召されたときのままで 2011年12月04日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
召されたときのままで
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
コリントの信徒への手紙一 7章17節~24節
聖書の言葉
7:17 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。
7:18 割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。
7:19 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。
7:20 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。
7:21 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。
7:22 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。
7:23 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。
7:24 兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。コリントの信徒への手紙一 7章17節~24節
メッセージ
関連する説教を探す
今朝はコリントの信徒への手紙一の第7章17節から24節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
17節をお読みします。
おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。
「神に召された」とありますが、これは「神様によってイエス・キリストとの交わりに召された」ということであります。パウロは第1章9節で「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」と記しましたが、ここで「招き入れられた」と訳されている言葉は「召された」とも訳すことができます。イエス・キリストを信じて、教会の交わりに生きる者たちは、神に召された者たちであるのです。また、「身分」という言葉がでてきますが、もとの言葉を見ますと、必ずしも身分という意味の言葉があるわけではありません。新改訳聖書を見ますと、「ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです」と「状態」と記されています。「身分」よりも「状態」の方が誤解が少なくて済むのではないかと私は思います。パウロは17節を、どのような人たちに対して語っているかと言いますと、それはキリスト者となったことにより、自分の状態を変えようとする者たちに対してであります。前回の御言葉の流れで言えば、キリスト者となった者が信者でない配偶者と結婚関係を解消するような場合であります。12節でパウロが言っている「その他の人たち」とは信者と信者でない夫婦でありましたが、その場合の多くは、もともとは二人とも信者ではなかったと思われます。しかし、夫あるいは妻のどちらかがイエス・キリストを信じてキリスト者となった。そうした場合、信者でない配偶者、もっと言えば異教徒の配偶者と結婚生活を続けてよいのであろうか?キリスト者となったのだから、異教徒である配偶者とは離縁して、新しい生活を始めるべきではないだろうか?そのような者たちに対して、パウロは「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの状態のままで歩みなさい」と語るわけです。「信者でない配偶者との結婚生活も主から分け与えられた分である。だから、神様から召されたとき、信者でない配偶者と夫婦であるならば夫婦であり続けなさい」とパウロは語るのです。
17節の後半で「これは、すべての教会でわたしが命じていることです」とありますように、17節は結婚だけに限られない、広く適応できる原理、原則であります。その原理、原則の適用として18節から19節では割礼と無割礼のことが、21節から23節では奴隷と自由人のことが語られているわけです。今朝の御言葉は17節、20節、24節にパウロがすべての教会で命じている原理、原則が記されており、それに挟まれる形で、その適応として、18節から19節で割礼と無割礼のことが、21節から23節で奴隷と自由人のことが語られているわけです。
18節から20節までをお読みします。
割礼を受けいている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。おのおのは召されたときの身分にとどまっていなさい。
ここでパウロは「割礼を受けている者」と「割礼を受けていない者」という宗教的な区分を取り扱っています。「割礼を受けている者が召されたなら」とは「ユダヤ人が神様によってイエス・キリストとの交わりに召されたなら」という意味であります。その場合パウロは、「割礼の跡を無くそうとしてはいけません」と語ります。旧約聖書と新約聖書の間の中間時代に書かれた旧約聖書続編のマカバイ記一を見ますと、ユダヤ人の中で割礼の跡を消した者がいたことが記されています(マカバイ記一1:14,15参照)。ヘレニズム化していく社会にあって、割礼を恥じる者たちがいたのです。コリントの教会にも、割礼を恥じるユダヤ人キリスト者がいたのかも知れません。しかし、パウロは「割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません」と語るのです。また、「割礼を受けていない者が召されたのなら」とは「ギリシャ人が神様からイエス・キリストとの交わりへと召されたのなら」という意味であります。割礼は旧約聖書によれば、神の契約の民であることのしるしでありました(創世記17:10,11参照)。その割礼を受けたい願う者たちに、パウロは「割礼を受けようとしてはいけません」と語るのです。この割礼の問題についてはガラテヤの信徒への手紙において詳しく扱っておりますが、ここでのパウロの答えは至ってシンプルです。パウロはその理由を「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです」と語ります。これはローマの信徒への手紙の第2章の論法と同じであります。ローマの信徒への手紙の第2章25節でパウロはユダヤ人キリスト者たちを念頭においてこう語っています。「あなたがたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか」。このように割礼を受けていても神の掟を守っていなければ割礼を受けていないのと同じであり、また割礼を受けていなくても神の掟を守っているならば、割礼を受けた者と見なされるのです。よって「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ること」となるわけです。割礼を受けていても、割礼を受けていなくても、神の掟を守ることができるではありませんか。ですから、割礼を受けている者が召されたなら、割礼の跡を消そうとしてはいけない。また、割礼を受けていない者が召されたなら、割礼を受けてはいけないとパウロは語るのです。そもそも、なぜ入信を機に、自分の状態を変えたいと願うのでしょうか。それは自分の状態がキリスト者としてふさわしくないと考えるからだと思います。しかし、パウロはおのおの主から与えられた分であるその状態、身の上、境遇が神の召しであるのだと言うのです。岩波書店から出ている翻訳聖書は20節を次のように訳しています。「各自はそれぞれが召された召し、〔まさに〕その〔召し〕の中に留まっていなさい」。召された召しの中に留まるというパウロの言葉は、神様によってイエス・キリストへと召された自分の状態、身の上、境遇をも神様の召しと捉える積極的な現状肯定の言葉であるのです。
