十字架の言葉 2011年7月10日(日曜 朝の礼拝)

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1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」
1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。コリントの信徒への手紙一 1章18節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 週報の表紙にありますように、私たちの教会の年間テーマは「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」、年間聖句は「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」、コリントの信徒への手紙一第1章18節であります。今年もすでに半分が過ぎておりますが、私たちはようやく年間聖句について学ぼうとしているわけです。

 前回私たちは、コリントの教会に内部分裂が起こっていたことを学びました。コリントの信徒たちはそれぞれ、「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言って争っていたのです。そのような争いの一つの原因はコリントの信徒たちが洗礼について誤解していたことにありました。コリントの信徒たちは、自分に洗礼を授けた教師と特別な関係におかれると考えました。それゆえ、パウロは、自分が少数の者にしか洗礼を授けなかったことを神に感謝していると語ったのであります。しかし、それはパウロが洗礼を軽んじていたからではなくて、福音宣教に専心していたためであったのです。なぜなら、パウロによれば、キリストが自分を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなくて、福音を告げ知らせるためであったからです。パウロは17節でこう記しておりました。「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架が空しいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」。「言葉の知恵」とはコリントに住むギリシャ人たちが好んだ「哲学や修辞学」を指すと思われます。パウロは、キリストの十字架が空しいものになってしまわぬように、哲学や修辞学を用なかったと語るのです。なぜなら、キリストの十字架は論理や理屈ではなく、歴史の中で実際に起こった出来事、事実であるからです。キリストの十字架が実際に起こった歴史的事実であるからこそ、そこには私たちを救う力があるのです。18節。

 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

 ここでパウロは、「滅び」と「救い」について語っています。十字架の言葉をどのように聴くかによって、その人が滅びつつあるのか、それとも救われているのかが分かると言うのであります。なぜ、そのように言い切れるのでしょうか?それは十字架の言葉が終末の裁きを先取りするものであるからです。十字架の言葉とは、23節にありますように、十字架につけられたキリストを内容とする言葉であります。イエス・キリストはローマの総督ポンテオ・ピラトによって裁かれ、十字架につけられました。それは同時に、全人類の罪を背負った神の裁きとしての死でもあったのです。それゆえ、十字架の言葉を聞いて愚かなものとするならば、自らの罪のために滅びなくてはなりません。けれども、十字架の言葉を聞いて信じるならば、それはその人に救いをもたらす神の力であるのです

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。パウロはこう言い切りまして、その論拠として、旧約聖書の御言葉を引いてきます。19節。

 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」

 ここでパウロが引用しているのはイザヤ書の第29章14節の御言葉であります。ここでは13節から読んでみたいと思います。

 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」

 パウロは、イザヤが預言した驚くべき業こそキリストの十字架であると語ります。神様は十字架の言葉によって、賢者の知恵を滅ぼし、聡明な者の分別を意味のないものとされるのです(イザヤ53:1参照)。

 では今朝の御言葉に戻ります。

 20節をお読みします。

 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。

 22節に、「ギリシア人は知恵を探しますが」とありますように、ギリシア人は知恵を愛しました。知恵を愛するという言葉から哲学、フィロソフィーという言葉ができたことは良く知られたことであります。ギリシャ哲学と聞けば、ソクラテスやプラトンやアリストテレスといった名前をすぐ思い起こすことができます。そのような哲学の伝統に生きるギリシア人にとって、知恵は誇りと結びついておりました。知恵を誇ることにより、他の兄弟を見下し、争いの原因にもなっていたのです。おそらくコリントの教会にも、知恵を誇る者たちがいたのでありましょう。そのような者たちを念頭に置きつつ、パウロは、「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか」と畳みかけるわけです。ここでの「学者」は、律法学者を指すと多くの人が理解します。コリントの教会には、ギリシア人だけではなくて、ユダヤ人もおりました。例えば、14節のクリスポはユダヤ人でかつては会堂長でありました。コリントの教会はユダヤ人とギリシア人からなる教会であったのです。ですから、20節の「学者」を多くの人が律法学者であると理解するのです。私たちはイエス様が地上を歩まれたとき、律法学者たちがイエス様を信じなかったことを思い起こします。イエス様を信じたのは、むしろ罪人と呼ばれていた人たちでありました。イエス様は聖霊によって喜びに溢れてこう言われたのです(ルカ10:21)。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」。ここでイエス様が言われていることと、今朝の御言葉でパウロが述べていることは同じことであります。

