神への感謝 2011年6月26日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:4 わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。
1:5 あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。
1:6 こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、
1:7 その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。
1:8 主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。
1:9 神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。コリントの信徒への手紙一 1章4節~9節

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 先々週からコリントの信徒への手紙一を学び始めております。今朝は4節から9節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 前回は1節から3節までを学びましたが、そこには当時の慣習に従って、手紙の差出人と受取人と挨拶の言葉が記されておりました。これに続いて当時の慣習では感謝の言葉が記されたということでありますが、パウロもこの慣習に従いまして、今朝の4節から9節で感謝の言葉を述べております。しかし、それはコリントの信徒たちに対する感謝というよりも、神様への感謝でありました。

 4節をお読みします。

 わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。

 パウロはこの手紙を神様への感謝をもって書き始めました。このことは大切なことであります。前回もお話しましたが、パウロはこの手紙を書く必要に迫られて書きました。第1章11節にありますように、パウロは、コリントの教会に争いがあることをクロエの家の人たちから知らされていました。また第5章1節を読みますと、パウロは、コリントの信徒たちの中にみだらな行いをする者がいることも知らされておりました。また第7章1節に、「そちらから書いてよこしたことについて言えば」とありますから、どうやらパウロのもとにコリントの教会から質問状が届いていたようであります。パウロがコリントで一年六か月に渡って福音を宣べ伝え、コリントの教会が生まれました。パウロがコリントを去って3年ほどが過ぎた紀元54年頃、エフェソにいるパウロのもとにコリントの教会から質問状が届けられ、クロエの家の人々からはコリントの教会の近況が伝えられていたのです。それを受けて、パウロはこの手紙を執筆したのです。そうであれば、挨拶の後に、直ぐにでも本題に入っても良さそうなものでありますけれども、パウロはコリントの信徒たちについて、いつも神様に感謝していると述べるのです。パウロはいつも祈りの中でコリントの信徒たちがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことを神様に感謝しておりました。パウロの心はコリントの教会を離れることはなかったのです。そのいつもささげている神様への感謝をパウロはここでもささげているのです。ある人は、パウロが実際に祈ってから、このところを書き始めたのではないかと申しております。コリントの教会が問題の多い教会でありましても、彼らがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたこと変わりはないのです。 

 5節をお読みします。

 あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。

 パウロは、コリントの信徒たちがキリスト・イエスによって受けた神の恵みとして、言葉と知識をあげています。言葉と知識、この二つはコリントの信徒たちが誇りとしていたものであります。この「あらゆる言葉」には、ギリシャ人が重き置いた雄弁術に長けた話し方だけではなく、神からの言葉である預言や異言が含まれています。第14章を読みますと、コリントの信徒たちの多くが、預言や異言を語ることができたことが分かります。しかし、それが争いと混乱の原因となっておりました。また「知識」も、ギリシャ人の好むものでありました。ここでの「あらゆる知識」には、旧約聖書やギリシャ哲学の知識だけではなく、キリストにおいて啓示された神的な知識が含まれています。パウロは第8章で、コリントの信徒たちが偶像についての知識をもっていることを認めております。しかし、その知識が人を高ぶらせ、弱い者をつまずかせるものとなっておりました。ここでパウロは、コリントの信徒たちがあらゆる言葉とあらゆる知識において豊かであることを認めたうえで、それを正しく位置づけています。すなわち、コリントの信徒たちが誇りとしていたあらゆる言葉とあらゆる知識は、神様がキリストにあって与えられた恵みであることをはっきりと語るのです。第4章7節に、「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としてたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」とありますけれども、コリントの信徒たちは、言葉と知識を神の恵み、賜物と理解せずに、自分の資質に由来するものと考え、高ぶっておりました。そして、この高ぶりが争いを生んでいたのです。そのようなコリントの信徒たちに、パウロは、神様がキリストにあって、あなたがたがをあらゆる言葉とあらゆる知識において、さらにはすべての点で豊かにしてくださったのだと語るのです。

 このパウロの言葉は、先に記したテサロニケの信徒への手紙一と対象的であります。パウロは、テサロニケの信徒への手紙一の第1章2節、3節に次のように記しておりました。「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望をもって忍耐していることを、わたしたちは絶えず神の御前で心に留めているのです」。ここでパウロは、テサロニケの信徒たちの信仰、愛、希望について語っておりますが、これらについてコリントの信徒たちに語られるのは第13章においてであります。第13章でパウロはこう語っています。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」。このことから、コリントの信徒たちのあらゆる言葉とあらゆる知識という賜物が愛によって用いられていなかった。むしろ、それが高ぶりと争いの原因になっていたことが分かるのです。パウロは、テサロニケの教会に宛てたように、コリントの教会の愛について神様に感謝をささげることはできませんでした。けれども、パウロはあらゆる言葉とあらゆる知識がコリントの信徒たちに与えられた神の賜物であることを積極的に評価して、神様に感謝をささげているのです。パウロは、コリントの信徒たちに欠けているものではなく、豊かに与えられている賜物に目を留めて、神様に感謝をささげるのです。私たちに与えられている賜物は何でしょうか?それは一人一人異なっておりますけれども、その賜物に目を留めて、互いに神様に感謝をささげたいと願います。

