イエス・キリストという土台 2011年8月28日(日曜 朝の礼拝)
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イエス・キリストという土台
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 3章10節~17節
聖書の言葉
3:10 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。
3:11 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。
3:12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、
3:13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。
3:14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、
3:15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
3:17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。コリントの信徒への手紙一 3章10節~17節
メッセージ
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パウロは前回学んだ9節で、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と語りました。パウロは教会を神の畑にたとえて、「わたしは植え、アポロは水を注いだ、しかし、成長させてくださったのは神です」と語ったのであります。今朝の御言葉では、パウロは神の建物である教会について教えております。
10節から11節までをお読みします。
わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。
使徒言行録の第18章に、パウロがコリントに一年六ヶ月間とどまり、人々に神の言葉を教えたと記されております。パウロはその働きを「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」と言い表しています。パウロが神様からいただいた恵み、それはイエス・キリストの使徒とされた恵みであります(15:10参照)。復活の主イエス・キリストにまみえ、使徒とされた恵みにより、パウロは熟練した建築家のように土台を据えたのです。パウロは神様によって召し出された者たちである教会を建物にたとえて語っているわけです。教会と翻訳されるギリシャ語のエクレーシアは元々は「召し出された者たち」を意味します。私たちは教会と聞きますと、十字架を掲げている建物を思い浮かべますけれども、教会とは建物のことではなくて、神によって、主イエス・キリストとの交わりに召し出された者たちのことを言うのです(1:9、使徒信条参照)。少し難しく言いますと、イエス・キリストにある礼拝共同体がエクレーシア、教会であります。ここで「熟練した」と訳されている言葉は、「賢い」「知恵のある」とも訳すことができます。パウロはこれまで「知恵」について語ってきましたけれども、そのテーマがここでも続いているのです。また「建築家」とは「建築者の長官」を表す言葉で、設計から現場監督までこなす建築家のことであります。パウロは神様の恵みによって、知恵のある建築家として、教会の土台を据えたのです。パウロは、自分の働きを教会の土台を据えることであると考えていたようです(ローマ15:20参照)。パウロは土台をしっかり据えれば、その建物はしっかりと立ち続けると考えたのでありましょう。パウロはイエス・キリストの使徒として、熟練した建築家のように土台を据えて、あとの働きを他の人に委ねたのであります。しかし、それは他の人が自由に建てて良いというわけではありません。それゆえパウロは、「おのおの、どのように建てるかに注意すべきです」と語るのです。では、パウロが神の恵みによって、熟練した建築家のように据えた土台とは何でしょうか。それはイエス・キリストという土台であります。神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたイエス・キリスト、十字架につけられたイエス・キリストであります。教会は建物にたとえるならば、イエス・キリストという土台の上に建てられているのです。そして、このことはイエス様御自身の決意でもあります。マタイによる福音書の第16章で、イエス様は、弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。すると、ペトロが弟子たちを代表して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。するとイエス様はこう言われるのです。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。イエス様は、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。この岩とはペトロが告白した「あなたこそメシア、神の子です」という信仰告白のことであります。イエス様はそのように告白するペトロたちのうえに御自分の教会を建てられたのです。使徒言行録の第2章にあるペンテコステの記事を読めば、歴史の事実として、そのようになったことが分かります。そもそも、「イエス・キリスト」とは「イエスはキリスト(救い主)である」という信仰の告白でもあります。「十字架につけられたナザレのイエスはキリストである」。この信仰告白を土台として教会は建てられているのです。ですから、だれも既に据えられている土台を無視して、他の土台を据えることはできません。イエス・キリストという土台を無視して、他の土台を据えるならば、それはもはや神の教会ではないのであります。私たち羽生栄光教会も、ある意味で、パウロによってイエス・キリストという土台を据えられた教会であると言えます。それは私たちの教会においても、パウロが記した手紙が読まれ、説教されてきたからであります。パウロの手紙が新約正典となることにより、パウロは全世界の教会の土台を据える者となったのです。
12節から15節までをお読みします。
この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明かにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いをうけますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者にように、救われます。
