結婚と離縁
- 日付
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙一 7章8節~11節
7:8 未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。
7:9 しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。
7:10 更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。
7:11 ――既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。――また、夫は妻を離縁してはいけない。コリントの信徒への手紙一 7章8節~11節
今朝はコリントの信徒への手紙一第7章8節から11節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
8節、9節をお読みします。
未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。
ここでパウロは「未婚者とやもめ」に対して教えを述べております。パウロはコリント教会にいる「未婚者とやもめ」に、「皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」と語ります。新共同訳聖書は、「独りで」と記しておりますが、もとの言葉には「独りで」という言葉は記されていません。岩波書店から出ている翻訳聖書はこの所を次のように訳しています。「もしも彼らが、私もそうしているように、〔現状に〕留まっているなら、彼らにとってその方がよい」。パウロが未婚者とやもめにとって良いと言っているのは、現状に留まっていることなのです。もちろん、パウロは「わたしのように」と言っておりますから、未婚者とやもめにとって現状に留まるとは、独りでいることです。しかし、ここでパウロが彼らにとって良いと言っているのは現状に留まっていることであるのです。このパウロの判断は定められた時は迫っているという終末信仰によるものであります。26節にこう記されています。「今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです」。このようにパウロは主イエス・キリストの再臨が迫っているという終末信仰のゆえに、未婚者とやもめは現状に留まっているのがよいでしょう。すなわち、わたしのように独りでいるのがよいでしょう、と語っているのです。しかし、そのように語りながらも、パウロは続けてこう記しています。「しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです」。前回の説教で申しましたように、独身も、結婚も神様からの賜物であります。独身の賜物とは、「自分を抑制する力」のことでありますから、パウロは「独身の賜物が与えられていない人は結婚しなさい」と語っているわけです。自分で欲望、性欲を抑制できないならば、みだらな行いを避けるためにその人は結婚すべきであるのです。情欲に身を焦がしながら独身でいるよりも、結婚した方がよいのです。新共同訳聖書は「ましだからです」と翻訳していますが、これは独身を重んじるローマ・カトリック教会の影響によるものと考えられます。新改訳聖書は、「情の燃えるよりは、結婚する方がよいからです」と訳しています。未婚者とやもめは現状に留まり、パウロのように独りでいるのが彼らにとって良いのです。しかし自分を抑制できず、情欲に身を焦がしているならば、結婚した方が良いのです。情欲に身を焦がしていることは、その人が独身の賜物ではなく、結婚の賜物を神から与えられていることを示しているからです。
10節、11節をお読みします。
更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。-既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。-また、夫は妻を離縁してはいけない。
次にパウロは、既に結婚している既婚者に対して語っています。夫か妻のどちらかが信者でない夫婦については12節から16節で記しておりますので、ここでの既婚者は夫も妻も「イエスは主である」と告白するキリスト者であります。それゆえパウロは主イエス・キリストの命令として、「妻は夫と別れてはいけない」、「また、夫は妻を離縁してはいけない」と語るのです。イエス様が離縁について教えている個所にマルコによる福音書の第10章1節から12節があります。
イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は話してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
イエス様は、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と言われました。「神が結び合わせてくださった」とは、人間の側から言えば、神様を証人として契約を結んだということであります(マラキ2:14「あなたたちは、なぜかと問うている。それは主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である」参照)。それゆえ私たちの主は、「妻は夫と別れてはいけない」、「また夫は妻を離縁してはいけない」と命じられるのです。
今朝の御言葉に戻ります。
