誇る者は主を誇れ 2011年7月17日(日曜 朝の礼拝)
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誇る者は主を誇れ
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙一 1章26節~31節
聖書の言葉
1:26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
1:27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
1:29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
1:30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。コリントの信徒への手紙一 1章26節~31節
メッセージ
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今朝はコリントの信徒への手紙一第1章26節から31節より、御言葉の恵みにあずかりたいと思います。
26節の前半をお読みします。
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。
パウロはコリントの信徒たちを「兄弟たち」と呼びかけ、「あなたがたの召されたときのことを、思い起こしてみなさい」と語ります。これは元の言葉を直訳すると、「あなたがたの召しを見よ」となります。パウロは第1章9節で、「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」と述べておりました。コリントの信徒たちは神様によって主イエス・キリストとの交わりに召された者たちであったのです。「兄弟たち、神様があなたがたを召してくださったその行為をよく見なさい」とパウロは言っているのです。神様があなたがたを召してくださった行為は、教会に集っている信徒たちによって具体的に見ることができるのです。このことは私たちにおいても言えます。自分を含めたここにいる者たちを見ることによって、神様の私たちに対する召しがどのようなものであったかを見ることができるのです。神様の召しは目に見える具体的なものであります。神様によって主イエス・キリストの交わりに召された者は、キリストの体である教会の一員として信仰生活を送るようになるのです。私たちが用いている新共同訳聖書は、「思い起こしてみなさい」と訳しておりますから、自分が入信した昔のことを言っているかのように読めますが、パウロは言いたいことはそうではないと思います。今、イエス・キリストの名のもとに集まっているあなたがた、神によってそれぞれに召されたあなたがたの姿をよく見てみなさい。そうすれば、神様がキリストの十字架によって、世の知恵を愚かなものとされたことがよく分かるであろうとパウロは語っているのです。
26節の後半をお読みします。
人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
新共同訳聖書は、「多かったわけではなく」、「多かったわけでもありません」と過去形に訳していますが、これは26節の前半の「思い起こしてみなさい」という翻訳に合わせたものと思われます。けれども、ここは過去形で訳すべきではないと思います。なぜなら、このパウロの言葉は、コリントの教会の現状を表すものであるからです。コリントの教会は、今、現に、人間的に見て知恵のある者が多くはなく、能力のある者や、家柄のよい者が多くはないのです。それは見ることのできる、否定することのできない事実であるのです。ここで、「人間的に見て」と訳されている元の言葉は直訳すると、「肉に従って」となります。「肉」は「人間」を意味しますから、この翻訳でよいのですが、しかし、そこには神様によって造られた被造物としての意味合いが込められていることを指摘しておきたいと思います。「神様によって造られた人間の基準に従っても」という思いがここには込められているわけです。コリントは、アカイア州の首都であり、交通の要衝で栄えた港町でありましたが、人口60万人のうち、自由人が20万人で奴隷が40万人であったと言われています。人口の三分の二が奴隷であったわけですから、教会にも多くの奴隷がいたと思われます(7:17~24参照、11:22参照)。コリントの教会は、知恵のある者が多くはなく、力ある者が多くはなく、家柄のよい者が多くはありませんでした。しかし、「多くはない」ということは全くいなかったということではありません。14節でパウロは、クリスポとガイオに洗礼を授けたことを述べておりましたが、クリスポは、ユダヤ人の会堂長で社会的身分の高い人でありました。また、ガイオもローマ書の第16章23節によれば、コリントの教会全体を世話しておりましたから力のある裕福な者であったと思われます。コリントの教会にも知恵のある者、能力のある者、家柄のよい者がおりましたけれども、多くはそうではなかったのです。これは、人間的に考えれば不思議なことでありますね。人間の組織であれば、知恵のある者、能力のある者、家柄の良い者だけを集めると思います。そのことは、企業がどのような人を採用するかを考えるならばすぐ分かります。しかし、神様が召された者の多くは、そうではなかったのです。
27節、28節をお読みします。
ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
