交わりからの除外 2011年10月02日(日曜 朝の礼拝)
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交わりからの除外
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 5章1節~8節
聖書の言葉
5:1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。
5:2 それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。
5:3 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。
5:4 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、
5:5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。
5:6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。
5:7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
5:8 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。コリントの信徒への手紙一 5章1節~8節
メッセージ
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今朝はコリントの信徒への手紙一第5章1節から8節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節、2節をお読みします。
現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。
パウロは「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」といった争いの問題に続いて、みだらな行いの問題を取り上げます。コリント教会のある人が父の妻をわがものとしていると言うのです。ここでの父の妻とは「義理の母」ということであります。このことは律法で禁じられていたことでありました。レビ記第18章8節にこう記されています。「父の妻を犯してはならない。父を辱めることだからである」。そしてこのことは、パウロが「異邦人の間にもないほどのみだなら行い」と言っておりますように、ローマの法律においても禁じられていたことであったのです。ある人の父は死んでいたか、あるいは妻は父から離縁されていたのかも知れません。詳しいことは分かりませんが、ある人は父の妻と同棲して、性的な関係を持ち続けていたのです。ここで父の妻である女のことについては触れられておりませんが、それはおそらく、この女がキリスト者ではなかったからと思われます。それで、パウロは父の妻をわがものとしている男だけを問題としているのです。いや、むしろパウロが問題としておりますのは、その人をコリントの教会がどう扱うかということであります。「コリントの教会に父の妻をわがものにしている人がいる」という不名誉な噂、スキャンダルは、エフェソにいるパウロのもとに届いたほどですから、すでに多くの人に知られていたようです。しかし、コリントの信徒たちは何もしませんでした。聞いても聞かないふりをして、そのことを問題にしようとはしなかったのです。パウロによれば、コリントの信徒たちは、それにも関わらず、高ぶっていたのです。パウロは第4章で、コリントの信徒たちが高ぶっていることを何度か指摘してきましたが、ここでもコリントの信徒たちの高ぶりを指摘しています。コリントの信徒たちが高ぶることのできない理由として、パウロはコリントの信徒たちの間にみだらな行いをする者がいることを取り上げたとも言えますが、この高ぶりはコリントの信徒たちの歪んだ信仰理解によるものであったかも知れません。第6章12節に「わたしには、すべてのことが許されている」という言葉が記されています。これはコリントの教会を扇動していた者たち、パウロに反対して高ぶっていた者たちのスローガンであると言われています。「わたしには、すべてのことがゆるされている」。この「すべてのこと」に「父の妻をわがものとすること」がどうも含まれていたのではないか、そのようにも推測できるのです。そうしますと、「父の妻をわがものとしている」というみだらな行いが恥ずべきことではなく、むしろ誇りとさえなるのです。6節に「あなたがたが誇っているのは、よくない」とありますけれども、このパウロの言葉は、コリントの信徒たちを扇動していた高ぶっていた者たちの主張を真っ向から否定するものであるのです。パウロは自分たちの中に、みだらな行いをしている者がいるにも関わらず高ぶっているコリントの信徒たちに、「むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」と語ります。ここでパウロが教えておりますのは、いわゆる「教会訓練」であります。教会の中に、神の律法にも、ローマの法律にも反するほどのみだなら行いをする者がいる。そのような場合に教会はその人をどう扱えばよいのか?パウロは「悲しで、その人を教会から除外しなさい」と言うのです。ここで「悲しんで」と言われていることは大切だと思います。怒りでも、憎しみでもなく、悲しんで、その人を教会の交わりから除外しなさいとパウロは言うのです。パウロは第12章で教会はキリストの体であり、一人一人はその部分であると語りますけれども、その一人が失われることの悲しみがここで言われています。主にある兄弟が失われてしまうことの悲しみがここで言われているのです。それなら、教会の交わりから除外しなければいいのにと思うかも知れませんが、パウロはそうは言いません。悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきである、自分はそのように既に裁いてしまったと語るのです。
3節から5節までをお読みします。
わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。つまり、私たちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。
