わたしを裁くのは主 2011年9月11日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:1 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。
4:2 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。
4:3 わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。
4:4 自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。
4:5 ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。コリントの信徒への手紙一 4章1節~5節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はコリントの信徒への手紙一第4章1節から5節より、御言葉の恵みにあずかりたいと思います。パウロは今朝の御言葉において、自分は何者であるのか、自分を裁くお方は誰であるのかを語っています。なぜなら、コリントの信徒たちの中にはパウロが使徒であることを認めようとしない、パウロを批判する者たちがいたからです。そのことは第9章1節から3節までを読みますと分かります。そこにはこう記されています。「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。わたしを批判する人たちには、こう弁明します」。ここで「批判する」と訳されている言葉は、今朝の御言葉の3節、4節で「裁く」と訳されているアナクリノーという言葉です。コリントの信徒たちの中に、パウロを裁き、パウロが使徒であることを疑う者たちがいたのです。そのような者たちを念頭に置いて、パウロは今朝の御言葉を記しているのです。

 1節と2節をお読みします。

 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。

 ここでの「わたしたち」はパウロとアポロを指していると思われます(6節参照)。パウロは人が自分たちを「キリストに仕える者」と考えるべきであると語ります。ここで「仕える者」と訳されている言葉(ヒュペレーテス)はもともとは「下で櫓を漕ぐ者」を意味します。当時の船はいくつかの層からなっており、下の層では合図に合わせて奴隷たちが櫓を漕いでおりました。その櫓を漕ぐ者をもともとは意味したのです(3:5の「仕える」と訳されている言葉はディアコノスで、もともとは「食卓で給仕する者」を意味します)。パウロとアポロは櫓を漕ぐ奴隷のようにキリストに仕える者であるのです。またパウロは、人が自分たちを「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」と考えるべきであると語ります。「神の秘められた計画」とは「神の奥義」のことでありまして、その内容は神の知恵であるイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストでありました。神様は宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうとお考えになったのですが、パウロとアポロは神の秘められた計画を宣べ伝える管理者とされたのです。ここで「管理者」と訳されている言葉はもともとは「大きな家の管理を委ねられた僕、家令」を意味します。旧約聖書から例を引くとすれば、創世記に出て来るエジプトに売られたヨセフがこの管理者にあたります。エジプト人のポティファルは、「ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた」のでありました(創世記39:4)。ポティファルがヨセフを身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せたように、神様はパウロとアポロに神の秘められた計画の管理をゆだねられたのです。

 管理者に要求されること、それは自分を信頼して、管理をゆだねてくださった主人に忠実であることであります。管理者に要求されるのはコリントの信徒たちが好んだ優れた言葉やこの世の知恵ではなく、何よりも主人に忠実であることなのです。それはパウロにとりまして、十字架につけられたキリストを宣べ伝えるということであったのです。パウロは神の奥義をゆだねられた管理者として、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものである十字架の言葉を宣べ伝えたのです。

 3節と4節をお読みします。

 わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。

 ここでは主語が「わたしたち」から「わたし」に変わっています。1節、2節は「わたしたち」、パウロとアポロを主語としておりましたが、3節、4節の主語は「わたし」、パウロであります。パウロは「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と語っておりますが、このことは、パウロがコリントの信徒たちによって裁かれていたことを教えています。3節、4節に「裁く」という言葉が四回でてきますが、これはもとの言葉ですと「アナクリノー」となります。それに対して5節の「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」の「裁く」は「クリノー」という言葉なのです。3節、4節で「裁く」と訳されている「アナクリノー」は、予審、取り調べを意味しますが、5節の「裁く」は判決を下す、文字通りの裁きを意味します。また3節、4節で「裁く」と訳されているアナクリノーは第2章14節、15節にも出て来るのですが、そこでは「判断する」と訳されておりました。ですから、3節、4節の「裁く」は「判断する」と訳した方が分かりやすいかも知れません(岩波書店の翻訳聖書を参照)。パウロにとってコリントの信徒たちから判断されること、また人間の法廷で判断されることは、とても小さなことであります。またパウロは、自分で自分を判断することもしないのです。それはパウロに何らかのやましいことがあるからではありません。むしろ逆でありまして、何もやましいところはないが、それで自分が義とされているわけではないことを知っているので、自分で判断をくださないのです。コリントの信徒であろうと、人間の法廷であろうと、さらには自分自身であろうとパウロは人間の判断を退けます。なぜなら、パウロを裁かれるお方は主であるからです。ここでの主は「主イエス・キリスト」のことです。なぜ、パウロを裁くのは主であるのか?それはパウロが主イエス・キリストに仕える者であり、パウロに神の秘められた計画をゆだねられた主人が主イエス・キリストであるからです。このことは、パウロだけに言えることではありません。あるいは御言葉の教師だけに言えることでもありません。イエス・キリストのものである信徒一人一人が、それぞれに賜物を与えられた恵みの善い管理者であるのです。ペトロの手紙一第4章10節にこう記されています。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。このように信徒一人一人がキリストに仕える者であり、管理者とされているのです。管理者である私たちにとって問題なのは、人からの判断ではなく、自分自身からの判断でもなく、主からの判断であるのです。

