霊と力の証明 2011年7月24日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。
2:2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
2:3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
2:4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
2:5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。コリントの信徒への手紙一 2章1節~5節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はコリントの信徒への手紙第2章1節から5節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節をお読みします。

 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。

 新約聖書はもともとギリシャ語で記されておりますが、元の言葉を見ますと、最初にある言葉は、「わたしもまた」(カゴー)という言葉であります。「わたしもまた」という言葉から、1節は書き始められているのです。岩波書店からでている翻訳聖書はこのところを次のように訳しています。「私もまた、あなたがたのところに行った時、兄弟たちよ、言葉の、あるいは知恵の卓越さとは異なる仕方で〔あなたがたのところに〕行って、神の奥義をあなたがたに宣べ伝えた」。このように、「わたしもまた」という言葉が、最初に来ているわけです。このことは、今朝の御言葉がこれまで語られてきた脈絡の中で語られていることを示しています。前回学んだことでありますが、神様はイエス・キリストとの交わりに、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれました。それは、すべての肉が、神の前で誇ることがないようにするためでありました。神様は私たちをキリスト・イエスに結びつけられ、キリストはわたしにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられました。そのようにして、「誇る者は主を誇れ」と書いてある聖書の御言葉は実現するものとなったのです。そのことを受けて、パウロは、「わたしもまた」と語り出すのです。パウロはコリントの信徒たちが召されたときのことを語りましたけれども、今朝の御言葉では、「わたしもまた」と自分がコリントでどのようにして御言葉を宣べ伝えたかを思い起こさせようとするのです。

 パウロは、コリントの信徒たちのもとへ行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。ここでの「優れた言葉」とは「雄弁術」のことであります。また「知恵」とは「哲学」のことであります。ギリシャ人であるコリントの人たちは雄弁術や哲学に夢中になっておりました。しかし、パウロは彼らが好む雄弁術や哲学を用いて、神の秘められた計画を宣べ伝えることはしませんでした。ここで「秘められた計画」と訳されている言葉は「ミュステーリオン」であり、「奥義」とも「神秘」とも訳されます。パウロは神様の奥義、神秘を宣べ伝えるのに、人間の雄弁や哲学を用いませんでした。パウロはコリントの信徒たちが「人間的には知恵のある者が多かったわけではない」と語りましたが、パウロが宣べ伝えたのは、人間の知恵の言葉ではありませんでした。そしてそれはパウロの堅い決意によるものであったのです。

 2節をお読みします。

 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。

ここにはコリントに入るにあたってのパウロの決意が記されています。パウロは、ギリシャの大都市コリントにおいて、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外は、何も知るまいと心に決めていたのです。それは神の秘められた計画が、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストを内容とするものであるからです。新改訳聖書を見ますと、1節の「神の秘められた計画」という言葉が「神の証し」と記されています。「秘められた計画」と訳されるギリシャ語は「ミュステーリオン」であり、「証し」と訳されるギリシャ語は「マルトゥーリオン」であります。「ミュステーリオン」と「マルトゥーリオン」、発音が似ておりまして、写本によって異なるわけです。新共同訳聖書は「ミュステーリオン」と記されている写本を採用し、新改訳聖書は「マルトゥーリオン」と記されている写本を採用したのです。わたしは「神の証し」と記している写本があることも覚えておいてよいと思います。なぜなら、イエス・キリストというお方は、この地上に実在されたお方であり、キリストの十字架はローマの総督ポンテオ・ピラトのときに起こった歴史的出来事であるからです。神様の奥義は、優れた言葉や知恵による論理体系ではなく、実際に起こった出来事を内容とするのです。神の奥義を宣べ伝えるとは、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストを証しすることであるのです。その神の証しの内容そのものが、人間の優れた言葉や知恵を用いて伝えられることを拒絶するのです。

 3節をお読みします。

 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。

 この3節も実は、「わたしもまた」(カゴー)という語から始まります。岩波書店からでている翻訳聖書は3節を次のように訳しています。「私もまた、弱さと、そして恐れと、そして多くのおののきの中にあって、あなたがたのところに行ったのである」。パウロは3節を「わたしもまた」と書き出しました。これは「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」を受けてのものであります。「十字架につけられたキリストと同じように、わたしもまた弱く、恐れ、おののいていた」とパウロは語るのです。「そちらに行ったとき」とありますが、これは1節とは違う言葉でありまして、「あなたがたと一緒にいたとき」と訳すことができます(新改訳)。パウロは、コリントに入った時だけではなく、コリントの信徒たちと一緒にいたとき、弱く、恐れ、おののいていたのです。ある人は使徒言行録の記述から、アテネでの宣教の失敗やコリントにおけるユダヤ人たちの迫害のために、パウロは弱く、恐れ、おののいていたのだろうと説明していますが、わたしはここでパウロが言いたいことはそのようなことではないと思います。パウロはコリントの信徒たちに十字架の言葉を宣べ伝える自分の姿を思い起こしてもらおうとしているのです。そして、このパウロの態度は、コリントの人々が好んだ雄弁家とは全く違うものでありました。雄弁家は自信をもって胸を張って堂々と語ったと思います。しかし、パウロは自分の弱さを隠すことなく、神様の御前に恐れおののきながら、十字架の言葉を語り続けたのです。そして、それは十字架の言葉を宣べ伝える者にふさわしい態度であったのです。神の奥義である十字架につけられたキリストという内容が、それを語る語り口を規定したように、それを語る者のあり方をも規定するのです。

 4節、5節をお読みします。

 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵に溢れた言葉によらず、霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

