教会の一致 2011年7月03日(日曜 朝の礼拝)
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コリントの信徒への手紙一 1章10節~17節
聖書の言葉
1:10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。
1:11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。
1:12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。
1:13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。
1:14 クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。
1:15 だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。
1:16 もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。
1:17 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。コリントの信徒への手紙一 1章10節~17節
メッセージ
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今朝はコリントの信徒への手紙一第1章10節から17節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
10節をお読みします。
さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。
パウロは、コリントの信徒たちを「兄弟たち」と呼びかけました。パウロとコリントの信徒たちは主イエス・キリストを信じて、神の家族の一員とされた主にある兄弟姉妹であるのです。「わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します」という厳かな言い回しは、パウロがこれから語ることが、キリストから権威を委ねられた使徒としての勧告であることを示しています。これから語られるパウロの勧告は、主イエス・キリストの勧告と同じ重みを持つものなのです。パウロは次のように勧告しています。「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」。このパウロの勧告から分かりますことは、コリントの信徒たちが皆、勝手なことを言い、仲たがいしており、心も思いもバラバラで、分裂していたということであります。今朝の10節から、この手紙の本論に入ったと言うことができますが、パウロがまず取り上げたのは、教会の内部分裂の問題でありました。パウロにとりまして、このことは第一に取り扱わなければならない重大な問題であったのです。そして、このような勧告は、パウロの憶測によるものではなく、確かな裏付けがあってのものでありました。
11節をお読みします。
わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。
「クロエ」とは、婦人の名前であります。パウロはこの手紙をエフェソにおいて記しておりますが、クロエはコリントの教会で信望の厚い信徒あったと思われます。パウロが「クロエの家の人たちから」と情報源を記しているのは、自分が憶測でものを言っているのではないことをはっきりさせるためです。また、「クロエの家の人たち」といささか曖昧に記しているのは、パウロの牧会的配慮であると思います。いずれにせよ、エフェソにいるパウロのもとに、クロエの家の人たちから、コリントの信徒たちの間に争いがあるとの報告があったのです。その争いとは次のようなものであります。12節。
あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。
ここで「わたしはパウロにつく」と訳されている言葉を岩波書店からでている翻訳聖書では、「私はパウロのものである」と訳しています(フランシスコ会聖書研究所訳注も同じ)。岩波書店の翻訳聖書で、12節をお読みします。「私がこのことを言うのは、あなたがたのうちのそれぞれが、『私はパウロのものである』『いや、私はアポロのもの』『いや、私はケファのもの』『いや、私はキリストのもの』と言っているからである」。わたしはこのように訳した方が、コリント教会の様子を想像しやすいのではないかと思います。コリントの信徒たちの中に、「私はパウロのものである」と主張する者、「わたしはアポロのものである」と主張する者、「わたしはケファのものである」と主張する者、「わたしはキリストのもの」と主張する者がおり、教会の中で争っていたのです。「パウロ」とは、この手紙を書いている使徒パウロのことであり、コリントの教会の土台を据えた人物であります。使徒言行録の第18章に、パウロがコリントに一年六ヶ月の間とどまって、人々に神の言葉を伝えたことが記されています。また、「アポロ」とは、使徒言行録の第18章24節にでてくる人物で、「アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しい雄弁家」でありました。アポロは初めエフェソにおいて宣教していたのでありますが、後にアカイア州に渡り、コリントで宣教しました(使徒19:1)。アポロはパウロがコリントを去った後、パウロに代わって、コリントの教会で福音を宣べ伝えたのです。アポロは、当時の学問文化の中心地であったアレクサンドリア出身であり、聖書に詳しい雄弁家でありましたから、コリントの教会で人気があったことは肯けます。また「ケファ」とは、使徒ペトロのことでありまして、エルサレム教会の柱と目される人物の一人でありました。このところからペトロもコリントの教会を訪れたことがあったのではないかと言う人もおりますが、よく分かりません。よく分からないと言えば、最後の「わたしはキリストのものである」と主張する者のことであります。これは正しい主張ではないかと思われるかも知れませんが、これはおそらく、教師の存在を否定し、キリストとの直接の霊的結びつきを主張する者たちであったと思われます(二コリント10:7参照)。はじめの三者が、パウロ、アポロ、ケファという教師との結びつきを主張することによって高ぶり、他の兄弟たちを見下していたのに対して、最後の者は、教師を否定し、キリストとの直接の結びつきを主張することによって高ぶり、他の兄弟たちを見下していたのです。そのような互いの高ぶりによって、コリントの信徒たちの内に争いが生じていたのです。パウロはそのようなコリントの信徒たちにこう語ります。13節。
キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。
