自分の体に対する罪 2011年11月06日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:12 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。
6:13 食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。
6:14 神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。
6:15 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。
6:16 娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。
6:17 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。
6:18 みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。
6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
コリントの信徒への手紙一 6章12節~20節

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 今朝はコリントの信徒への手紙一第6章12節から20節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 今朝の御言葉でパウロが問題としていますことは、コリントの信徒たちの中に娼婦と交わる者がいたということであります。ちなみに、ギリシャの社会において、娼婦と交わることは合法的なことであり、健康な男子ならば普通のことと考えられておりました。9節に「みだらな者」「姦通する者」が挙げられており、パウロは11節で「あなたがたの中にもそのような者もいました」と述べておりましたが、コリントの信徒の中には依然として娼婦と交わる者がいたのです。彼らはイエス・キリストを信じていることと、娼婦と交わることを何ら矛盾しないこと、むしろ、キリスト者の自由の行使であると考えたのでありました。そのような者たちを念頭において、今朝の御言葉を学びたいと思います。

 12節をお読みします。

 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。

 新共同訳聖書は、「わたしにはすべてのことが許されている」という言葉をカギ括弧で括っていますが、元のギリシャ語にはカギ括弧は記されておりません。ですから、口語訳聖書、新改訳聖書を見ましても、カギ括弧は記されておりません。これは新共同訳聖書の一つの解釈であります。新共同訳聖書は、「わたしには、すべてのことが許されている」という言葉をコリント教会の神学的スローガンとしてパウロが引用していると解釈しているのです。コリント教会のある者は、「わたしにはすべてのことが許されている」と主張し、娼婦と交わっていたのです。このコリントの信徒たちの主張はパウロの教えを曲解したものであったと思われます。パウロは律法からの自由を説いた使徒でありましたが、そのパウロの教えを曲解して、コリントの信徒たちは「わたしには、すべてのことが許されている」と主張していたのです。パウロもそれをここで引用しておりますから、そのことを否定しているわけではないと思います。パウロも第9章1節で「わたしは自由な者ではないか」と述べております。しかし、パウロはその自由に、ここではある限界を定めております。それが、「しかし、すべてのことが益になるわけではない」という言葉であります。キリスト者にはすべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。キリスト者の自由は、自分の益、さらには教会の益になることのために用いるべきであるということであります。またパウロは「わたしにはすべてのことが許されている」と語った後で、「しかし、わたしは何事にも支配されない」と語ります。自由であると言いながら、それに捕らわれてしまうならば、逆に支配されてしまうことになると言うのです。このパウロの言葉は始めに申しましたように、キリスト者でありながら娼婦と交わる者を念頭においたものであります。ここではちょうど娼婦と交わる者とパウロとの架空の対話が記されているわけです。キリスト者でありながら娼婦と交わる者が「わたしにはすべてのことが許されている」と主張するのに対して、パウロは「しかし、すべてのことが益になるわけではない」と語ります。また、キリスト者でありながら娼婦と交わる者が「わたしにはすべてのことが許されている」と再び主張すると、パウロは「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」と答えるのであります。つまり、娼婦と交わることは、益にならず、逆に支配されてしまうことから、キリスト者として許されていないことであるのです。

 13節、14節をお読みいたします。

 食物は腹のために、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。

 岩波書店から出ている翻訳聖書を見ますと、「食物は腹のために、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます」という言葉もカギ括弧で括られています。岩波書店から出ている翻訳聖書は、「食物は腹のために、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます」という言葉もコリント教会の主張をパウロが引用したものだと解釈しているのです。わたしもこの解釈に賛成であります。少なくとも、このパウロの言葉の背後には、キリスト者でありながら娼婦と交わる者の主張があると読むべきです。「食物は腹のため、腹は食物のためにある」。この言葉を用いて、キリスト者でありながら娼婦と交わる者は、食物を取って食欲を満たすことと、娼婦と交わって性欲を満たすことを同じことのように主張したと思われます。彼によれば、娼婦と交わって性欲を満たすことは、食べ物を取って食欲を満たすことと同じ自然なことであるのです。また、「神はそのいずれをも滅ぼされます」という言葉は、食物も腹も過ぎ去る一時的なことであり、永遠の救いには関係のないことを表しています。彼によれば、娼婦と交わることは過ぎ去る一時的なことであり、永遠の救いには関係がないです。そして、ここにはギリシャ人に特有の霊と肉の二元論を見ることができます。古代ギリシャの哲学者プラトンが「肉体は魂の牢獄である」と語ったように、ギリシャ人にとって救いとは魂が肉体という牢獄から解き放たれることでありました。それゆえ、ギリシャ人は、肉体を卑しいものと考え、軽んじる傾向があったのです。そのような考え方は、肉体の罪は魂を汚すことはないという極端な霊肉二元論にまで至る恐れがあったのです。パウロは「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます」ということを否定しましませんが、次のように語ります。しかし、「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」。「食物は腹のため、腹は食物のため」と腹と食物は対応関係にありますが、パウロは「みだらな行いは体のため、体はみだらな行いのため」とは決して言いません。体に対応するのはみだなら行いではなくて、主なのです。「体は主のためにあり、主は体のためにおられる」のであります。なぜなら、「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださる」からです。使徒信条の中で、「わたしは、・・・体のよみがえり・・・を信じます」と告白しているように、私たちは魂だけが救われることを信じているのではありません。私たちは神が主イエスを栄光の体へと復活させられたように、私たちの体をも復活させてくださることを信じているのです。それゆえ、体は過ぎ去る一時的なことではなくて、私たちの永遠の救いに根本的な意味を持っているのです。

