あなたがたはキリストのもの 2011年9月04日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:18 だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。
3:19 この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、
3:20 また、/「主は知っておられる、/知恵のある者たちの論議がむなしいことを」とも書いてあります。
3:21 ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。
3:22 パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、
3:23 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。コリントの信徒への手紙一 3章18節~23節

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 今朝はコリントの信徒への手紙一第3章18節から23節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 18節をお読みします。

 だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。

 「欺く」とは「だます」ことでありますから、パウロは「だれも自分をだましてはなりません」と語っています。私たちは他の人を欺くこともありますが、自分自身を欺くこともあります。そして、それはしばしば自分が本当は何を望んでいるのか分からないためであるのです。個人的なことになりますが、「だれも自分を欺いてはならない」というこのパウロの言葉は、わたしに恩師の言葉を思い起こさせました。それは「自分に真実に生きてください」という言葉であります。「自分を欺かない」とは、肯定的に言えば、「自分に真実である」ということになりましょう。しかし、パウロのこの言葉は、第一にコリントの信徒たちに対して語られたものであります。パウロはコリントの信徒たちに、「だれも自分を欺いてはなりません」と語ったのです。パウロは直前の16節、17節でコリントの信徒たちについてこう語っておりました。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」。私たちは18節の「だれも自分を欺いてはなりません」という言葉を17節と続けて読み、その文脈の中で理解する必要があります。パウロは、「神の神殿であるあなたがたは、だれも自分を欺いてはなりません」と語っているのです。では、パウロはどのような点において、自分を欺いてはいけないと言っているのでしょうか?それは自分がこの世で知恵のある者だと考えている点においてであります。「もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい」。このパウロの言葉はこれまで学んできました第1章18節から第2章16節までの御言葉を前提としています。コリントの信徒たちは世の知恵ではなく、神の知恵であるキリスト、それも十字架につけられたキリストを信じたのでありました。しかし、コリントの信徒たちは教会において世の知恵を重んじるようになっておりました。彼らはパウロが宣べ伝えた十字架の言葉よりも、人間の優れた言葉や知恵、修辞学や哲学を好んでいたのです。そして教会において、この世の知恵を誇る者たち、自分はこの世で知恵のある者だと主張する者たちがいたのです。そのような者たちにパウロは、「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい」と語るのです。「本当に知恵のある者」の「知恵」とは「神の知恵」のことであります。パウロは第1章23節から24節でこう語っておりました。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、召された者には神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」。神の知恵は、世の知恵からすれば愚かなものであります。ですから、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、神の知恵が分からなくなってしまうわけです。それゆえ、パウロは愚かな者になりなさい。自分が神の御前に愚かな者であることを知りなさいと言うのです。イエス・キリストを信じた私たちが自分に真実に生きるとは、神の御前に自分は愚かであることを告白して生きることであるのです。

 19節から20節までをお読みします。

 この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕えられる」と書いてあり、また、「主は知っておられる、知恵のある者たちの論議がむなしいことを」とも書いてあります。

 コリントの信徒たちの中には、自分はこの世で知恵のある者だと考えている者たちがおりました。しかしパウロは「この世の知恵は、神の前では愚かなものである」と断言します。これは第1章20節で、パウロがすでに語っていたことであります。「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか」。そのような神様の霊が住んでおられる教会において、この世の知恵を誇ることは、それこそ愚かなことであるのです。

 パウロは、この世の知恵は、神の前では愚かなものであることを当時の聖書である旧約聖書からの引用によって論証しています。ここでは二つの個所から引用しています。初めの御言葉、「神は、知恵ある者たちを/その悪賢さによって捕えられる」は、ヨブ記第5章13節からの引用であります。ここでは12節からお読みします。

  こざかしい者の企てを砕いて/彼らの手の業が成功することを許されない。

  知恵ある者はさかしさの罠にかかり/よこしまな者はたくらんでも熟さない。

 「さかしさ」とは「かしこさ」のことであります。知恵ある者にとって、自分のかしこさが罠となる。神は、知恵ある者たちを、その悪賢さによって捕えられるのです。この代表的な人物が、エステル記に出て来るハマンでありますね。ハマンはモルデカイを吊るすために50アンマもある高い柱を立てるのですが、結局は自分がその柱に吊るされることになったのです(エステル7:10)。このように神様は、知恵のある者たちをその悪賢さによって捕えられるのです。

 また、パウロが引用しています二つ目の御言葉、「主は知っておられる、知恵のある者たちの論議がむなしいことを」は、詩編の第94編11節からの引用であります。ここでは3節から11節までをお読みします。

