人によって違う生き方 2011年11月13日(日曜 朝の礼拝)
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コリントの信徒への手紙一 7章1節~7節
聖書の言葉
7:1 そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。
7:2 しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。
7:3 夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。
7:4 妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。
7:5 互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。
7:6 もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。
7:7 わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。コリントの信徒への手紙一 7章1節~7節
メッセージ
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今朝からコリントの信徒への手紙一の第7章に入ります。今朝の第7章からコリントの信徒への手紙一は第二部に入ったと言えます。パウロは「挨拶と感謝」を記した後、第1章10節、11節でこう記していました。「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました」。このようにパウロは伝え聞いたことをもとに「一致の勧め」を記したのでした。この「一致の勧め」は第4章21節まで続くのですが、第5章1節でパウロはこう記しています。「現に聞くこところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです」。このようにパウロは第5章も伝え聞いたことをもとに記しているのです。そしておそらく第6章もそうであったと思われます。しかし、パウロは第7章から第16章12節までをコリント教会からの手紙をもとにして記しているのです。第7章1節に「そちらから書いてよこしたことについて言えば」とありますように、パウロは第7章以下をコリント教会からの手紙に答える仕方で記しているのです。コリントの信徒への手紙一は「コリント教会について報告への応答」と「コリント教会からの手紙への応答」の大きく二つの部分から成り立っているのです。そのような意味で、私たちは今朝からこの手紙の第二部に入ったと言えるのです。
コリント教会からの手紙が、どのような手紙であったのかは現存しておりませんので、はっきりとは分かりませんが、エフェソにいるパウロへの質問状であったと思われます。そして、パウロはその質問を「何々について言えば」という言い回しによって、取り扱っています。第8章1節を見ますと「偶像に備えられている肉について言えば」とありますし、第12章1節を見ますと「兄弟たち、霊的な賜物については」と記されています。このように、エフェソにいるパウロのもとにコリントの教会から質問が寄せられていたのです。この手紙は第16章17節に出てくる、ステファナ、フォルトナ、アカイコによって届けられたと考えられております。また、この手紙は第5章9節で言及されていたパウロが以前書いた手紙を受けてのものであったとも考えられています。パウロは第5章9節で「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きました」と記しておりますが、そのパウロの言葉を受けてコリント教会の中に男は女に触れない方がよいと主張する者たちがいたようです。そして、その主張には結婚している夫婦の交わりも含まれていたようです。そのようなことを念頭に置きながら、今朝の御言葉を御一緒に読み進めていきたいと思います。
1節から4節までをお読みします。
そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。
前回も紹介しました岩波書店から出ている翻訳聖書を見ますと、「男は女に触れない方がよい」という言葉はカギ括弧で括られています。これは第6章12節のように、パウロがコリントの信徒たちの主張を引用しているという解釈を示しています。前回の御言葉にありましたように、パウロの書き方は、コリントの信徒たちの主張を受け入れつつ、それに修正を加えるものでありました。第6章12節では、「わたしには、すべてのことが許されている」というコリントの信徒たちの主張を受け入れつつ、「しかし、すべてのことが益になるわけではない」と修正を加えているわけです。今朝の御言葉も同じでありまして、パウロは「男は女に触れない方がよい」というコリントの信徒たちの主張を受け入れつつ、「しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また女はめいめい自分の夫を持ちなさい」と修正を加えているのです。「みだらな行いを避けるために」とありますが、「みだなら行い」については前回の御言葉で学びました。コリント教会には、キリストを信じながら娼婦と交わる者がいたのです。そのようなみだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさいとパウロは記しているのです。これをある人は「低級な結婚観である」と批判していますが、ここでパウロは大切なことを私たちに教えてくれていると思います。つまり、男女の営み、性の営みは夫婦関係において営まれるべきであるということです。聖書は性の営みについて否定的ではありません。性の営みも神様の祝福であります。しかし、その性の営みは夫婦の関係おいて営まれるとき、祝福となるのです。それゆえ、夫婦の交わりはみだらな行いではなく、むしろ汚してはならないものなのです(ヘブライ13:4「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません」参照)。しかし、コリントの信徒たちの中には夫婦の交わりをみだらな行いと見なし、断っていた者たちがいたようであります。それゆえ、パウロは「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい」と語るのです。ここで「務め」とありますが、新改訳聖書では「義務」と訳されています。夫婦には互いに性的な関係を持つ義務があるのです。なぜなら、「妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれをもっているからです」。今朝の御言葉で、パウロが夫だけではなく、妻に対しても語っていることは注目に値します。夫が妻の体を意のままにする権利を持っているのと同じように、妻も夫の体を意のままにする権利を持っているのです。夫婦の性生活において夫も妻も対等であるわけです。それゆえ、パウロは「互いに相手を拒んではいけません」と語るのです。
