使徒パウロの苦難 2019年7月21日(日曜 朝の礼拝)
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使徒パウロの苦難
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙二 11章16節~33節
聖書の言葉
11:16 もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。
11:17 わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。
11:18 多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。
11:19 賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう。
11:20 実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。
11:21 言うのも恥ずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。
11:22 彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。
11:23 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。
11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。
11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。
11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、
11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
11:28 このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。
11:29 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。
11:30 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。
11:31 主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。
11:32 ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、
11:33 わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。
コリントの信徒への手紙二 11章16節~33節
メッセージ
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序
コリントの信徒への手紙二の10章から13章までは、使徒パウロが偽使徒たちに惑わされているコリントの信徒たちに宛てて記した手紙であります。今朝は、11章16節から33節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1 愚か者になったつもりで
16節から21節までをお読みします。
もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう。実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。言うのもはずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。
パウロは、「もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい」と記します。この「もう一度」は、11章1節を受けてのものです。パウロは、11章1節で、「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています」と記しました。この「愚かさ」について、パウロは10章12節でこう記していました。「わたしは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。その愚かなことをパウロはこれからしようとしているのです。パウロは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように肉の誇りをこれから記すのです。それは、コリントの信徒たちの目を覚まさせるためであります。コリントの信徒たちは、偽使徒たちの肉の誇りに圧倒されて、まるで奴隷のように扱われていました。パウロは、そのようなコリントの信徒たちを、「賢く、我慢強い」と皮肉をもって語ります。なぜ、このようなことになってしまったのか。パウロは、自分たちの態度が弱すぎたからだと言うのです。それで、パウロも愚か者になったつもりで、偽使徒たちのようにあえて誇ろうと言うのです。
2 使徒パウロの苦難
22節から29節までをお読みします。
彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。
22節は、血筋についての誇りであります。偽使徒たちは、自分たちがヘブライ人であり、イスラエル人であり、アブラハムの子孫であることを誇っていました。ギリシャ人であるコリントの人たちに、自分たちは旧約の伝統に活きる、約束の神の民であると誇っていたのです。しかし、その点においてはパウロも同じです。パウロも、ヘブライ人であり、イスラエル人であり、アブラハムの子孫であるのです。
23節から29節までは、キリストに仕える者としての誇りであります。偽使徒たちは、自分たちはキリストに仕える者であると誇っていました。キリストに仕えるという点について、パウロは、「わたしもそうです」とは記しません。「気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです」と記します。そして、キリストに仕える使徒としての労苦を記すのです。「苦労したことはずっと多く、投獄されたことはずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目にあったことも度々でした」。このように記した後で、苦難のリストを記すのです。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度」とありますが、これは旧約の申命記25章3節に基づいてのことです。そこにはこう記されています。「40回までは打ってもよいが、それ以上はいけない。それ以上鞭打たれて、同胞があなたの前で卑しめられないためである」。ユダヤ人たちは、40回以上鞭打つことがないように、39回まで鞭打ったのです。