 6節、7節をお読みします。

 こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。

 神様はキリストによってコリントの信徒たちにすべての点で恵みを豊かに与えてくださいました。こうして、キリストが今も生きて働いておられることがコリントの信徒たちの間で確かなものとされたのであります。そしてその結果、コリントの信徒たちは賜物に何一つ欠けるところがなく、主イエス・キリストの現れを待ち望む者とされたのです。コリントの信徒たちの賜物が豊かであったことは、第12章を読むと分かります。ここでは4節から11節までをお読みします。

 賜物にはいろりろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

 このようにコリントの教会には、「賜物に何一つ欠けることがなく」と言えるほどの豊かな賜物が与えられてたのです。豊かな賜物が与えられていることは、教会に聖霊の風が力強く吹いている、生き生きした活発な教会であったということを示しています。コリントの教会には様々な問題が起こりましたけれども、それはコリントの教会が勢いある活発な教会であったがゆえなのです。そして、その活発さは時には熱狂となって表れました。コリントの教会の中には、すでに完全な救いにあずかっていると考える者たちがおり、死者の復活を否定する者たちまでいたのです(15:12参照)。そのような者たちを念頭に置きつつ、パウロは「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」と正しい信仰の姿勢を語るのです。ここで、「賜物」とありますが、もとのギリシャ語はカリスマであります。4節に「恵み」とありましたが、もとのギリシャ語はカリスでありました。「恵み、カリス」という言葉から「賜物、カリスマ」という言葉ができているのです。すなわち、賜物とは神様の恵みによって与えられたものを言うのです。コリントの信徒たちは、神の恵みをすべての点で豊かに受けたゆえに、賜物に何一つ欠けるところがないものとされていたのです。そして、その賜物の一つに、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望むという希望も含まれているのです。そして、この希望は、今、私たちにもキリストよって与えられている賜物であるのです。

 8節では、主イエス・キリストの現れを待ち望む私たちに、主がどのようにしてくださっているか、さらにはどのようにしてくださるかが語られております。

 主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。

 ここで「しっかり支えて」と訳されている言葉(ベバイオーシス)は、6節で「確かなものとなった」と訳されている言葉(ベバイオー)を根としております。すなわち、コリントの信徒たちにすべての点で豊かな恵みを与えてくださり、キリストについての証しを確かにしてくださった主が、最後まで彼らを確かな者として支えてくださるのです。さらに、主は私たちの主イエス・キリストの日に、コリントの信徒たちを非のうちどころのない者にしてくださるのです。ここでの「主」は、「主イエス・キリスト」とも解釈できますし、また「主なる神」とも解釈できます。前の7節と結びつけると、「主イエス・キリスト」を指すと読むことができますし、後ろの9節と結びつけると、「主なる神」を指すと読むことができます。元の言葉には「主」という言葉は記されておらず、主格、男性形、単数の関係代名詞が記されています。元の言葉では、イエス・キリストと神のどちらにも読むことができる曖昧な書き方がしてあるのです。当時の聖書である旧約聖書において「主の日」は、神の裁きの日、神が救いを完成してくださる日として待望されておりました。その「主の日」をパウロはここで「主イエス・キリスト日」と述べております。「主の日」は「主イエス・キリストの日」である。これがイエス・キリストによって明らかにされたことでありました。主イエス・キリスト日に、私たちの主イエス・キリストが現れてくださり、私たちの救いを完成し、私たちを非のうちどころのない者としてくださるのです。私たちも主イエス・キリストの日を待ち望みながら、週の初めの日ごとに、主イエス・キリストの名をこうして呼び求めているのです。

 9節をお読みします。

 神は真実は方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

 なぜ、パウロがいつも神に感謝することができたのでしょうか?それは神様が真実なお方であるからです。ここでの「真実」は「忠実」とも訳すことができます。神は御自分の御言葉に忠実であられる。そのことを私たちは旧約聖書に記されているイスラエルの歴史を通して知ることができます。聖書において御自分を現してこられた神、イスラエルと共に歩まれた神は真実なお方である。その主なる神様が、コリントの信徒たちを、また私たちを、「神の子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れてくださった」のです。そうであれば、その交わりが途中で破綻するようなことはないのであります。必ず、神様は私たちに賜物を与えてくださり、キリストの証しを確かなものとし、私たちを最後までしっかり支えて、キリストの日に非のうちどころのない者としてくださるのです。私たちが今、このような礼拝において、神の子、主イエス・キリストとの交わりにあずかっていることは、私たちの救いが確かであることの保証であり、いつも神様に感謝をささげることのできる根拠でもあるのです。私たち自身を見つめるならば、そこには確かなものはなく、いつも感謝をささげることはできないかも知れません。けれども、私たちを主イエス・キリストとの交わりに招き入れてくださった神様を見上げるならば、私たちはパウロのように、いつも神様に感謝をささげることができるのです。神様はイエス・キリストによって、私たちを感謝に生きるものとしてくださったのです。

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