 パウロは自分の言葉も宣教も、知恵に溢れた言葉によらず、霊と力の証明によるものであったと語っています。新共同訳聖書は、訳出しておりませんが、もとの言葉を見ますと、「説得力のある」という言葉が記されています(新改訳参照)。パウロは説得力のある知恵の言葉によらず、霊と力の証明によって宣教したのです。ここでの「霊と力の証明」とは、パウロがなした不思議な業、病の癒しなどのことを言っているのではありません。第2章全体を読むとお分かりのように、ここでの霊と力の証明とは、聖霊なる神様が十字架の言葉を通してなしてくださる内的証言のことであります。人間の知恵の言葉が説得するのではなく、十字架の言葉を通して働く聖霊が聞く人の心を説得して、受け入れさせてくださるのです。パウロは十字架の言葉を通して働く聖霊のお働きを信じて、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストを告げ知らせたのです。しかし、なぜ、パウロは十字架を通して神の霊が働いてくださると信じることができるのでしょうか?それは十字架の言葉が神の証しであるからです。わたしは先程、「神の隠された計画」という言葉は、新改訳聖書では「神の証し」と記されていると申しましたけれども、十字架の言葉が神の証しであるから、パウロは十字架の言葉を通して神の霊が証ししてくださることを信じ、愚直なまでに十字架の言葉を語り続けることができたのです。十字架の言葉は、十字架につけられたナザレのイエスこそ、キリスト・救い主であることを語ります。また、キリストの十字架が私たちの罪の身代わりであることを語ります。さらには、十字架につけられたキリストを救い主として受けいれる者は、すべての罪が赦され、神の御前に正しい者とされ、神の祝福の中に生きる者とされることを語ります。これがパウロが宣べ伝えた十字架の言葉でありますけれども、しかし、それを聞いた人が受け入れるのは何によるのでしょうか?語る者の説得力のある知恵の言葉によるのでしょうか?そうではありません。御言葉を通して働く聖霊の力ある証明によって、私たちは十字架の言葉を、愚かな言葉ではなく、私たちを救う神の力として聞くことができたのです。パウロが優れた言葉や知恵を用いず告げ知らせたのは、聖霊の力ある内的証言のお働きをいよいよ鮮明にするためでありました。パウロは優れた言葉や知恵を用いず、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストを宣べ伝えることにより、キリストを信じたコリントの信徒たちが、ただ神によって信じたことが明らかとなるのです。私たちはイエス・キリストを信じる信仰においても自分を誇ることはできません。私たちは御言葉と共に働く聖霊の力あるお働きによって、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストを信じる者たちとされたのです。

 言葉と霊の一体的なお働きについては、以前お話したことがありますが、また繰り返しておきたいと思います。「霊」と訳される言葉は「息」とも訳すことができます。ヘブライ語でもギリシャ語でも霊は息と訳すことができる。私たちは神の言葉である聖書をそれぞれに手にしておりますが、昔はそうではありませんでした。会堂に一冊、巻物のかたちで保管され、礼拝者は御言葉が読まれるのをただ聞いたのです。御言葉とは本来、語られるものであり、聴かれるものであるのです。私たちが言葉を発するときに、必要なことは息をするということです。息をしないで言葉を発することはできません。このことを念頭に置くとき、神の言葉と神の霊の一体的な関係についてよくお分かりいただけると思います。パウロは、コリントの人々が聴きたがる、優れた言葉や知恵を用いませんでした。パウロは優秀な人ですから、そのようにすることもできたと思います。しかし、パウロはそのような道をとりませんでした。むしろ、神の奥義であるイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストに集中し、素朴に宣べ伝えたのです。それは御言葉を聴いた者たちが、人の知恵によってではなく、ただ神の力によって信じるようになるためであったのです。ある人は、「5節の主語は、パウロというよりも神様である」と述べておりました。わたしもそのとおりであると思います。神様御自身が、私たちが人間の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになることを望まれたのです。私たちの信仰が霊の力と証明によるものであることを知るとき、私たちは神様の御前に文字通り誇るものは何一つないことが分かります。そして、イエス・キリストを信じる信仰が揺るぎない確かなものであることが分かるのです。もし、私たちが説得力のある知恵の言葉のゆえに、信じたのであれば、もっと説得力のある知恵の言葉を聞いたとき、私たちの信仰は失われていまいます。けれども、神様の力によって、聖霊の力ある証しによって信じたのであれば、それは私たちのうちに起こった神の御業であるのです。ヨハネによる福音書第6章29節で、イエス様はこう言われています。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。「神がお遣わしになった者」とは他でもないイエス様ご自身のことです。イエス・キリストを信じること、それが神の業であるとイエス様は言われるのです。また、パウロはフィリピの信徒への手紙第1章6節でこう語っています。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。神様が私たちの中で始めてくださった善い業とはイエス・キリストを信じる信仰のことであります。このように私たちは御言葉と共に働く、神の霊の力ある証明によってイエス・キリストを信じる者たちとされたのです。そのようにして、今度は私たちがイエス・キリストを宣べ伝える者たちとされているのです。御言葉を通して聖霊がお働きくださり、イエス・キリストを信じる者たちを起こしてくださる。それゆえ私たちは優れた言葉や知恵を用いることなく、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストを宣べ伝えてゆきたいと願います。自分の弱さを隠すことなく、神様の御前に恐れおののきながら、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストを宣べ伝えてゆきたいと願います。そのとき、私たちはキリストを信じるようになった者を前にして、自らではなく、ただ主を誇ることができるのです。

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