 15節、16節をお読みします。

 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。

 パウロは第12章27節で、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と語っておりますが、ここではそのことが先取りして語られています。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」。私たちがキリストの体の部分とされているということは、具体的に言えば、私たちの体がキリストの体の一部とされているということであります。私たちは体なくして存在しえないのであり、体は私たちの存在そのものであると言えるのです。パウロは、コリントの信徒たちがキリストの体の一部であることを確認したうえで、「キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか」と問い、「決してそうではない」と語ります。「決してそうではない」とは「そんなことがあってたまるか」という強い否定を表す言葉であります(ガラテヤ2:17参照)。しかし、娼婦と交わる者はそのあってはならないことをしているのです。なぜなら、娼婦と交わる者はその女と一つの体となるからです。ここでパウロは創世記の第2章24節から「二人は一体となる」という言葉を引用していますが、これは元来、結婚の起源を教える個所であります(「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」)。しかし、パウロはそれを娼婦と交わる者とその女の関係において当てはめるのです。このことは娼婦と交わることが体全体に関わる、すなわち全人格に関わることであることを教えています。娼婦と交わることはその人の体全体、全人格に関わることであるのです。

17節、18節をお読みします。

 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。

 娼婦と交わる者がその女と一つの体となるのに対して、主に結び付く者は主と一つの霊となるとパウロは語ります。ヨハネによる福音書の第15章で、イエス様が「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われたように、私たちはイエス様と霊的に結び合わされて、一つの霊とされているのです。そしてこれこそ、主イエス・キリストの名と神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされているコリントの信徒たちの霊的な現実であるのです。それゆえ、パウロは「みだらな行いを避けない」と語るのです。ここで「避けなさい」と訳されている言葉は「逃れなさい」とも訳すことができます。私たちはみだらな行いに背を向けて、積極的に逃げるべきであるのです。ちょうど、エジプトに売られたヨセフが、ポティファルの妻の誘惑から逃げ出したように、私たちもみだらな行いから逃げるべきであるのです。 

 先程、紹介しました岩波書店から出ている翻訳聖書は「人が犯す罪はすべて体の外にあります」という言葉もカギ括弧で括っています。岩波書店から出ている翻訳聖書は、この所もコリント教会の主張をパウロが引用したものであると解釈しているわけです。キリスト者でありながら娼婦と交わる者は「人が犯す罪はすべて体の外にあり、体を汚すものではない」と主張し、自分の行為を正当化していたと考えられるのです。私も、少なくともパウロはコリント教会の主張を念頭においてこの所を記していると思います。そうしますと、パウロも「人が犯す罪はすべて体の外にある」ということを否定してはいないわけです。その場合、パウロが言う罪とは他者との関係における罪を指していると考えられます。殺人、泥棒、悪口、これらは自分の体の外にある、他者に対する罪です。しかし、みだらな行いはそうではないのです。みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。娼婦と交わるというみだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。現代の社会においても、「他人に迷惑をかけなければ何をしてもよい」という風潮があります。自分の体なのだから、自分の好きにしてよいと考える風潮があります。しかし、聖書は「みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯している」と語るのです。しかも、キリストを信じる者たちの体は、もはや自分自身のものではないのであります。

 19節、20節をお読みします。

 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

 パウロは第3章16節で、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と語っておりました。パウロはコリント教会がささげる礼拝に御臨在される神の霊について言及し、あなたがたは神の神殿であると語ったのであります。しかし、ここでは、コリントの信徒たちの一人一人が神の神殿であると言われているのです。私たち一人一人は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、神のものとされているのです。またパウロは、「あなたがたは代価を払って買い取られたのです」とも語ります。ここでは奴隷市場のイメージが用いられています。当時の世界は奴隷社会でありまして、人が物のように金銭で売り買いされていたのです。その奴隷市場のイメージを用いて、パウロは「あなたがたは代価を払って買い取られたのです」と語るのです。イエス・キリストは御自分の命という代価を払って、私たちを罪の奴隷状態から贖い、私たちの主となってくださいました。私たちはもはや罪の奴隷ではなく、また自分自身のものでもなく、主イエス・キリストのものであるのです。パウロは18節で「みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯している」と語りましたけれども、それはキリストに対する罪でもあります。なぜなら、私たちの体は主のものであるからです。私たちは自分の体が主のものであることを覚えて、自分の体で神の栄光を現していきたいと願います。

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