コリントにある神の教会の信徒たちは知恵ある者は多くはなく、能力のある者や家柄の良い者も多くはありませんでした。現代的に言えば、学歴の高い者は多くはなく、権力のある者も多くはなく、社会的地位のある者も多くはなかったのです。そして、それはそのまま羽生にある神の教会である私たちにおいて言えることなのです。なぜ、神様はそのようにされたのでしょうか?パウロは、「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれた」と語ります。「恥をかかせる」と訳されている言葉は、口語訳聖書、新改訳聖書では「はずかしめる」と訳されています。神様は知恵のある者、自分の知恵に依り頼み、誇る者をはずかしめるために、世の無学な者を召されたのです。ここでの「選ばれた」は「召された」と同じ意味です。また、権力ある者、自分の権力に依り頼み、誇る者をはずかしめるために、世の無力な者を召されたのです。また、神様は社会的に地位のある者を無力な者とするために、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を御自分の民として召されたのです。このような神様のなさり方は、旧約時代のイスラエルにおいても見ることができます。旧約聖書の申命記第7章6節から8節にこう記されています。
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもって、あなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
また、このような神様のなさり方は、イエス様においても見ることができます。イエス様は弟子たちの中から12人を選ばれ、使徒と名付けられましたが、そこには漁師たちや徴税人や熱心党員がおりました。使徒の筆頭であるペトロやヨハネも、最高法院の議員からすれば、「無学な普通の人」であったのです(使徒4:13)。ですから、私たちの教会に学歴が高い者が多くはなく、権力のある者が多くはなく、社会的身分の高い者が多くはないことは、神様の召しによることなのです。私たちは自分たちが神の民に到底ふさわしい者たちと言えないと思うかも知れませんが、それは神様がそのような私たちを選び、イエス・キリストとの交わりに召してくださったゆえであるのです。なぜ、神様はそのようななさり方をするのでしょうか?29節にはその究極的な目的が記されています。
それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
ここで「誇る」という言葉が出て来ます。「誇る」とは「頼る」ということです。詩編の第49編7節に、「財宝を頼みとし、富の力を誇る者を」とありますが、「誇る」とは言い換えれば「自分の何かを頼みとする」ことであるのです。もし、神様が地位のある人だけを選ばれたとしたら、どうでしょうか?選ばれた人は、自分は地位があるから召されたのだと、神様の御前においても自分の地位を誇ることでしょう。神様の御前に立つとき、自分の地位を拠り所として立とうとするのです。しかし、神様は実際には、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれました。それはそのような者たちは、神様の御前に何一つ誇るものがないからです。そして、神様はそのようにして、地位のある者を御前に無い者とし、世の無い者たちを御前にある者としてくださったのです。個人的なことを申しますが、わたしは中学生ぐらいのとき、自分が死んでも世の中は何も変わらないのだなぁと考えて、寂しく思ったことがあります。それはパウロが言う、「世の無に等しい者」ということでありましょう。しかし、神様はそのようなわたしを選んでくださり、イエス・キリストの交わりに召してくださったのです。わたしだけではありません。ここに集う皆さんお一人お一人を召してくださり、キリストにあってある者としてくださった。アダムの堕落のゆえに失われていた私たちを、神様はキリストにあって見いだし、御自分の民、さらには御自分の子としてくださったのです。パウロはその神様の一方的な恵みを30節にこう記しています。
神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
世の無に等しい者である私たちにとって、神様の御前に誇るものは何一つありません。自分にはこれがあるから、自分にはこれができるからと、自分に依り頼んで神様の御前に立つことができる者は一人もいないのです。しかし、そのような私たちに神様はキリストに結ばれているという誇りを与えてくださったのです。私たちはキリストに結ばれた者として、キリストを拠り所として神様の御前に立つことができるのです。キリストが神の知恵であり、義と聖と贖いとなられたゆえに、私たちは神の知恵に生きる者とされ、神の御前に正しい者、聖なる者、贖われた者として立つことができるのです。そして、神様が与えてくださったキリストのものであるという誇りこそ、私たち人間をいつも健やかに生かしてくださる拠り所なのであります。知恵を誇りとする者も、いつかは年を取って呆けてしまいます。また、権力を誇りとする者も、いつかは権力の座を失うのです。社会的な地位を保ち続けることもできません。ですから、そのような誇りはひとときのものであり、すぐに劣等感や妬みに変わってしまうものなのです。そのような誇りは私たち人間をいつも健やかに生かすものではないのです。けれども、神様によってイエス・キリストに結ばれ、キリストのものにされているという誇りは、私たちを謙遜にさせ、私たちを健やかに生かすのです。なぜなら、キリストは身をもって、私たちが神の御前に価値ある者であることを示してくださったからです。キリストは私たちの罪の身代わりに十字架にかけられることによって、私たちが高価で尊い者、神から愛されている者であることを示してくださったのです。
パウロはキリストが神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのは聖書の言葉が実現するためであったと語ります。31節。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
「誇る者は主を誇れ」、この御言葉は、旧約聖書のエレミヤ書第9章23節からの引用であります。ここでは少し長いですが、9章全体を読みたいと思います。