教会の内に争いが生じている。それはパウロに言わせれば、キリストが幾つにも分けられてしまうことであるのです。このパウロの発言の背後には、第12章で展開される、「教会はキリストの体である」という教えがあります。教会の内に争いが生じているということは、キリストを幾つにも引き裂いてしまうことであるのです。キリストを幾つにも引き裂いてよいはずはありません。ですから、私たちは、10節にありましたように、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合」わなければならないのです。
13節で、パウロは続けてこう問うています。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」。これは否定の答えを予想する修辞的な問いであります。パウロは、自分の党派、「わたしはパウロのものである」と主張する者たちを念頭において、このように問うております。ここで、パウロが自分自身のことを言っていることに、パウロの心遣いを見ることができます。もちろん、ここで言われていることは、アポロにも、ケファにも言えることですが、パウロは自分のことを引き合いに出して語るのです。あなたたちは、「わたしはパウロのものだ」というけれども、パウロはあなたたちのために十字架につけられたのか。あなたたちはパウロの名前によって洗礼を受けたのか。そうではないであろう。ではなぜ、あなたたちは、「わたしはパウロのものである」と主張し、教会の内に争いを引き起こすのか。ここで「洗礼」のことが言われており、続く14節以下はもっぱら「洗礼」のことが語られるのでありますが、コリントの教会の内に争いが生じていたのは、コリントの信徒たちが洗礼について誤った考えを持っていたからでありました。すなわち、コリントの信徒たちは、洗礼を受けることにより、自分に洗礼を授けた教師と結びつくと誤解したのです。「わたしはパウロのものである」と主張する者たちは、パウロから洗礼を受けたことによって、パウロとの特別な関係に置かれたと考えたのでありました。ですからパウロは14節から16節でこう言うのです。
クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。
「クリスポ」については、使徒言行録の第18章8節にでてきますが、ユダヤ人の会堂長で、一家をあげて主を信じた人物であります。また、「ガイオ」についてはローマの信徒への手紙第16章23節にでてきますが、「わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオ」と記されています。ローマの信徒への手紙はコリントで執筆されたと言われますから、ガイオはコリントの教会全体を世話をするほどの人物であったのです。パウロは、「クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています」と述べておりますが、それはコリントの信徒たちの中で、「わたしはパウロのものである」と主張する者たちが、パウロから洗礼を受けたことを根拠にそのように主張していたからでありました。パウロは、クリスポとガイオ、さらにはステファナの家の人たち以外には洗礼を授けていないのでありますから、パウロの名によって洗礼を受けたなどとだれも言えないはずなのです。パウロは、コリントの信徒たちが洗礼について誤解していることを知った今となっては、自分が少数の者にしか洗礼を授けなかったことを神の導きであったと知って感謝していると言うのです。しかし、パウロが少数の者にしか洗礼を授けなかったことは、パウロが洗礼を軽んじていたからではありません。そのことは、後に記されるローマの信徒への手紙第6章で、パウロが洗礼について教えていることからも明かであります。パウロはローマの信徒への手紙第6章で、次のように語っています。1節から4節までをお読みします。
では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためです。
パウロはローマの信徒への手紙をコリントで執筆しましたが、その教えにおいても、コリントでの経験が生かされています。コリントの信徒たちが洗礼について誤解したことを踏まえて、パウロは洗礼についてローマの信徒への手紙でははっきりと教えているのです。すなわち、洗礼は私たちはをイエス・キリストに結ぶつけるものであるのです。
今朝の御言葉に戻ります。
では、パウロがコリントの教会において、少数の者たちにしか洗礼を授けなかったのはなぜしょうか?その理由をパウロは、17節でこう述べています。
なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
どうやらパウロは、洗礼を授けるのを他の人に委ねて、彼自身はもっぱら福音宣教に励んでいたようであります。それは、パウロの自己理解、「キリストがわたしを遣わされたのは洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであった」という自己理解に基づくことでありました。パウロは、「しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」と語っておりますが、このことについては、次週の18節以下からお話するときに触れたいと思います。パウロがコリントにおいて少数の者にしか洗礼を授けなかったのは、パウロが福音を告げ知らせることに専心したことの結果であったのです。
さて、今日の説教題を「教会の一致」としましたが、私たちは教会の一致をどこに見いだせばよいのでしょうか?コリントの信徒たちは、洗礼を誤解して、自分に洗礼を授けた教師と自分を結びつけるものと考え、党派を形成し、争っておりました。そのようなコリントの教会に、パウロはイエス・キリストの使徒として、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と勧告したのでありますが、なぜ、教会はそのように一致して歩まなければならないのでしょうか?その答えが、13節のパウロの言葉にあります。なぜ、教会は心を一つにし思いを一つにして、固く結び合わねばならないのか?それはキリストが私たちのために十字架につけられたからであり、私たちはキリストの名によって洗礼を受けたからであります。私たちは、それぞれ異なった教師によって洗礼を受けましたけれども、皆がキリストの十字架を自分のためであったと信じて、キリストの名によって洗礼を受けたのです。「キリストの名によって洗礼を受ける」とは、「キリストの名の中に洗礼を受ける」とも訳すことができます。私たちはキリストの名によって洗礼を受けたことにより、キリストとの交わりに生きる者となったのです。そして、そのキリストは決して幾つにも分けられてはならない一人の主イエス・キリストであるのです。
イエス様はヨハネによる福音書の第13章34節、35節でこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。
教会の内で争いが起こるならば、これとまったく反対の結果になるわけですね。もし、私たちの内に争いがあるならば、だれが私たちをキリストの弟子であると思うでしょうか?ですから、パウロは、主イエス・キリストにおいて固く結び合いなさいと勧告するのです。この勧告は、私たちのために十字架で命を捨てられたイエス・キリストの勧告であります。この勧告の言葉を心に留めて、主が備えてくださった聖餐の恵みに、心を一つにしてあずかりたいと願います。