 21節をお読みします。

 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

 世は自分の知恵で神を知ることができない。パウロはこれを神の知恵に適っていると語ります。そして、ここに福音が宣べ伝えられねばならない理由があるのです。神様は御自身をどのようにして表されたのか。それは宣教という愚かな手段によってでありました。神様はキリストを信じる私たちの宣教を用いて更に信じる者を救おうとお考えになったのです。ここで「お考えになった」と訳されている言葉は、元の言葉を直訳すると「喜びとされた」となります。神様は、キリストを信じる私たちを用いて救いの御業を進められることを喜びとされるのです。神様はそのようにして、私たちを御自分の喜びへと招いておられるのです。

 先週の夕べの礼拝で、創世記第1章に記されている人間の創造について学びました。神様は御自分にかたどって男と女を創造され、彼らを祝福してこう言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。神様はなぜ男と女に、「産めよ、増えよ」と言われたか。それは創造の喜びに男と女を招くためであったと思います。二人は一体となると言われる夫婦に赤ちゃんが生まれる。そのようにして人間は創造主である神の喜びに与るものとなるのです。「地を従わせ、海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配する」という労働についてもそうであります。私たちは労働を通して、世界を保ち、治められる神様の喜びにあずかるものとされているのです。

 それと同じように神様は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救うことにより、私たちを御自分の喜びにあずかるものとされるのです。ルカによる福音書の第15章1節から7節に次のように記されています。

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事までしている」と不平を言い出した。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びがある」。私たちは福音宣教を通して、この大きな喜びにあずかるようにと招かれているのです。

 では今朝の御言葉に戻ります。

 パウロは「宣教という愚かな手段」と語りましたが、「宣教」の愚かさは手段というよりも、むしろその内容にありました。23節から25節をお読みします。

 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探す」。これがパウロが見たユダヤ人とギリシア人の大きな特徴でありました。福音書を読みますと、イエス様に律法学者たちが、「先生、しるしを見せてください」と度々求めたことが記されています。また、哲学の伝統にいきるギリシア人に取りまして、知恵は探求の対象でありました。しかし、パウロはただ十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。十字架につけられたキリスト、これはユダヤ人にはつまずかせるものであり、ギリシア人に代表される異邦人には愚かなものでありました。なぜ、異邦人には愚かなものであったのか?当時、十字架とはローマ帝国の処刑の道具でありました。十字架につけられる者は最も無力で、惨めな、敗北者でありました。それに対して、キリストとは救い主を意味しており、力ある、栄光に満ちた、勝利者と考えられておりました。ですから、十字架につけられたキリストという言葉は、意味をなさない言葉の矛盾であり、愚かなことであったのです。しかも、ユダヤ人にとりまして、十字架につけられることは、木にかけられた呪いの死を意味しておりました。十字架につけられたものは神によって呪われた者であるのです。そのような者がキリスト、約束のメシアであるはずはないと、多くのユダヤ人は、十字架につけられたキリストにつまずいたのであります。しかし、パウロは言うのです。キリストは、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵である、と。21節には「信じる者」とありましたが、ここでは「召された者」と記されています。私たちが十字架につけられたキリストを信じることができたのはなぜでしょうか?それは私たちが神様によって召されたからであるのです。

 この手紙を記しているパウロも、かつては十字架につけられたキリストにつまずき、信じる者たちを迫害しておりました。しかし、ダマスコ途上において栄光の主イエスとまみえ、十字架につけられたイエスこそがキリストであることを知らされたのです。パウロは復活のキリストとまみえることによって、十字架につけられたキリストを信じる者となったのです。そのとき、パウロはキリストの十字架の恵みが分かったのであります。なぜ、キリストは十字架につけられなければならなかったのか?それは、そのようにしなければ誰一人救われないからであります。キリストが十字架につけられなければならないほどに、すべての人が神の御前に罪人であり、神の怒りと呪いに値する者であるからです。キリストは私たちに代わって十字架において、神の怒りをあますところなく受け、呪いの死を死んでくださいました。それゆえ、キリストを信じる者はだれでも救われるのであります。

 十字架につけられたキリストは、愚かであり、弱いように見えますが、パウロは25節で、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」と語ります。どれほど人が賢くても神の愚かさにも達することができず、どれほど人が強くても神の弱さにも値しないのです。十字架の言葉は、信じる者すべてを救う神の力であり、人知を超えた神の知恵であります。キリストは罪のないお方でありながら、私たちの罪のために十字架につけられ死んでくださいました。そのことを信じるならば、私たちはすべての罪を赦され、神の祝福に生きる者とされるのです。これがパウロが宣べ伝え、私たちが宣べ伝えている十字架の言葉であるのです。私たちはこれからも十字架につけられたキリストを大胆に宣べ伝えてゆきたいと願います。

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