外部の人と内部の人 2011年10月16日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

5:9 わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、
5:10 その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。
5:11 わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。
5:12 外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。
5:13 外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」
コリントの信徒への手紙一 5章9節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はコリントの信徒への手紙一第5章9節から13節より御言葉に聞きたいと願います。

 9節、10節をお読みします。

 わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の者を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。

 「わたしは以前手紙で」とありますように、パウロはコリントの教会に以前にも手紙を書き送っていたようであります。第7章1節でパウロが、「そちらから書いてよこしたことについて言えば」と言っているように、パウロとコリントの教会の間では手紙のやりとりがなされていたようであります。新約聖書には、コリントの教会に宛てて記された手紙が二通ありますが、少なくともパウロはコリントの教会に四通の手紙を書き送ったことが分かっています。一通目は、ここでパウロが言及している以前書いた手紙、いわゆる「失われた書簡」であります。二通目は、今、私たちが読んでおりますコリントの信徒への手紙一です。三通目は、コリントの信徒への手紙二の第2章4節で言及されている手紙、いわゆる「涙の書簡」です。そこでパウロは、「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」と記しています。四通目は、コリントの信徒への手紙二であります。私たちはパウロがコリントの教会に宛てて記した二通目の手紙をコリントの信徒への手紙一として、四通目の手紙をコリントの信徒への手紙二として読むことができるわけです。

 パウロは以前手紙で、「みだらな者と交際してはいけない」と書きましたが、このパウロの言葉はどうやらコリントの信徒たちに誤解されていたようであります。コリントの信徒たちは、パウロの「みだらな者と交際してはいけない」という言葉を、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちとの一切の付き合いを禁じる言葉として誤解したようです。それでパウロは二通目のこの手紙で、「そうではない」とその誤解を解いているわけです。そして、「もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう」と言うのです。これは、世にある教会、世の中に生きるキリスト者にとって、この世のみだらな者とか強欲な者、また人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切付き合わないのは不可能であることを教えております。このことは、キリスト者数が人口の1パーセントに満たないと言われる日本に生きる私たちによく分かることであります。それでは、パウロが本当に言いたかったのは何だったのでしょうか?

 11節をお読みします。

 わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。

 ここで「つきあうな」と訳されている言葉は、9節の「交際してはいけない」と訳されていたのと同じ言葉です。元々は「一緒に混ざる」という意味の言葉であります。パウロは以前の手紙で、「みだらな者と交際してはいけない」と書きましたが、それは「兄弟と呼ばれる人で、みだらな者」であったのです。ここでパウロは、「みだらな者」を一番初めに挙げていますが、それはコリントの信徒たちの中に父の妻をわがものとしているみだらな者がいたからです。このような者については、パウロはあなたがたの間から速やかに除外すべきであると語りました。そして、それは旧約聖書の教えにも適ったことでありました。パウロは、みだらな者に続いて、「強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者」を挙げて、「つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな」と命じておりますが、これも旧約聖書、特に申命記の掟に基づく命令であると考えられます。パウロは当時のいわゆる悪徳表を記しているのではなくて、旧約聖書、特に申命記の掟に基づいて、つきあってはならない者たちがどのような者たちであるかを記しているのです。少し飛びますが、最後の13節に括弧書きで「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」と記されています。これは旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書の申命記第17章7節からの引用であります。申命記第17章2節から7節までお読みします。

 あなたの神、主が与えられるどこかの町で、あなたの中に、男にせよ女にせよ、あなたの神、主が悪と見なされることを行って、契約を破り、他の神々に仕え、その神々や太陽、月、天の万象などわたしが命じたことのないものにひれ伏す者がいるならば、その知らせを受け、それを聞いたときには、よく調べなさい。もし、それが確かな事実であり、イスラエルの中でこうした、いとうべきことが行われたのであれば、この悪事を行った当の男ないし女を町の門に引き出し、その男ないし女を石で打ちなさい。彼らは死なねばならない。死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。死刑の執行に当たっては、まず証人が手を下し、次に民が全員手を下す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。

 ここには、イスラエルの中に他の神々に仕える者がいれば、そのような者を処刑し、取り除かなければならないことが命じられています。パウロがコリントの教会に「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」と命じるとき、もちろん、それは処刑することを命じているのではありません。パウロが命じていることは、つきあわないことによって、教会の交わりから除き去ることです。パウロは11節で、みだらな者、強欲な者に続けて、「偶像を礼拝する者」をあげておりますが、それは申命記第17章を論拠としているわけです。

 続けてパウロは、「人を悪く言う者」をあげていますが、これも申命記第19章を論拠としています。第19章15節から21節までをお読みします。

 いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証言によって、その事は立証されねばならない。不正な証人が立って、相手の不正を証言するときは、係争中の両者は主の前に出、そのとき任についている祭司と裁判人の前に出ねばならない。裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。他の者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。

