成長させてくださる神 2011年8月21日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 3章1節~9節
聖書の言葉
3:1 兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。
3:2 わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。
3:3 相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
3:4 ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。
3:5 アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。
3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
3:8 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。
3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。コリントの信徒への手紙一 3章1節~9節
メッセージ
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今朝はコリントの信徒への手紙一第3章1節から9節より、御一緒に御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節から2節前半までをお読みします。
兄弟たち、わたしはあなたがたには霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまりキリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。
ここにはパウロがかつてコリントで福音を宣べ伝えたときのことが記されています。ここに「霊の人」とありますが、第2章15節に「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません」とありました。第2章12節によれば、「霊の人」とは「神からの霊を受けて、神から恵みとして与えられたものを知るようになった人」のことであります。しかし、パウロはコリントにおいて福音を宣べ伝えたとき、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語ったのです。ここでの「肉の人」とは第2章14節の神の霊を受けていない「自然の人」のことではなくて、「キリストとの関係では乳飲み子である人々」のことを指します。パウロがコリントで福音を宣べ伝えたことは使徒言行録の第18章に記されておりますが、パウロはコリントにおいてキリストの福音を宣べ伝えた最初の人でありました。ですから、霊の人であるキリスト者はまだ一人もいないのです。そのような地において、パウロが霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語ったことはむしろ当然のことであります。むしろ問題なのは、今でもコリントの信徒たちが固い食物を口にすることができないということなのです。
2節後半から3節までをお読みします。
いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
パウロがコリントで福音を宣べ伝えたのは紀元51年頃であり、この手紙が執筆されたのは紀元55年頃でありますから、コリントの信徒たちがイエス・キリストを信じて、4年ほどが経っておりました。4年ほど経てば、乳飲み子も幼児となり固い食物を口にしますが、パウロはコリントの信徒たちが今でも固い食物を口にすることができないと嘆いています。4年ほど経った今でも、コリントの信徒たちはキリストとの関係において乳飲み子であると言うのです。なぜなら、コリントの教会では、お互いの間にねたみや争いが絶えないからです。コリントの信徒たちはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされている者たちでありました。そのことは第1章5節でパウロが記していたとおりであります。コリントの信徒たちは、自分たちは信仰に成熟した者たちであり、霊の人であると考えていたのです。しかし、パウロは「お互いの間にねたみや争いが絶えない」という点にから、「あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」と問いかけるのです。この問いは肯定的な答えを期待する問いであります。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、コリントの信徒たちは肉の人であり、ただの人として歩んでいることになるのです。ここで「肉の人」の持つ意味合いがより厳しいものとなっています。1節の「肉の人」は、キリストとの関係では乳飲み子である人々でありました。ここでの肉の人も神の霊を受けた人であったわけです。産まれたばかりでありましたけれども、それは神の霊によって産まれたのです。しかし、3節の「肉の人」は、ただの人、神の霊を受けていない自己中心的に生きているただの人なのです。このパウロの言葉は先々週に学びました第2章16節を思い起こすならば、よくお分かりいただけると思います。そこでパウロはこう述べておりました。
「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
主の思いを知るとは、キリストの思いを抱くことであります。神の霊を受けるとはキリストの霊、それも十字架につけられたキリストの霊を受けることであるのです。このことからわたしは、「霊の人とは、キリストの思いを抱き、へりくだって他者に仕える者を言うのだ」と申しました。霊の人とは知識に優れている人や神秘的な体験をした人のことではなくて、キリストの思いを抱き、へりくだって他者に仕える者のことを言うのです。そうであれば、コリントの信徒たちの間にねたみや争いが絶えない以上、彼らはキリストの霊の導きではなく、自分の欲望に従って生きているただの人に過ぎないのです。
4節をお読みします。
ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。
パウロはコリントの信徒たちの間に起こっているねたみや争いの具体例として、クロエの家の人たちから知らされた争いについて言及しています。第1章11節、12節にこう記されておりました。
わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。