ここでの「だれか」とはだれでしょうか?パウロの後にコリントで宣教したアポロだと考える人もいますが、アポロは今コリントにいないのでそうではありません(16:12参照)。ここでの「だれか」は今、コリントの教会を指導している者たちのことであります。またここで「金、銀、宝石、木、草、わら」といくつかの材料があげられていますが、一つ一つの意味を問うてみてもあまり意味はないようです。むしろ貴い建物に用いられるグループと普通の建物に用いられるグループの2つに分けることが有益です(二テモテ2:20参照)。「金、銀、宝石」が貴い建物に用いられる材料であり、「木、草、わら」は普通の建物に用いられるグループと言うことができます。16節に「神の神殿」という言葉がでてきますが、「金、銀、宝石」は神の神殿の材料にふさわしいものと言えます。また、「金、銀、宝石」のグループは、火の吟味に耐え得るものとしてどうやら考えられているようです。それに対して、「木、草、わら」は燃えやすく、火の吟味に耐え得ないものとして記されているようであります。では、「金、銀、宝石」は何を指すのでしょうか?それは土台であるイエス・キリストにふさわしい材料である十字架の言葉を指しています。それに対して、「木、草、わら」は、イエス・キリストという土台にふさわしくない材料であるこの世の知恵を指しています。パウロが据えましたイエス・キリストという土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てるのですが、しかし、そのおのおのの仕事は明るみに出されます。それは、いつかと申しますと、天におられるイエス・キリストが再び来られるかの日、主の日においてであります。ここでパウロは、「かの日が火と共に現れ」と語っておりますが、この火は主イエス様の裁きを象徴的に表しています。主の日は燃える火と共に来る。このことをはっきりと記しているのが預言者マラキであります。旧約聖書のマラキ書第3章19節こはこう記されています。「見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない」。パウロはこのマラキの言葉を背景にして、「その日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです」と語るのです。パウロは前回学んだ8節で、「植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受けとることになります」と語りましたが、14節、15節では神の働き人の報酬について教えています。「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば損害を受けます」。ここから教えられますことは、土台の上に家を建てる者は、その土台にふさわしい言葉で教えなければいけないということであります。この世の知恵ではなくて、十字架の言葉を語らなくてはいけないのです。これはコリント教会の指導者たちへの警告とも読むことができます。コリントの教会は、パウロが一年六ヶ月にわたって、イエス・キリストという土台を据えた教会でありました。しかし、その教会において、ねたみと争いが絶えなかったわけです(3:3参照)。なぜ、そのようになってしまったのか。土台の上に建てる者たちが、イエス・キリストという土台にふさわしくない材料を用いて建てているからなのです。つまり、イエス・キリストという土台のうえに、この世の知恵で家を建てようとしているのです。しかし、そのような働きは主の裁きに耐え得ず、燃え尽きてしまい、その人は損害を受けることになるとパウロは語るのです。「損害を受ける」とは、「働いたにも関わらず報酬を受けることができない」ということです。しかし、その人は滅んでしまうわけではありません。その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように救われるます。これは命からがら救われるということであります(アモス4:11参照)。イエス・キリストはその人を働きのゆえではなく、信仰のゆえに救ってくださるのです。
16節から17節までをお読みします。
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なる者だからです。あなたがたはその神殿なのです。
ここでの「あなたがた」は明らかにコリントのすべての信徒たちであります。そうしますと、これまで語ってきたことは、指導者たちだけではなくて、信徒一人一人についても言えることが分かります。もちろん、イエス・キリストという土台のうえに教会を建てることは、御言葉を語る教師にその第一の責任がありますけれども、長老、執事、さらには信徒一人一人にもその責任が問われるのです。パウロは第12章で、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と述べていますが、すべての信徒がそれぞれ与えられた分に応じて教会を建てているのです。パウロは、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と述べていますが、ここで「神殿」と訳されている言葉は、境内を含めた広い意味での神殿ではなくて、聖所と至聖所を有する神殿本体のことであります。また、「あなたがたは」と二人称複数形で記されているのに対して、「神殿」は単数形で記されていることから、教会全体が一つの神殿であると言われていることが分かります。パウロは第6章で、信徒一人一人が神の霊の住まう神殿であると教えておりますが、ここでは召された者たちの只中に神が聖霊において御臨在してくださることが言われているのです。このことを分かりやすく記しているのは、第14章24節、25節であります。そこにはこう記されています。「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされて、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう」。イエス・キリストの名によってささげられる礼拝において、神様は御臨在してくださり、私たちを祝福し、御自分の命にあずかる者としてくださいます。教会という建物に、神様が住んでおられるのではありません。私たちが神様によって主イエス・キリストとの交わりに召された者たちであるがゆえに、私たちがささげる礼拝の只中に、神様は聖霊において御臨在してくださるのです(出エジプト記33章の臨在の幕屋参照)。私たちはそのことを信じて、今朝もこのように礼拝をささげているのです。
パウロは17節で、「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう」と記していますが、ここでの「壊す」と「滅ぼす」は元の言葉は同じです。パウロは「神の神殿を滅ぼす者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう」と述べているのです。これは「目には目を、歯には歯を」と言われる同害報復法であります。神の神殿を滅ぼす者は、そのふさわしい罰として、神に滅ぼされるのです。パウロが「神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」と言うとき、コリントにある聖徒の交わりを破壊する者が、どれほど重い罰を受けねばならないかが警告されています。互いにねたみ、争うこと。これらも神の神殿であるコリントの教会を破壊する行為であるのです。以前に、東部中会の長老会で出した「牧会事例研究」という冊子についてお話したことがありますが、そこで、教会を損なう原因として多いのは、教師と長老との争いであり、長老と長老との争いであり、信徒と信徒との争いであります。教会の中でねたみと争いが絶えない。それは神の神殿を破壊する行為であり、自らをも滅ぼす行為であるのです。わたしは思うのですが、コリントの教会にねたみと争いが絶えなかったのは、指導者たちが土台であるイエス・キリストにふさわしい十字架の言葉を語っていなかったからだと思います。なぜ、コリントの信徒たちの間にねたみや争いが絶えなかったのか?それは指導者たちが自らを誇り、世の知恵を語っていたからです。
イエス・キリストという土台の上に、神の裁きに耐え得る家を建てるには、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストが語られ、聞かれる必要があります。そのことを私たちは心に留めて、神の裁きに耐え得るキリストの教会を御一緒に建ててゆきたいと願います。