 5節をお読みします。

 ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかるのです。

 ここでの「裁き」は判決を言い渡す文字通りの裁きであります。主イエス・キリストは今天におられ、父なる神の右に座しておられますが、かの日には裁き主として再びこの地上に来られます。その主が来られるまで、私たちは先走って何も裁いてはならないのです。もし先走って裁くならば、それは自分の立場を忘れた越権行為をしたことになります(ローマ14:4「他人の召し使いを裁くとはいったいあなたは何者ですか」を参照)。また、パウロが「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはなりません」と強く命じるのは、神様だけが闇の中に隠されている秘密をも明るみに出し、人の心の企てをも明らかにすることのできるお方であるからです。ここでパウロは同じことを少し違った言葉で言い表しています。つまり、「闇の中に隠されている秘密」とは「人の心の企て」のことであるのです。主は人の心を探られるお方であることは旧約聖書が教えていることでもあります。歴代誌上の第28章9節で、神殿建築の準備を終えたダビデはソロモンにこう言っています。「わが子ソロモンよ、この父の神を認め、全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ。主はすべての心を探り、すべての考えの奥底まで見抜かれるからである」。人は他の人を判断するとき、その人の心の企て、動機までを明らかにして判断することはできません。それゆえ人は他の人を正しく判断することができないのです。自分のことは自分がよく知っていると言う人でさえ、自分のことを正しく判断することはできません。私たちは自分に甘いところがあり、しばしば自分の都合の良いように判断するからです。しかし、神様は心の中にある企てをも明らかにすることのできるお方、私たち自身よりも私たちの心の中にあることを御存じのお方であるゆえに、正しく裁くことができるのです。誤解のないように申しますが、今朝の御言葉での判断、また裁きは、キリストによって救われた者たちの働きに関する判断、また裁きであります。パウロが「自分には何もやましいところはない」と語るとき、それは、キリストに仕える使徒としての働きにおいて言っているのです。では、牧師であるわたしはどうかと言いますと、自分なりにはよくやっていると思います。しかし、これも自分の判断ですから、あてになりません。皆さんはどうでしょうか?皆さんは最善を尽くして教会の礼拝を守り、その活動に奉仕し、教会を維持しておられるでしょうか?わたしは判断しません。その判断をなさるのは私たちの主イエス・キリストであるのです。

 5節で最後のところで、パウロはこう語っています。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。私たちはお叱りを受けるのではないかと心配するかも知れませんけれども、しかし、私たちがいただくのは神からのおほめの言葉であるとパウロは語ります。ここでの「おのおの」には、コリントの信徒たちの一人一人が含まれています。また現代の弟子である私たち一人一人が含まれています。まとめて、「みんなよくやってくれた」というのではなくて、私たち一人一人は主からおほめの言葉をいただくことができるのです。これが今朝私たちが心に刻むべき福音であります。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。このパウロの言葉を読みますと、多くの方がイエス様がお話しになった「タラントンのたとえ」を思い起こされると思います。主人はあずけた五タラントンで、ほかに五タラントンもうけた僕に、「忠実な良い僕だ。よくやった」と言われました。私たちもかの日において、神様から「忠実な良い僕だ。よくやった」とのおほめの言葉をいただけるのです。そのことを信じて、私たちはそれぞれの最善を尽くして、主イエス・キリストにお仕えしてゆきたいと願います。

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