今朝の御言葉ではパウロとアポロしか出てきませんが、それはこの二人がコリント教会に直接関わった者であり、論点を明らかにするためでありましょう。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」という言葉を読んで、まだこの話が続いていたのかと思われるかも知れませんが、第1章10節から始まった「一致の勧め」は実は第4章21節まで続いています。パウロは4章に渡って、コリントの信徒たちが固く結び合うことができるように、言葉を尽くして語っているのです。
コリントの信徒たちは御言葉の教師であるパウロとアポロを旗印にかかげ、争っておりました。御言葉の教師と自分たちを結びつけて党派を結成し、互いにねたみ、争っていたのです。なぜ、そのようなことが起こったのでしょうか?その一つの原因は彼らが御言葉の教師について正しく理解していなかったからであります。パウロは自分とアポロを例にあげて、御言葉の教師に対する正しい理解をコリントの信徒たちに教えるのです。
5節から7節までをお読みします。
アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
「わたしはパウロのものだ」「わたしはアポロのものだ」と主張する者たちに対して、パウロは、「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か」と問いかけます。あなたたちはアポロがまたパウロが何者かを知って、自分はアポロにまたパウロにつくと言っているのかと問うのです。コリントの人々が旗印に掲げているアポロもパウロも、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者にすぎないのです。アポロもパウロも、主にお仕えする者(ディアコノス)にすぎないのです。そのことをパウロは農業にたとえてこう語ります。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」。使徒言行録の記述を見ますと、パウロがコリントを去った後、アポロがコリントで宣教しました。よって、コリントの教会はパウロによって植えられ、アポロによって水を注がれた教会であったのです。しかし、パウロはここで成長させてくださった神様にコリントの人々の関心を向けさせようとします。農作物の実りをもたらすのが神様であるように、教会を成長させてくださるのも神様であるのです。よって、大切なのは植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神様であるのです。植える者も、水を注ぐ者も神様が用いられる器であり、目を注ぐべきは成長させてくださる神様であるのです。
8節、9節をお読みします。
植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。
植える者と水を注ぐ者は主に仕える者として一つであり、それは争う者ではありません。パウロとアポロを旗印にして争うことはまったくの誤解に基づくことなのです。そして、主に仕える者の報酬はただ主から与えられるものなのです。コリントの信徒たちの人気や評判によって報酬が決まるのではなくて、すべてをご存じの主が、それぞれの労苦に報いて報酬をくださるのです。このパウロの言葉は、諸国を旅して教えを宣べ伝え、それによって名誉と金銭を得ていた哲学教師や宗教教師を念頭に置くと、よく分かると思います。当時は、諸国を旅して教える遍歴教師がおり、彼らはその教えによって名誉と金銭を得ていたのです(一テサロニケ2:3,5,6参照)。そもそもコリントの教会において、わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつくと言った党派争いが生じたのも、パウロやアポロを遍歴教師と同じように考えたからであったのです。しかし、パウロは、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者である」と語るのです。パウロとアポロは、神のために力を合わせて働く同労者であるのです。そして、コリントの信徒たちは、パウロの畑でも、アポロの畑でもなく、神の畑であるのです。
この手紙は、エフェソで記されたと考えられておりますが、実はこの手紙が記されたとき、パウロのそばにアポロもいました。第16章12節にこう記されています。
兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたのところへ行くようにと、しきりに勧めたのですが、彼は今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。
アポロも、コリントの信徒たちの争いの旗印にかかげられていたことに、どうやら閉口していたようです。アポロは、「わたしはアポロにつく」と言う者たちがいるコリントの教会に行こうとしませんでした。それは神に仕える者としては当然の判断であったと思います。神に仕える者は成長させてくださる神のみが誉めたたえられることを願う者であるからです。
今朝の御言葉を現代の私たちにそのまま当てはめるのにはいくつか難しい点があります。私たちの教会は、各個教会が牧師を招く招聘制度を取っておりますが、コリントの教会には招聘制度はありません。コリントの教会の初代牧師はパウロであり、二代目の牧師がアポロであったと言うわけではないのです。むしろ、パウロとアポロは共にコリントの教会に関わり続けていたのです。私たちの教会は、これまで嘉成公悦先生、今井献先生、矢内昭二先生と3人の御言葉の教師に奉仕していただきました。しかし、私たちの教会において、「わたしは嘉成先生につく」「わたしは今井先生に」「わたしは矢内先生に」と争いが起こらなかったのは、私たちの教会が牧師を招く招聘制度を取っており、牧会関係は教師が教会を去る時点で終わりを迎えるからです。私たちの教会の制度では、前任者の牧師が牧師として教会に関わり続けることはないわけです。しかし、コリントの教会はパウロとアポロが共に教会に関わっていたのであります。このようにコリントの教会と私たちの教会を同じように語ることは難しいのですが、「パウロは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださるのは神である 」という御言葉は、私たちにもそのまま当てはめることができると思います。私たちの教会の歴史から言えば、「嘉成先生は植え、今井先生と矢内先生は水を注いだ」となるでしょうか?その後のわたしも水を注いでいると言えます。しかし、成長させてくださるのは神様なのです。神様が御言葉の教師たちを用いて、羽生栄光教会を成長させてくださったし、これからも成長させてくださるのです。教会の成長とは、ただ人数が増えるということだけではありません。今日の御言葉で言えば、私たち一人一人が固いものを食べることができるようになるということです。妬まず、争わずに、主にあって堅く結び合うということであります。そのような教会へと御言葉の教師を用いて、神様が成長させてくださるのです。それゆえ私たちは誰々先生の教会ではなくて、神様の教会であるのです。