高ぶることがないように 2011年9月18日(日曜 朝の礼拝)
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高ぶることがないように
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 4章6節~13節
聖書の言葉
4:6 兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。
4:7 あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。
4:8 あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。
4:9 考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。
4:10 わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。
4:11 今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、
4:12 苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、
4:13 ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。コリントの信徒への手紙一 4章6節~13節
メッセージ
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今朝はコリントの信徒への手紙一第4章6節から13節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
6節をお読みします。
兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それはあなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。
6節は、第3章1節から第4章5節までのまとめの言葉ということができます。「このように述べてきました」の「このように」は第3章1節から第4章5節までを指しています。第1章11節、12節にありましたようにコリントの信徒たちはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言って、争っておりました。パウロはその争いを解決するために、使徒たち、御言葉の教師たちが何者であるのかを第3章1節から第4章5節に渡って述べてきたのです。例えば、第3章5節にこう記されておりました。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれそれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」。また、第3章9節にはこう記されておりました。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」。さらに第4章1節にはこう記されておりました。「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです」。このように、パウロは教師を旗印にかかげ争っているコリントの信徒たちのためを思い、自分とアポロとに当てはめて、使徒たち、御言葉の教師たちが何者であるのかを述べてきたのです。
パウロはこのように述べてきた目的を2つ挙げています。一つは、「あなたがたがわたしたちの例から、『書かれているもの以上に出ない』ことを学ぶため」であります。「書かれているもの以上に出ない」という言葉は、当時のよく知られた格言であったとも言われますが、おそらく「聖書に書かれているもの以上に出ない」ということでありましょう。当時の聖書は旧約聖書ですが、パウロはこれまでも旧約聖書を引用しながら、論述してきました。第1章19節に、「それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする』」とありますが、これはイザヤ書第29章14節からの引用であります。また第1章31節に、「『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです」とありますが、これはエレミヤ書第9章23節からの引用であります。また第2章9節に、「しかし、このことは、『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです」とありますが、これはイザヤ書第64章3節からの引用であります。また第2章16節に、「『だれが主の思いを知り、主を教えると言うのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています」とありますが、これはイザヤ書第40章13節からの引用であります。さらに第3章19節、20節の、「この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。『神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる』と書いてあり、また、『主は知っておられる、知恵のある者たちの論議がむなしいことを』とも書いてあります」は、ヨブ記第5章13節と詩編第94編11節からの引用であります。このようにパウロは「何々と書いてあります」と言って、旧約聖書を引用してきました。それはコリントの信徒たちが「聖書に書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであったのです。当時の聖書である旧約聖書はキリスト教会にとっても信仰と生活の唯一の基準、正典であるのです。私たちは、旧約聖書と新約聖書の66巻からなる一冊の聖書を正典としているのです。そのことを教えるために、パウロは旧約聖書を引用としながら、このように述べてきたのであります。
またパウロがこのように述べてきた二つ目の目的は、「だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするため」であります。「わたしはパウロ先生につく」「わたしはアポロ先生につく」といった党派争いは、自分のつく教師を持ち上げて、他の教師をないがしろにするものでありました。「ないがしろ」とは、「他人や事物を、あっても無いかのように侮り軽んずるさま」を言います(『広辞苑』)。「わたしはパウロ先生につく」とパウロを持ち上げる者は、その他の教師を侮り軽んじるわけです。ただ、だれ先生が一番好きということではなくて、自分がつく教師以外の教師を侮って軽んじていたのです。ですから、党派争いが生じていたわけであります。そのようなことがないように、パウロは自分とアポロとにあてはめて、御言葉の教師が神に仕える者であり、力を合わせて働く者であることを述べてきたわけです。
「わたしはパウロ先生につく」「わたしはアポロ先生につく」と言って争っている者たちは、教師を持ち上げているようですが、結局はその教師につく自分を持ち上げているのです。ですから、パウロは「一人の教師を持ち上げて、他の一人の教師をながしろにし、あなたがたが高ぶるたことのないようにするためです」と語っているのです。党派争いの根本にあるのは、コリントの信徒たちの高ぶりであるのです。
7節をお読みします。
あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。
ここでパウロは、コリントの信徒たち一人一人に語りかけるように、「あなた」と呼びかけています。パウロはここで、コリントの信徒たちが優れた者であることを否定しているわけではありません。第1章5節で、「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」とパウロが述べておりましたように、コリントの信徒たちは優れた者であったのです。彼らはギリシャ哲学の伝統に生きるギリシャ人でありましたから、言葉や知恵において確かに優れていたわけです。しかし、そのようなコリントの信徒たちにパウロは、「あなたをほかの者たちよりも優れた者としてくださったはだれですか?いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか?もしいただいたのなら、なぜいただかなかった顔をして高ぶるのですか?」とパウロは問うのです。ここでの「あなたの持っているもの」は、財産などの所有物だけを指してはおりません。コリントの信徒たちが誇っておりました言葉や知恵も含まれます。生まれついて持っている能力や訓練によって得た技術も、「持っているもの」に含まれます。すなわち、私たちが持っているものは、すべて神様からのいただきものなのです。しかし、コリントの信徒たちはそのことを忘れて、まるでいただいていないかのような顔をして高ぶっていたのであります。このような高ぶりは旧約聖書においても警告されておりました。申命記の第8章11節から18節に、こう書いてあります。
わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、「自分の力と手の働きで、この富みを築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。
私たちも自分の力と手の働きによって金銭を得て、生活を支えていると考えがちですが、ここでモーセはそのように考えてはいけない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさいと命じております。なぜなら、富みを築く力を私たちに与えてくださったのは主であるからです。私たちが持っているもので、神様からいただいていないものはありません。すべての神様からいただいているものであります。命や健康や時間などすべては神様からいただいているものであります。それにもかかわらず、私たちはいただかなかったような顔をして高ぶるのです。そして、そのような高ぶりは自分自身を拠り所とする偶像崇拝へと私たちを導き、ついには滅びをもたらすのです。モーセは続く19節、20節で、イスラエルの民にこう警告しています。
もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる。主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないゆえに、滅び去る。
すべてのものを主なる神様が与えてくださっているのに、他の神々が与えてくださったかのように考え、他の神々を拝む者は、必ず滅びるとモーセは警告しております。私たちが、自分がもっているものは、自分で獲得したものだと考えるとき、それは自分を神のように考える偶像崇拝の罪を犯しているのです。そして、そのような者は必ず滅びると聖書は警告しているのであります。
コリントの信徒への手紙一に戻ります。第4章8節、9節をお読みします。
あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。私たちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。
パウロは、コリントの信徒たちが既に満足し、既に大金持ちになっており、自分たちを抜きにして、勝手に王様になっていると語ります。もちろん、これはパウロの皮肉でありまして、実際、コリントの信徒たちが王様になっているわけではありません。しかし、彼らは王様になっているかのように高ぶっていたわけです。この「王様」という言葉の背後には、世の終わりに神の民が神と共に世界を支配するようになるという旧約聖書の終末信仰があります。そして新約聖書は、主イエス・キリストが再びこの地上に来られるかの日に、キリストを信じる者たちはキリストと共に世界を統治する王となると教えています。しかし、パウロはコリントの信徒たちが今既に、勝手に王様になっていると言うのです。しかし、コリントの信徒たちが実際は王様になっていないことは、彼らに福音を宣べ伝えたパウロたちが王様になっていないことからも明らかであります。コリントの信徒たちが王様になっているならば、彼らに福音を宣べ伝えたパウロたちも一緒に王様になれたはずですから。しかし、パウロは王様にはなっていない。王様どころか、神は自分たちをまるで死刑囚のようにされたと語るのです。古代のローマ・ギリシャ世界において、円形闘技場の最後の見せ物として、死刑囚を野獣と戦わせたるということが行われていました。パウロは自分たちはその死刑囚のように、世界中に、天使にも人にも見せ物とされていると言うのです。コリントの信徒たちが既に勝手に王様になっているのに対して、神様はパウロたちを死刑囚のようにされているのです。この対比、コントラストはまことに強烈であります。
さらにパウロは自分たちとコリントの信徒たちを比較して次のように語ります。10節から13節までをお読みします。
わたしたちはキリストのために愚かな者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。
なぜ、パウロたちとコリントの信徒たちの姿はこんなにも違うのでしょうか?なぜ、パウロたちは、今の今まで、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいるのでしょうか?なぜ、パウロたちは今でも世の屑、すべてのものの滓とされているのでしょうか?その答えは、パウロたちが宣べ伝えているイエス・キリストが十字架につけられているキリストであるからです。彼らに委ねられた十字架の言葉が、彼らの存在のありかたそのもの形づくり、規定しているからであります。確かにキリストは十字架の死から三日目に復活され栄光へとあげられました。けれども、私たちがそのキリストの栄光にあずかるには、私たちもキリストと同じように苦難の道を通らなければならないのです。ヘブライ人への手紙の第12章に「信仰の創始者また完成者であるイエス」という言葉がありますが、イエス様は私たち信仰者がどのようにこの地上を歩めばよいかを教えるモデルであるのです。「苦難を通って栄光へ」。このことは主イエス御自身が教えられたことでもあります。ルカによる福音書第9章21節から27節までをお読みします。
イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者はそれを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の特があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」
イエス様は弟子である私たちに、日々、自分の十字架を背負って、御自分に従うことを求めておられます。そして、私たちが栄光にあずかるのは、人の子であるイエス様が天使たちと共に栄光に輝いて来られる日においてであるのです。イエス様が再び来られるまでは、私たちは日々、自分の十字架を背負ってイエス様に従っていかねばならないのです。
後にパウロも、ローマの信徒への手紙第8章14節から17節でこう記します。
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
やはりキリストの栄光を受けるのは将来であって、現在はキリストと共に苦しまなくてはならないのです。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるようになる」。それゆえパウロは、フィリピの信徒たちに、「あなたがたは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と語ることができたのです(フィリピ1:29)。
今朝の御言葉においてパウロは、すでに勝手に王様になっているコリントの信徒たちの姿と神によって死刑囚のようにされている自分たちの姿とを対比して記しました。問題は、私たちがどちらに自分自身を見いだすかということであります。私たちもコリントの信徒たちのように、既に勝手に王様によって高ぶってはいないでしょうか?もし高ぶっているならば、私たちが今あるのは、十字架につけられたキリストの恵みによることを心に留めなければなりません。私たちの持っているものはすべていただいたものでありますけれども、それは十字架につけられたキリストからいただいたものであるのです。義認、子とすること、聖化などの霊的祝福のすべては十字架につけられたキリストからいただいたものであります。パウロはそのことを知っていたがゆえに、キリストに倣ってこの地上を歩むことができたのです。パウロは、神は自分たちをまるで死刑囚のようにされたと語りましたけれども、イエス・キリストはまさに死刑囚とされたのです。イエス様は実際に世の見せ物とされたのであります。イエス・キリストは私たちのために死刑囚とされた。そのことをいつも心に留めるとき、私たちは自分を王様とする高ぶりを捨てることができるのです。