  主よ、逆らう者はいつまで/逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。

  彼らは驕った言葉を吐き続け/悪を行う者は皆、傲慢に語ります。

  主よ、彼らはあなたの民を砕き/あなたの嗣業を苦しめています。

  やもめや寄留の民を殺し/みなしごを虐殺します。そして、彼らは言います/

  「主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない」と。

  民の愚かな者よ、気づくがよい。

  無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。

  耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。

  目を造った方に見えないとでもいうのか。

  人間に知識を与え、国々を諭す方に/論じることがえきないとでもいうのか。

  主は知っておられる、人間の計らいを/それがいかに空しいかを。

 11節に「人間の計らい」とありますが、ここでの「人間」は文脈から言えば、イスラエルの指導者たちのことを指しています。イスラエルの指導者たちの中に、主を軽んじ、自分を誇る者たちがいたのです。このことはコリントの教会において神の知恵を軽んじ、自分を世の知者であると誇る者たちがいたことに通じるところがあります。パウロはここでの「人間」を「知恵のある者たち」と言い換えて引用しているのはそのためでありましょう。神様はこの世の知者たちの論議がむなしいこと、実を結ばないことを御存じであられるのです。

 コリントの信徒への手紙一に戻ります。

 第3章21節から23節までをお読みします。

 ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。

 「ですから、だれも人間を誇ってはなりません」。このパウロの言葉は、18節から20節までの結論とも読むことができますし、また21節後半から23節までの書き出しの言葉とも読むことができます。おそらく、パウロは二重の意味を持たせて記していると思われます。18節から20節までの結論として読むとき、この「人間」は「人間の知恵」のことであります。パウロは「神は世の知恵を愚かにされたのだから、だれも人間の知恵を誇ってはならない」と言うのです(1:26~31参照)。

 また、21節後半から23節までの書き出しの文と理解するとき、この「人間」は「人間の指導者たち」のことであります。コリントの信徒たちは、めいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」「わたしはケファにつく」と言って争っておりました。彼らは指導者たちを旗印に掲げて、党派争いをしていたのです。「わたしはパウロにつく」と訳されている言葉は、直訳すると「わたしはパウロのものである」となります。コリントの信徒たちは、めいめい「わたしはパウロのものだ」「わたしはアポロのものだ」「わたしはケファのものだ」と高ぶり争っていたのです。しかし、パウロは「だれも人間の指導者を誇ってはなりません」と語るのです。なぜでしょうか?それは「すべては、あなたがたのもの」であるからです。「パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも、一切はあなたがたのもの」であるとパウロは語ります。あなたがパウロのものではなくて、パウロがあなたがたのものだと語るのです。パウロだけではなく、アポロも、ケファもあなたがたのものであると語るのです。パウロはなぜこのような驚くべきことを語ることができたのでしょうか?それはコリントの信徒たちがキリストのものであり、キリストは神のものであるからです。「あなたがたはキリストのものである。そして、キリストは神のものである。よって、すべてはあなたがたのものである。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることもあなたがたのものである」。それゆえ、コリントの信徒たちがめいめい、「わたしはパウロのもの」「わたしはアポロのもの」「わたしはケファのもの」と言って争うことは信仰的に成り立たないのです。すべてはあなたがたのものであるという真理によって、パウロはコリントの教会に起こっていた党派争いを解決しようとするのです。今朝の御言葉は、第1章10節から語られてきました「一致の勧め」の一応の結論であると言えるのです。

 今朝、O・Aさんの信仰告白をいたしましたけれども、それは自分がキリストのものであることを公に言い表したことでもあります。「イエスは主である」と言い表すことは、「わたしはキリストのものである」と言い表すことでもあるのです。私たちはまさにキリスト者であるのです(使徒11:26)。そして、そのような私たちに、聖書はすべてはあなたのものであると語るのです。私たちが聖霊の導きによって「イエスは主である」と告白し、キリストのものとなるとき、私たちはすべてのものから解き放たれて自由な者とされるのです。人間の指導者たちも、世界も、生も、死も、現在のことも、将来のことも、私たちに支配し、所有することはできません。なぜなら、私たちはすべてを御手の内に握っておられるキリストのものであるからです。キリストが私たちのために十字架にかかって、私たちを御自分のものとして贖ってくださったゆえに、私たちはキリストのものとされたのであります。そして、私たちはキリストのものであるがゆえに、神のものであるのです。私たちはキリストにあって、すべてを造り、すべてを所有しておられる神のもの、神の民とされているのです。

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