コリントの信徒たちは、みだらな行いをしている者に何も対処せず、放っておりましたけれども、パウロは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせたかのように既に裁いてしまったと語ります。コリントの教会の中にみだなら行いがあるということは一刻も早く対処しなければならない由々しい問題であるのです。そのことはパウロが教会をどのようなものとしてこれまで語ってきたのかを振り返るならばよく分かります。パウロは第1章2節でこう記しておりました。「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」。コリントの教会は「神の教会」であり、「キリスト・イエスによって召されて聖なる者とされた人々」であるのです。また第3章16節、17節にはこう記されておりました。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」。コリントの信徒たちの交わりの只中に、主が聖霊において御臨在してくださる。そのようなコリントの信徒たちの中に、神の律法にもローマの法律にも背くみだらな行いをする者がいる。そのようなことを聞いたときに、パウロはすでにそのものを裁いた。すなわち、教会の交わりから除外することを決定したのであります。そして、この決定にコリントの信徒たちも賛成し、すぐにでも実行することをパウロは4節、5節で求めているのです。ある人を教会の交わりから除外することは「主イエスの名により」とありますように、主イエス・キリストの権威によることであります。またそのことは主イエスの力によることであるのです。パウロは第4章19節、20節で「高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく力にあるのですから」と述べておりました。高ぶっている人たちは、みだらな行いをしている者を正すことができないばかりか教会の交わりから除外することができませんでした。そのことは彼らに権威と力がないことの表しています。自分で勝手に王様になっている彼らに、他の王様を除外することなどできないのです。しかし、教会は主イエス・キリストが王として支配されるところであります。主イエス・キリストを呼び求め、キリスト・イエスによって召されて聖なる者とされた人々の集まり、それが教会です。それゆえ、イエス・キリストの使徒であるパウロは、私たちの主イエスの名と力をもって、このような者をサタンに引き渡したと言うのです。神の国の力とは、教会の交わりからふさわしくない者を閉め出す力でもあるのです。しかし、パウロは自分一人でそのようにできると言っていないことに注意したいと思います。パウロは父の妻をわがものとしている人を、「あなたがたとわたしの霊が集まり」サタンに引き渡したと言っているのです。サタンに引き渡したとは、教会の交わりから除外することを別の言い方で言い表したものです。「あなたがたとわたしの霊が集まり」とは、具体的にはコリントの信徒たちが会合を持って、パウロの決定に同意して決定をくだす教会裁判のことであります。主イエスは教会訓練の文脈において、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と言われました(マタイ18:20)。ここでパウロが語っていることもイエス様の教えと一致するものであります。教会訓練は一人ではなく、複数の者からなる教会会議に委ねられているのです。私たちの教会では、長老の会議である小会に「訓練規定に従って戒規を執行すること」が議会権能と任務として委ねられているのです(政治規準の第76条4項)。
パウロは、「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです」と語りますが、ここでの肉はキリスト者になった後にも残っている罪の性質と言えます。あるいは、キリストを信じる前の古い生き方とも言えましょう。その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡す、教会の交わりから除外するとパウロは言うのです。そして、それは積極的に言えば、「主の日に彼の霊が救われるため」であるのです。パウロは教会の交わりから除外することによって、その人が悔い改めて救われることを願っているのです。その人が自分の罪を認め、罪を捨てて悔い改めることを願って、パウロは彼をサタンに引き渡すようにと語るのです。
6節、7節をお読みします。
あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
パウロは誇って何も対処しようとしないコリントの信徒たちに、パン種のたとえを用いて、このような者をすぐに教会の交わりから除外すべきことを教えます。「パン種」とはパンを膨らますイースト菌のことであります。パウロは父の妻をわがものとしている人をパン種に譬えまして、コリントの教会全体に倫理的な腐敗が広がることをここで警告しているのです。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるように、古いパン種はコリントの教会全体に悪い影響を及ぼすのです。それゆえ、パウロは「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」と命じるのです。また、パウロは「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリスト、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」と語っていますが、これは過越の食事のことを念頭においての発言であります。その昔、主はイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放されましたが、それは主がエジプト中の初子を撃たれるという最後の災いによるものでありました。しかし、イスラエルの民は主の御言葉に従って、小羊を屠り、その血を家の入り口に塗ることにより、滅ぼされずに済みました。主はその主の過越を記念として、小羊を屠って食べ、七日に渡ってパン種の入っていないパンを食べるようにと命じられたのです。そのようにイエス・キリストが私たちの過越の小羊として屠られた以上、私たちはパン種の入っていない者とされているとパウロは語るのです。キリストが私たちをパン種の入っていない者としてくださったゆえに、私たちは教会訓練の権能を用いて、古いパン種を取り除かねばならないのです。
8節をお読みします。
だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
私たちが用いております新共同訳は「過越祭を祝おうではありませんか」と訳していますが、元のギリシャ語には「過越祭」という言葉はありません。ただ「祭りを祝おうではないか」と記しているだけであります(口語訳「祭りをしようではないか」、新改訳「祭りをしようではありませんか」参照)。ですから、ここでの「祭り」は過越祭のことではなく、主の日の礼拝のことであります。イエス様は十字架の死から三日目の日曜日の朝、栄光の体へと復活し、弟子たちにあらわれてくださいました。それゆえ、教会は日曜日を主の日と呼び、主イエス・キリストの復活を祝い礼拝をささげたのです。私たちは、主の復活の祭りを、パン種の入っていない純粋で真実なパンとして祝いたいと願います。