パウロがユダヤ人たちから鞭打たれたことは、使徒言行録には記されていません。「鞭打たれたことが三度」とありますが、これはローマの官憲による鞭打ちのことです。使徒言行録の16章を見ますと、パウロがフィリピにおいて、ローマの官憲によって鞭打たれたことが記されています。しかし、あとの二回については記されていません。「石を投げつけられたことが一度」とありますが、石打の刑は、ユダヤ人の処刑方法でありました。また、リンチ(私的な制裁)として行われることもありました。パウロが石を投げつけられたことは、使徒言行録の14章に、リストラでの出来事として記されています。「難船したことが三度」とありますが、使徒言行録には、パウロがエルサレムに行くまでに、難船したことは記されていません。ローマに行く旅の途中で難船したことが記されていますが、それはこの手紙が執筆された後のことです。このように見ると、使徒言行録に記されていない、私たちが知らないパウロの労苦が沢山あることが分かります。この手紙が記された紀元1世紀は、旅をすること自体が危険なことでありました。トラベル(旅)はトラブル(困難)を必ず伴うものであったのです。けれども、パウロは、イエス・キリストの福音を伝えるために、さまざまな危険に遭いながら、旅を続けました。パウロは、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともあったのです。これらは、肉体的な苦しみでありますが、精神的な苦しみもありました。パウロには、日々迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があったのです。パウロは、この手紙を書いているときも、そのことに苦しんでいたわけです。コリントの教会が、偽使徒たちに惑わされ、パウロが伝えた福音の恵みから落ちようとしている。そのようなやっかい事に迫られて、パウロはコリントの信徒たちを心配して、この手紙を書いているのです。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」。私たちはここに、一人の魂に寄り添う牧会者パウロの姿を見ることができます。かつて、パウロは、「偶像の肉を食べることでつまずく弱い兄弟のためにも、キリストは死んでくださった」と記しました(一コリント8:10、11参照)。パウロは、信徒一人一人のために、キリストが死んでくださったことを忘れることなく、一人一人の魂に配慮する牧会者であったのです。
3 弱さにかかわる事柄を誇ろう
30節から33節までをお読みします。
誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。
パウロは、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と記します。ここでは、「キリストに仕える者としての苦難」が「弱さ」と言い換えられています。偽使徒たちは、キリストに仕える者として、華々しい実績を挙げたのだと思います。そのようにして、彼らは強さを誇ったのです。しかし、パウロはキリストに仕える者として、その苦難を挙げるのです。そのようにして、弱さを誇るのです。パウロは、自分が記してきたことが真実であることの証人として、主イエス・キリストの父である神の名を呼びます。パウロは、永遠にほめたたえられるべき方を証人とすることにより、自分が偽りを言っていないことを証明するのです。32節と33節に、パウロが、ダマスコのアレタ王の代官から命を狙われて、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、逃れたことが記されています。このことは、使徒言行録の9章に記されています。そこには、アレタ王の代官ではなく、ユダヤ人たちから命を狙われたと記されています。パウロは、イエス・キリストの弟子たちを縛り上げるために、ダマスコへ向かいました。しかし、その途上において、栄光の主イエスに出会います。そして、パウロは、ダマスコに住むアナニアによって、主の言葉を聞き、洗礼を受けてキリスト者となるのです。パウロは、イエスの名を呼ぶ者たちを滅ぼすためにダマスコへ向かいました。しかし、ダマスコに到着すると、パウロはイエスこそメシアであると福音を宣べ伝えたのです。そのようなパウロを、ユダヤ人たちは殺そうとしたのです。そこで、パウロの弟子たちは、夜の間に、パウロを籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろしたのです。このことを、パウロは、自分の弱さを表す体験として記しています。また、このことは、パウロが、イエス・キリストの名のゆえに受けた最初の苦しみでありました。主イエスは、アナニアに、パウロについてこう言われました。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(使徒9:15、16)。イエスさまの名のための最初の苦しみ、それがダマスコで命を狙われ、闇夜に紛れて、城壁づたいに籠でつり降ろされる体験であったのです。そのような弱さを、パウロは誇ろうと言うのですね。
結 パウロが苦しみを誇った理由
今朝は、最後に、「パウロが苦しみを誇った理由」についてお話したいと思います。パウロは、偽使徒たち以上に、自分がキリストに仕える者であることの証拠として、そのための労苦や苦難をあげました。しかし、パウロは、華々しい実績を誇ることもできたと思います。例えば、自分が立てた教会の名前のリストを挙げることもできたはずです。あるいは、わたしはこれだけの人に洗礼を授けてきたと誇ることもできたはずです。しかし、パウロは、そのような仕方で、自分がキリストに仕える者であることを証明しようとはしませんでした。パウロがキリストに仕える者であることの証拠として挙げたのは、キリストのための苦難であり、そのような苦難の体験の中で知った自分の弱さであるのです。なぜでしょうか。それは、パウロが宣べ伝えている福音が、十字架につけられたイエス・キリストを内容とするものであるからです。パウロが宣べ伝えているイエス・キリストは、私たちの罪を担って死なれた苦難の僕であるからです。前々回の説教で私は、「偽使徒たちは、キリストの苦難を軽んじて、栄光のキリストを重んじて教えていた」と申しました(11:4「異なったイエス」参照)。偽教師たちは、キリストの苦難、弱さを語らず、栄光の、強いキリストばかりを語っていたのです。しかし、パウロは、十字架につけられた、弱いキリストを宣べ伝えました(二コリント13:4「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられました」参照)。ですから、パウロは、自分がキリストに仕える者の証拠として、苦難と弱さについて記すのです。私たちがキリストに仕える者のしるしは、福音のために労苦することであります。そのことを心に留めて、イエス・キリストの福音のために労苦したいと願います。また、福音宣教の労苦の中で知る自分たちの弱さを、私たちの誇りにしたいと願います。