 ここには偽りの証言をした者に、同胞に対してたくらんだ事を報いることにより、イスラエルの中から悪を取り除かねばならないことが命じられています。偽りの証言をする者とは人を悪く言う者です。それゆえ、パウロは除き去るべき悪い者として、「人を悪く言う者」をあげているのです。

 続けてパウロは除き去るべき悪い者に、「酒におぼれる者」をあげています。これは申命記の第21章を論拠としています。第21章18節から21節までをお読みします。

 ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、両親は彼を取り押さえ、その地域の城門にいる長老のもとに突き出して、町の長老に、「わたしたちのこの息子はわがままで、反抗し、わたしたちの言うことを聞きません。放蕩にふけり、大酒飲みです」と言いなさい。町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。全イスラエルはこのことを聞いて、恐れを抱くであろう。

 この掟がイスラエルにおいてこのとおり実行されたかどうかは分かりませんが、ここでは両親に反抗する息子が「大酒飲み」と言われています。パウロはこの所を論拠として、除き去るべき悪い者に、「酒におぼれる者」をあげているのです。

 続けてパウロは「人の物を奪う者」をあげていますが、これは10節では「強欲な者」と一組みでありました。10節に「強欲な者、また、人の物を奪う者」とあるとおりであります。しかし、11節ではみだらな者の次に「強欲な者」があげられています。これは続く第6章において、兄弟を訴える者たちの問題を扱う備えをするためであると考えられています。ですから本来は10節にありましたように、強欲な者と人の物を奪う者は一組みであるのです。パウロが除き去るべき悪い者として「人の物を奪う者」をあげるとき、申命記の第24章7節を論拠としています。そこにはこう記されています。

 同胞であるイスラエルの人々の一人を誘拐して、これを奴隷のように扱うか、人を売るのを見つけたならば、誘拐したその者を殺し、あなたの中から悪を取り除かねばならない。

 ここで「誘拐したその者」とありますが、七十人訳聖書はこのところを「泥棒」と記しています。このようにパウロは旧約聖書の申命記の掟に基づいて、「兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな」と命じているのです。それはコリントの教会が神の教会、主の会衆であるからです(1:2参照)。キリストが、私たちの過越の小羊として屠られたことにより、コリントの信徒たちは、また私たちは神のイスラエルとされました(ガラテヤ6:16参照)。それゆえ、私たちは申命記の掟に基づきつつ、教会の交わりの中から悪い者を除き去らねばならないのです。

 パウロは「つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな」と言っていますが、この食事は主の晩餐はもちろんのこと、個人的な親しい交わりをも含みます。教会が主イエスの名と力によって交わりから除外した者と一緒に食事をする、親しい交わりを持ち続けるならば、それは主イエスの権威と力に背くことであるのです。私たちの教会では、教会訓練の権能は長老たちの会議である小会に委ねられていますが、すべての教会員は小会が行う教会訓練にふさわしく兄弟あるいは姉妹を取り扱うべきであるのです。

 12節、13節をお読みします。

 外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」。

 ここでの「外部の人々」とは教会の交わりの外にいる人々、すなわちこの世の人々のことです。パウロは世の中に、みだらな者、強欲な者、人の物を奪う者、偶像を礼拝する者たちがいることを知っておりますけれども、世の人々を裁くことは自分の務めではないと語ります。なぜなら、世の人々を裁かれるのは神であられるからです。それゆえ、コリントの教会も、また私たちも世の人々を裁くべきではないのです。そうではなく、コリントの教会も、また私たちも内部の人々、教会の交わりの内にいる兄弟姉妹と呼ばれる人々をこそ裁くべきであるのです。主イエス・キリストから小会に委ねられた教会訓練の権能は、教会の外ではなく、教会の内にいる人々を対象とする者なのです。そして、その内容はあくまで霊的なものであります。先程、旧約聖書に「その者を処刑して、あなたがたの中から悪を取り除きなさい」とありましたが、これはイスラエルという地上の国家に与えられた法律でありまして、教会訓練として与えられている権能を越えています。教会訓練の最も重いものは教会の交わりから除名することです(訓戒→陪餐停止→除名および免職、訓練規定第14条参照)。パウロは最後に申命記の御言葉を引用して「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」と命じていますが、それは除名することによって実現されるのです。

 主イエス・キリストは、山上の説教においてこう言われました。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」。私たちは主イエス・キリストから与えられた教会訓練によって、地の塩であり続けねばなりません。世にあって、世にそまらず、神の民としてのふさわしい清さを保たねばならないのです。そのようにしてこそ、私たちは教会の交わりにおいて、天の国の前味を味わうことができるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す