21節から24節までをお読みします。
召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。
ここでパウロは「奴隷」と「自由人」という社会的な区分を取り扱っております。「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません」。このパウロの言葉は奴隷でキリスト者になった者たちを慰めるための言葉であります。キリスト者となったのに、奴隷のままでよいのであろうか。そのように悩む者たちに対して、パウロは「気にしてはいけない」と語るのです。21節の後半に「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」とありますが、新改訳聖書を見ますと、まったく逆のことが記されています。新改訳聖書は次のように記しています。「しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい」。口語訳聖書も同じように翻訳しています。なぜ、このように全く反対の意味の翻訳がされているのでしょうか?それは原文が曖昧に記されているからです。もとの言葉を見ますと、「むしろ用いなさい」と記されているだけで、目的語がないのです。それで何を目的語とするかによって、意味が全く逆になってしまうのです。新共同訳聖書は「むしろ〔奴隷であることを〕用いなさい」と解釈しまして、「むしろ奴隷のままでいなさい」と翻訳しております。新改訳聖書、口語訳聖書は、「むしろ〔自由になる機会を〕用いなさい」と解釈しまして、「むしろ自由になりなさい」と翻訳しているわけです。文法の上ではどちらの翻訳も可能でありますが、私としては新改訳聖書、口語訳聖書の解釈を取りたいと思います。すなわち、パウロは「自由の身になることができるならば、むしろ自由になりなさい」と語っているわけです。原則としては「各々召されたときの状態に留まっている」べきでありますが、その例外として、パウロは「召されたとき奴隷であった人が、もし自由になれるなら、むしろ自由になりなさい」と語っているのです。
パウロは召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけない理由として、次のように語ります。「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです」。パウロが主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされたと語るとき、それは主イエス・キリストによって罪の奴隷状態から解放され自由にされたということであります。社会的には奴隷であっても、霊的には自由な者とされているのです。主イエスがヨハネによる福音書の第8章36節で、「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」と言われたように、社会的には奴隷の状態であっても、神様の御前に本当に自由な者とされているのです。パウロは19節で、「大切なのは神の掟を守ることです」と語りましたけれども、主によって自由な者とされた私たちは、自由な意志をもって神の掟を守る者とされているのです。また、パウロは「同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」と語ります。コリント教会には召されたとき奴隷であった者ばかりでなく、召されたとき自由人であった者もいたようであります。古代のギリシャ、ローマ世界は奴隷制度によって成り立っておりまして、コリントでは人口の3分の1が奴隷であったと言われています。そういう社会にあって、奴隷で召された者には「主によって自由とされている」語り、自由人で召された者には、「あなたがたはキリストの奴隷なのだ」とパウロは語るのです。
パウロは23節で、「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません」と語っていますが、ここでの「あなたがたは」奴隷をも、自由人をも含む、神によってイエス・キリストとの交わりに召されたすべての者たちのことであります。パウロはすでに第6章20節で、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」と語っておりましたが、それと同じ趣旨のことをここでも述べております。イエス様は十字架において尊い血潮を流してくださり、私たちを罪の奴隷状態から贖ってくださいました。それゆえ、私たちは人の奴隷となってはいけないのです。それは言い換えれば神だけが良心の主であるということです(ウェストミンスター信仰告白20章「キリスト者の自由および良心の自由について」参照)。私たちはどのような状態にありましても、主の自由人として、主に仕えて生きることが求められているのです。そして、それは奴隷であっても、自由人であってもできることなのです。ですから、パウロは24節で、「兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」と言うのです。パウロが「神の前にとどまっていなさい」と語りますとき、その神は、割礼のあるあなたを召された神であり、割礼のないあなたを召された神であります。また、奴隷であるあなたを召された神であり、自由人であるあなたを召された神であります。神様がそのような状態のあなたを召してくださったのですから、そのままで神様の御前にとどまりなさい、とパウロは語るのです。
もしかしたら今朝の御言葉はあまりピンと来なかったかも知れません。なぜなら、私たちの中には割礼を受けている者もいなければ、社会的に奴隷である者もいないからです。しかし、パウロは今朝の御言葉を、割礼を受けている者と割礼を受けていない者からなる教会、あるいは奴隷である者と自由人である者とからなる教会に対して語ったのです。もしかしたら、その中には奴隷から解放された自由人もいたかも知れません。割礼を受けているか割礼を受けていないかはユダヤ人と異邦人という宗教的な区別をもたらしました。また、奴隷であるか自由人であるかは社会的な区別をもたらしました。壁があるわけですね。割礼を受けている者と割礼を受けていない者を隔てる宗教的な壁、自由人と奴隷を区分する社会的な壁が世にはあるわけです。その壁が教会の交わりにおいてどのような意味を持つのかという問題が今朝の御言葉の背後にどうもあったようであります。コリントの信徒たちは割礼の跡を消すことによって、あるいは割礼を受けることによって、その壁を取り除こうとしたのかも知れません。また奴隷が自由人になることによって、あるいは自由人が奴隷になることによって、その壁を取り除こうとしたのかも知れません。しかし、パウロはそのままの状態にとどまっていなさい。そのままの状態で、神の掟を守り、主に仕えることが、それぞれに与えられた神様からの召しであると語るのです。そして、それは私たちにおいても言えることなのであります。