ心を遣うべきであるとパウロは考えるのです。パウロが独身を勧めているのは、35節にありますように、「ひたすら主に仕えさせるためなのです」。そして、ここにパウロ自身が独身であった理由があるのです。パウロは第15章10節で「わたしは他のすべての使徒よりもずっと多く働きました」と述べておりますけれども、パウロが他のすべての使徒よりもずっと多く働くことができた一つの理由は、彼が独身であったからです。パウロは独身であるゆえに、どうすれば主に喜ばれるのかと、主のことに心を遣い、ひたすら主に仕えたのです。このようにパウロは、定められている時は迫っているという時代認識と主に仕えるためには独身の方が有利であるという点から、未婚の人たちは現状にとどまるのがよいと意見を述べているのです。

 私たちはパウロが生きている間に、主イエス・キリストが来られなかったことを知っております。パウロの時代から2000年近く経ちますが、主イエス・キリストはまだ来ておりません。では、私たちは自分たちが生きている間に主イエスは来られないと考えて歩むべきでしょうか?そうではありません。私たちは自分が生きている間に主イエスが来られることを期待して、また祈り求めて生きるべきです。私たちはイエス・キリストの再臨を想定外の出来事としては決してならないのです。しかし他方、私たちが生きている間にイエス・キリストの再臨がないことも考慮して生きなければなりません。そのような「時の認識」に立って、私たちは今朝のパウロの意見を吟味し、取り入れるべき点は取り入れるべきであります。私たちが生きている間に、イエス・キリストが来られなくとも、私たちは死を通して、イエス・キリストのもとへ行きます。私たちが主イエスのもとへ行く日は確実に迫っているのです。そのことを覚えるとき、パウロの意見から私たちが学ぶべき点は多いのではないかと思います。

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