荒れ野に旅人の宿を見いだせるものなら/わたしはこの民を捨て/彼らを離れ去るであろう。すべて、姦淫する者であり、裏切る者の集まりだ。彼らは舌を弓のように引き絞り/真実ではなく偽りをもってこの地にはびこる。彼らは悪から悪へと進み/わたしを知ろうとしない、と主は言われる。
人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない。兄弟といっても「押しのける者(ヤコブ)」であり/隣人はことごとく中傷して歩く。人はその隣人を惑わし、まことを語らない。舌に偽りを語ることを教え/疲れるまで悪事を働く。欺きに欺きを重ね/わたしを知ることを拒む、と主は言われる。
それゆえ、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしは娘なるわが民を/火をもって溶かし、試す。まことに彼らに対して何をすべきか。彼らの舌は人を殺す矢/その口は欺いて語る。隣人に平和を約束していても/その心の中では、陥れようとたくらんでいる。これらのことをわたしは罰せずにいられようかと/主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる。
山々で、悲しみの嘆く声をあげ/荒れ野の牧草地で、哀歌をうたえ。そこは焼き払われて、通り過ぎる人もなくなり/家畜の鳴く声も聞こえなくなる。空の鳥も家畜も、ことごとく逃れ去った。わたしはエルサレムを瓦礫の山/ユダの町々を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる。
知恵ある人はこれを悟れ。主の口が語られることを告げよ。何故、この地は滅びたのか。焼き払われて荒れ野となり/通り過ぎる人もいない。
主は言われる。「それは彼らに与えたわたしの教えを彼らが捨て、わたしの声に聞き従わず、それによって歩むことをしなかったからだ。」
彼らは、そのかたくなな心に従い、また、先祖が彼らに教え込んだようにバアルに従って歩んだ。それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は言われる。「見よ、わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。彼らを、彼ら自身も先祖も知らなかった国々の中に散らし、その後から剣を送って彼らを滅ぼし尽くす。」
万軍の主はこう言われる。事態を見極め、泣き女を招いて、ここに来させよ。巧みな泣き女を迎えにより、ここに来させよ。急がせよ、我々のために嘆きの歌をうたわせよ。我々の目は涙を流し/まぶたは水を滴らせる。嘆きの声がシオンから聞こえる。いかに、我々は荒らし尽くされたことか。甚だしく恥を受けたことか。まことに、我々はこの地を捨て/自分の住まいを捨て去った。
女たちよ、主の言葉を聞け。耳を傾けて、主の口の言葉を受けいれよ。あなたたちの仲間に、嘆きの歌を教え/互いに哀歌を学べ。死は窓に這い上がり/城郭の中に入り込む。通りでは幼子を、広場では若者を滅ぼす。このように告げよ、と主は言われる。人間のしかばねが野の面を/糞土のように覆っている。刈り入れる者の後ろに落ちて/集める者もない束のように。
主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富みある者は、その富みを誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事。その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。
見よ、時が来る、と主は言われる。そのとき、わたしは包皮に割礼を受けた者をことごとく罰する。エジプト、ユダ、エドム、アンモンの人々、モアブ、すべて荒れ野に住み/もみ上げの毛を切っている人々/すなわち割礼のない諸民族をことごとく罰し/また、心に割礼のないイスラエルの家を/すべて罰する。
22節、23節だけを読んでもよかったのですが、ユダの罪に対する裁きの文脈において語られていることを確認するために、9章全体を読みました。エレミヤは、主の裁きの文脈の中で、「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富みある者はその富みを誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/、目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる」と記したのです。そして、パウロはこの主こそ、主イエス・キリストであるとし、コリントの信徒たちに、また私たちに、「誇る者は主を誇れ」と記したのであります。パウロがキリストの十字架において表された終末的な裁きを念頭においていたことは、このエレミヤ書の文脈からも明かであります。そもそもイエス・キリストの十字架そのものが神の裁きの先取りという終末的な出来事であるのです。十字架の言葉は、人間にすべての誇りを捨てさせ、ただ主イエス・キリストだけを誇りとすることを求めます。十字架のキリストを信じるとは、自分が神の怒りと呪いに値する罪人であることを認めることです。すなわち、人は自分が神の御前に何一つ誇るものがないことを認めて、はじめて十字架につけられたキリストを信じることができるのです。そして、すべての誇りを捨てて神の御前に立つとき、ただ恵みによって、主イエス・キリストという誇りを神様からいただくのです。誇りが無くては人は生きていけないとよく言われますが、その誇りを捨てたときに、不思議な仕方で神様からキリストという誇りが与えられるのです。そのようにしてだけ人は、裁き主である神様の御前に立つことができるのです。
私たちにはキリストという誇りが与えられていることを覚えまして、争うことなく、心を合わせて礼拝をささげ、主の御栄光をこの地であらわしていきたいと願います。