あなたがたを造り上げるために 2019年8月11日(日曜 朝の礼拝)

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あなたがたを造り上げるために

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
コリントの信徒への手紙二 12章19節~13章4節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:19 あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。
12:20 わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。
12:21 再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。
13:1 わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。
13:2 以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。
13:3 なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。
13:4 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。コリントの信徒への手紙二 12章19節~13章4節

原稿のアイコンメッセージ

序 

 コリントの信徒への手紙二の10章から13章までは、偽使徒たちに惑わされているコリントの信徒たちに宛てて記された手紙であります。今朝は、その12章19節から13章4節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1 あなたがたを造り上げるため

 19節をお読みします。

 あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。

 パウロは、偽使徒たちと同じように、愚か者になったつもりであえて誇りました。そのようなパウロの文書を読んで、コリントの信徒たちは、どう思ったでしょうか。パウロは、「あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護している」と思ったに違いないと記すのです。しかし、パウロは、「そうではない。私たちはあなたがたに対して自己弁護しているのではなく、神の御前で、キリストに結ばれて語っている」と記すのです。パウロは、コリントの信徒たちに、自分がキリストの使徒であることを弁護しているわけではありません。なぜなら、パウロにとって、コリントの信徒たちに裁かれることは、少しも問題ではなかったからです。第一コリント書の4章1節から4節で、パウロはこう記していました。新約の303ページです。

 こういうわけで、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に委ねられているのは忠実であることです。わたしにとって、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。

 コリントの信徒たちから裁かれて、「パウロは使徒ではない」と言われても、それで、パウロが使徒でなくなるわけではありません。コリントの信徒たちから裁かれようと、パウロがキリストに仕える者であり、神の秘められた計画をゆだねられた管理者であることに変わりはないのです。パウロを裁くのは、パウロに福音をゆだねられた主なる神であり、主イエス・キリストであるのです。そのような者として、パウロは、主なる神の御前で、主イエス・キリストに結ばれて語っているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の340ページです。

 19節の中程に、「わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています」とあります。この言い回しは、2章17節にも記されていました。「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています」。この所から説教したときに、私は、ここに説教者の姿があると申しました。説教者は、神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語るのです。そうであれば、パウロが意識していたのは、コリントの信徒たちがどう思うかということよりも、神さまの御前にキリストの真実を語ることであったのです。パウロは、コリントの信徒たちに取り入ろうとして語っているのではなく、神の御前で、キリストに結ばれた者として福音を語ることに集中しているのです(ガラテヤ1:10参照)。そして、それは、コリントの信徒たちを、キリストの教会として造り上げるためであるのです。

 「愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです」。パウロは、自分が使徒であることを弁護するためではなく、コリントの信徒たちを造り上げるために、すべてを記してきたのです。「あなたがたを造り上げるため」とパウロが記すとき、それは「あなたがたをキリストの教会として造り上げるため」ということです。パウロは、神さまから愛されているコリントの信徒たちを、キリストの教会としてふさわしく造り上げるために、神の御前で、キリストに結ばれて語ってきたのです。「教会は説教によって造り上げられる」と言われますが、そのような説教を、パウロは、神の御前で、キリストに結ばれて語ってきたのです。

2 パウロの心配

 20節と21節をお読みします。

 わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。

 パウロは、三度目の訪問を前にして、心配ごとを率直に記しています。「そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どうおりの者ではない、ということにならないだろうか」。コリントの信徒たちがパウロの期待どおりの者ではないとは、どのようなことでしょうか。それは、コリントの信徒たちの中に、争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるということです。ここに記されているのは、いずれも教会の交わりを破壊するものです。第一コリント書を読むと、コリントの信徒たちの中に、争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動があったことが分かります。第一コリント書の3章1節から4節までをお読みします。新約の302ページです。

 兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い食物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。

 このように、コリントの教会には、ねたみや争いが絶えなかったのです。そのようなコリントの教会に一致をもたらすために、パウロは言葉を尽くして、この手紙を記したのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の340ページです。