5節をお読みします。
互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。
パウロは「互いに相手を拒んではいけません」と語っていますが、ここで「拒む」と訳されている言葉は「奪う」とも訳すことができます。夫婦の交わりは当然与えられるものなのですから、それを与えないということは奪うことでもあるのです。パウロは「互いに奪ってはいけない」と語っているのです。しかし、ここには一つの例外が記されています。それは納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためであります。新共同訳聖書は、「しばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です」とまるで別居して、再び同居するかのように訳していますが、ここで言われていることは、夫婦の交わりをしばらく断って、再び持つことです。パウロがここで言いたいことは、基本的には相手が夫婦の交わりを求めたとき、その相手を拒んではいけませんということです。「例外として、互いに合意のうえで、祈りに専念するために夫婦の交わりを持たないことにするのはよいでしょう。しかしそれでも、しばらくの間のことであり、また夫婦の交わりを持つようになることが前提です」、こうパウロは語っているのです。パウロがこのようなことを記すのは、実際に、コリント教会において、祈りに専念するために、相手を拒む夫婦がいたからだと思います。コリント教会の夫婦の中で、「自分は祈りに専念したいから、夫婦の関係を持たないことにする」と言う夫、あるいは妻が実際にいたのです。そのような者の主張をパウロは認めつつも、それには互いの合意が必要であり、しばらくの間のことであり、また夫婦の関係を持つようになるのなら、よいでしょうと修正を加えているのです。パウロはそのように語る理由として、「あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないとも限らないからです」と語ります。ここでの「サタンの誘惑」は「みだらな行い」へと結びついています。祈りを理由に夫婦の交わりを断ち続けるならば、拒まれた夫を、あるいは拒まれた妻をサタンがみだらな行いへと誘う原因となるかも知れない。それゆえ、夫婦の交わりを断つのは、祈りに専心するためであっても、しばらくの間でなくてはいけないとパウロは語るのです。これは一つの推測でありますけれども、キリスト者でありながら娼婦と交わっていた男は、妻から夫婦の交わりを拒まれていた者であったかも知れません。そのようなことがないように、パウロは互いに相手を拒んではいけない。祈りに専心するためであっても、それは納得し合ったうえで、しばらく間でなければいけないと語るのです。
6節、7節をお読みします。
もっとも、わたしは、そうしても差し支えない、と命じるつもりはありません。わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。
6節は、直前の5節を受けてというよりも、2節から5節までを受けてのパウロの言葉です。パウロは「みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」と語りましたけれども、それは、そうしても差し支えないという譲歩であって、命令ではないと言うのです。パウロとしては、皆が自分のように独りでいてほしいわけです。それゆえ、パウロは1節で、コリント教会の主張を引用して、「男は女に触れない方がよい」と記したのです。しかし、パウロはそのようにできるのは神様から賜物をいただいた者だけであることを知っていましたので、「しかし、みだらな行いを避けるために」と結婚を勧めているわけです。独身の賜物とは、言い換えれば5節の「自分を抑制する力」のことであります。自分の性欲を制御できる力、それは神様から与えられる賜物、カリスマであるのです。その人が独身でいるか、結婚するかは神様からいただいている賜物によって異なるのです。ここでパウロは結婚する賜物よりも独身の賜物の方を重んじていますけれども、これは「終わりの時が近づいている」というパウロの認識によるものであります。第7章29節から35節でパウロは次のように述べています。
兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。
このように終わりの時が近づいている今、主に仕えるためには独身の方が有利であるとパウロは考えていたのです。それゆえ、パウロは「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」と語るのです。パウロの言葉は、今は定められた時が迫っている緊急事態であるという認識によるものであり、この所から結婚の賜物よりも独身の賜物を重んじるべきであるとは必ずしも言えないのです。
新共同訳聖書は7節を「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」と翻訳していますが、もとの言葉には、「独りで」という言葉はありません。これは新共同訳聖書の補足であります。ちなみに口語訳聖書は7節を次のように訳しています。「わたしとしては、みんなの者がわたし自身のようになってほしい」。これは新共同訳聖書のように独身でいてほしいと解釈することもできますが、もっと深い意味を持つ言葉として解釈することができます。パウロ自身のようになるとは、ただ独りでいるということではなくて、自分の生き方を神様からの賜物として受け入れ、感謝して生きるということです。そのことにおいて、私たちは独身であっても、結婚していても、パウロのようになることができるし、なるべきであるのです。パウロは今朝の御言葉の最後で、「しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」と語っています。独身の人も、結婚している人も、それは神様からいただいた賜物によることなのです。パウロは教会に独身の人がおり、結婚している人がいるのは、神様からいただいた賜物の違いであると語ります。それゆえ、独身の人も、結婚している人も、それぞれに与えられている神様の賜物を認めて、それぞれの生き方を尊重しなくてはならないのです。