主が命じられたようにキリスト者である夫婦は離縁していけないのでありますが、コリントの教会では既に別れてしまっていた夫婦がいたようです。これは前回もお話しましたように、夫婦の交わりをみだらな行いと同一視していたためであったと考えられます。夫婦の交わりをみだらな行いと見なして止めるばかりでなく、離縁してしまった者もいたのです。パウロは夫と別れてしまった妻に対して、「再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい」と語ります。パウロが再婚せずにいるように命じるのは、彼女に姦通の罪を犯させないためであります。先程引用したマルコによる福音書の第10章11節で、イエス様は弟子たちに「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も姦通の罪を犯すことになる」と言われました。その姦通の罪を犯すことがないように、パウロは夫と別れた妻に対して、再婚せずにいるようにと命じているのです。このイエス様の御言葉は、神が結び合わせてくださったものを、人はそうやすやすと離すことはできないことを教えています。イエス様に質問したファリサイ派の人々は、妻を離縁して他の女を妻にすることを律法に適った正しいことだと考えていました。しかし、イエス様は家で弟子たちに「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」と言われたのです。それは他の女を妻にするための離縁、あるいは他の男を夫にするための離縁は認められず、神様の御前に夫婦関係は継続していることを教えているのです。4節に、「妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです」とありますように、神様の御前に結婚関係が継続しているにも関わらず、他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになるのです。同様に、神様の御前に結婚関係が継続しているにも関わらず、他の男を夫にする者は、夫に対して姦通の罪を犯すことになるのです。こう聞きますと、それではキリスト者の夫婦は絶対に離婚できないのだろうか?と疑問に思われるかも知れません。私たちの教会が採用しているウェストミンスター信仰告白はその第24章で「結婚と離婚について」告白しておりますが、その6節で離婚の正当な理由として、「姦淫」と「故意の遺棄」の2つを挙げています。
[6]人間の腐敗ははなはだしいもので、神が結婚において結び合わせられた者たちを不当にも引き離そうとしていろいろ理屈を考え出そうとしがちであるが、それにもかかわらず、姦淫あるいは教会や国家的為政者によっても救済できないような故意の遺棄以外の何事も結婚の絆を解消するに足る理由にならない。そして離婚の場合も公的できちんとした手続きが守られるべきであり、当事者たちは自分自身の件において自身の意志と裁量に任されるべきではない。(村川満+袴田康裕訳)
脚注の1に証拠聖句として、マタイによる福音書第19章8節、9節が挙げられていますが、そこにはこう記されています。
イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
ここで「不法な結婚」と訳されている言葉(ポルネイア)は「みだらな行い」とも訳すことができます。口語訳聖書では「不品行」と訳されていますが、これが「姦淫」に当たるわけです。伴侶が自分以外の異性と関係を持ったならば、それは結婚の絆を解消する正当な理由であるのです。
次に脚注の1に証拠聖句として、コリントの信徒への手紙一の第7章15節が挙げられています。そこにはこう記されています。
しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。
このパウロの言葉は、夫あるいは妻のどちらかが信者でない夫婦に対して語られた言葉でありますが、ウェストミンスター信仰告白は、それをキリスト者同士の夫婦においても当てはめています。相手がどのような説得にも応じず、故意に自分を捨て去るとき、それは結婚の絆を解消する正当な理由であるのです。
このように聖書は離縁する正当な理由として、「姦淫」と「故意の遺棄」の二つを認めているのですが、そうでない場合は、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」のです(マタイ19:6)。
今朝の御言葉に戻ります。
パウロは、夫と別れた妻に、再婚せずにいるようにと命じましたけれども、もう一つの選択肢として、夫のもとに帰ることを命じています。11節で「夫のもとに帰りなさい」とありますけれども、原文には「夫と和解しなさい」と記されています(口語訳、新改訳参照)。そして、パウロは「和解」という言葉をここ以外では、もっぱら神と人との関係において用いているのです(ローマ5:10、ニコリント5:18~20参照)。例えば、パウロはコリントの信徒への手紙二の第5章18節から21節で次のように語っています。
これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
パウロが、夫と別れた妻に、あるいは妻と別れた夫に、「相手と和解しなさい」と命じるとき、イエス・キリストにあって神と和解させていただいた事実を念頭に置いていたことは明かであると思います。パウロはイエス・キリストにあって神と和解させていただいた妻、あるいはイエス・キリストにあって神と和解させていただいた夫に、「相手と和解しなさい」と命じているのです。キリストにあって神と和解させていただいた夫婦であれば、和解することできるはずではないかとパウロは語るのです。
後にパウロはエフェソの信徒への手紙で、夫と妻との関係をキリストと教会との関係になぞらえて教えております。今朝はそのところを読んで終わりたいと思います。エフェソの信徒への手紙第5章21節から33節までをお読みします。
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
男と女が夫婦となり、死が二人を分かつまで夫婦であり続けることは難しいことであるかも知れません。しかし、主にあって夫と妻が和解し、夫と妻が互いに仕え合って生きるとき、その夫婦関係はキリストと教会との関係を映し出すものとなるのです。夫と妻が主にあって和解し、夫婦として歩み続けるところに、キリストと教会との一致があらわされるのです。そのような光栄を主を信じる夫婦は与えられているのです。