 パウロは、コリントの教会に一致をもたらすために、第一コリント書を書き送りました。けれども、パウロは、コリントの信徒たちの中に、相変わらず、争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないかと心配しているのです。そのようにして、「わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか」とパウロは心配しているのです。このパウロの言葉は面白いですね。パウロは、「あなたがたがわたしの神の前でわたしに面目を失わせる」とは記さずに、「わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせる」と記すのです。なぜ、パウロは、「わたしの神があなたがたの前で面目を失わせる」と記したのでしょうか。それは、パウロの言葉を有効に用いて、コリントの信徒たちを悔い改めさせられるのは神さまであるからです。コリントの信徒たちがパウロの言葉に従わないことによって、パウロの面目を失わせるのではありません。もし、パウロが面目を失うようなことがあるならば、それは、パウロの言葉を有効に用いずに、コリントの信徒たちを悔い改めへと導かれなかった神さまであるのです。

 また、パウロは、「以前に罪を犯した多くの人が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、嘆き悲しむことになるのではないか」と心配していました。第一コリント書を読むと、コリントの信徒たちの中にみだらな行いをする者、娼婦と交わる者がいたことが分かります。第一コリント書の6章16節から20節までをお読みします。新約の306ページです。

 娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

 このようなパウロの言葉は、一時的には効果があったと思います。しかし、その効果はだんだんと薄れて行ったと思います。ギリシャの人々は、娼婦と交わることを健康な男子ならば当然のことと考えていました。そのような古い人の考え方に、コリントの信徒たちは戻っているのではないか。そのようなコリントの信徒たちを見て、パウロは嘆き悲しむようになるのではないかと心配しているのです。言うまでもないことですが、パウロは、そのような心配が実現しないことを願って、このように前もって記しているのです。パウロが願っていること、それは、コリントの信徒たちが主にある一致を保ち、以前の罪を悔い改め、みだらな行いから遠ざかっていることであるのです。そのようにして、神さまがパウロの面目を保ってくださることを願っているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の341ページです。

3 キリストがパウロによって語っている証拠

 13章1節と2節をお読みします。

 わたしがあなたがたのところへ行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。

 「すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです」。これは、旧約の申命記19章15節からの引用であります。そこにはこう記されています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」。これはイスラエルの裁判の掟でありますが、主イエスはこの掟を教会にも適用されました。マタイ福音書の18章15節から20節までをお読みします。新約の35ページです。

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か、二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでおも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 16節の後半に、「すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」とあります。この主イエスの御言葉を、パウロは記すことによって、三度目にコリントに行く際には、教会訓練を行うことを暗示しているのです。パウロは、「今度そちらに行ったら、容赦しません」と記していますが、それは、キリストの御言葉に従って、教会訓練を行い、悔い改めない者たちを教会の交わりから除外することを意味しているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の341ページです。

 13章3節と4節をお読みします。

 なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。

 なぜ、パウロは、「今度そちらに行ったら容赦しない」と記すのでしょうか。それは、コリントの信徒たちがそのことを求めているからです。コリントの信徒たちは、キリストがパウロによって語っておられる証拠を求めていました。その証拠を、パウロは、キリストの名によって、教会訓練を行うことによって示そうと言うのです。先程読んだ、マタイ福音書に記されていたように、キリストは使徒たちに、つなぐ権能と解く権能を与えられました。つなぐ権能とは、教会の交わりから閉め出す権能のことです(禁止する権能)。また、解く権能とは、教会の交わりに受け入れる権能のことです(許可する権能)。この権能は一人によってではなく、二人または、三人によって、キリストの名によって行使されました。その二人または三人の中に、キリストは共におられると言われたのです。ですから、キリストの名によって教会訓練を行うことは、キリストがパウロによって語っている証拠となるわけです。

 キリストは、コリントの信徒たちに対して、また、私たちに対して、どのような御方でしょうか。キリストは、私たちに対して弱い方ではなく、強い御方です。確かにキリストは弱さのゆえに十字架につけられました。しかし、キリストは神の力によって復活させられ、今も活きておられるのです。では、コリントの信徒たちにとって、パウロはどのような人でしょうか。パウロもキリストに結ばれた者として弱い者、柔和で寛容な者であります(10:1参照)。しかし、以前の罪を悔い改めない者たちに対しては、神の力によってキリストと共に強い者であるのです。

 前にもお話しましたが、私たちの改革派教会において、教会訓練の権能は、牧師と長老たちの会議である小会にゆだねられています。小会はキリストに結ばれた者として、柔和で寛容でなければなりません(ルカ22:26「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」参照)。しかし、罪を犯して悔い改めない者、教会の交わりを破壊するような者に対しては、キリストと共に強い者であるのです。

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