神が割り当てられた範囲 2019年6月30日(日曜 朝の礼拝)
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コリントの信徒への手紙二 10章7節~18節
聖書の言葉
10:7 あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。
10:8 あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。
10:9 わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。
10:10 わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。
10:11 そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。
10:12 わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。
10:13 わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。
10:14 わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。
10:15 わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、
10:16 あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。
10:17 「誇る者は主を誇れ。」
10:18 自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。
コリントの信徒への手紙二 10章7節~18節
メッセージ
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序
前回申しましたように、10章から13章までは、一つの大きなまとまりを成しています。その内容は、9章までとはガラリと変わって、論争的です。パウロは、外部から入り込んで来た偽使徒たちによって、惑わされているコリントの信徒たちに宛てて、10章から13章までを記しているのです。パウロは、7章16節で、「わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます」と記しました。しかし、10章以下を読むと、その信頼がどこかに吹き飛んでしまっていることに気づきます。パウロは、9章15節で、「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」と記していたのに、10章に入ると、皮肉を効かせた論争的な文書を記しているのです。このことを説明する一つの推測は、パウロは1章から9章までを記した後、しばらくして、10章から13章までを記したということです。1章から9章までを記した後、しばらくして、外部から入り込んできた偽使徒たちによって、コリントの信徒たちが惑わされているという知らせがパウロの耳に入った。それで、10章から13章までを記して書き送った。そして、後に、この二つの手紙が一つの手紙として編集され、私たちが手にしているかたちとなった。こう推測できるのです。そのような推測のもとに、私たちは、今朝、10章7節以下を読み進めて行きたいと思います。
1 造り上げるための権威
7節と8節をお読みします。
あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎてたとしても、恥にはならないでしょう。
パウロは、偽使徒たちに惑わされているコリントの信徒たちに、「あなたがたは、うわべのことだけ見ています」と記します。コリントの信徒たちの目には、パウロよりも偽使徒たちの方が立派に見えたのでしょうね。パウロは、コリントの信徒たちが偽使徒たちに惑わされて、パウロが使徒であることを疑うのは、「あなたがたがうわべだけを見ているからだ」と記すのです。
「自分がキリストのものだと信じきっている人」とは、パウロがキリストの使徒であることを否定する偽使徒たちのことです。ですから、ここでの「キリストのもの」とは、単なる「キリスト者」のことではなくて、「キリストから働きを委ねられた者」のことです。偽使徒たちは、自分たちはキリストから働きを委ねられた者であると信じきっていました。そうであれば、その人は、自分と同じように私たちも、キリストから働きを委ねられた者であることを、もう一度考えるがよい、こうパウロは記すのです。ここでパウロは、偽使徒たちが、「キリストのものだ」ということを否定してはいません。ここでパウロが言いたいことは、あなたがたがキリストのものであるならば、私たちがキリストのものであることが分かるであろう、ということです。
偽使徒たちは、パウロがキリストのものではない、キリストの使徒ではないと中傷していました。それで、パウロは、コリントの信徒たちを打ち倒すためではなく、造り上げるために主イエスが授けてくださった権威について記すのです。パウロは、自分について誇ることを嫌った人です。パウロは、自分を誇ることが愚かであると知っていました。しかし、パウロは自分がキリストの使徒であることを立証するために、主イエス・キリストが自分に授けてくださった権威について記すのです。主イエスは、パウロに、教会を打ち倒すためではなく、造り上げる権威を授けてくださいました。これは、私たちの教会で言えば、キリストから職務を委ねられている教師、長老、執事に言えることです。教会役員に与えられている権威、それは教会を破壊するためではなく、教会を造り上げるための権威であるのです。しかし、偽使徒たちは、キリストの権威を借りて、教会を破壊していたわけです。偽使徒たちは、パウロがイエス・キリストの使徒であることを否定することによって、さらには、パウロが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えることによって、教会を破壊していたのです(11:4参照)。
9節から11節までをお読みします。
わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。
偽使徒たちは、パウロが手紙でコリントの信徒たちを脅していると中傷していたようです(10:1参照)。また、パウロのことを「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言っていたようです。パウロは、12章で、「思い上がることがないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」と記しています。ですから、パウロは何らかの病を患っていたのかも知れません。パウロの外見は立派で堂々としているというよりも、弱々しいものであったのです。また、「話もつまらない」とありますが、これは、ギリシャ人が重んじる雄弁術の観点からの批判です。この所を、新改訳聖書は、「その話しぶりは、なっていない」と翻訳しています。パウロは、雄弁術を用いずに、素朴にキリストの福音を宣べ伝えました(一コリント2:1参照)。雄弁術を重んじる偽使徒たちにとって、そのようなパウロの話し方は、なっていない、つまらないものであったのです。ここで偽使徒たちは、「パウロの手紙が重々しく力強い」ことを認めています。しかし、そのようなパウロの長所を引き合いにして、彼らはパウロを貶めるのです。そして、そのような偽使徒たちに、パウロは、離れていて手紙で書く私たちと、その場に居合わせてふるまう私たちとには変わりはない、同じ私たちであると記すのです。パウロは、弱々しく話し方もなっていない自分が重々しく力強い手紙を書いたことを忘れないようにと記すのです。
2 神が割り当てられた範囲
12節から15節の前半までをお読みします。
わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。
「自己推薦する者たち」とは、外部からコリントの教会にやって来て、パウロのことを中傷していた偽使徒たちのことです。彼らは、自分で自分を推薦する者たちであり、仲間同士で評価し合い、比較し合っていました。そのような偽教師たちと同じようなことを、パウロはしないと言うのです。そのようなことは、知恵のないこと、愚かなことであるのです。
また、偽使徒たちは限度を超えて誇っていました。偽使徒たちは、あたかも自分たちがコリントの教会を立てたかのように誇っていたのです。13節に、「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです」とあります。「割り当ててくださった範囲」の「範囲」と訳されている言葉は、「カノン」という言葉です。カノンとは「物差し、定規」を意味する言葉で、後に「正典」をも意味するようになりました。そのような「カノン」という言葉が、ここでは「範囲」と訳されているのです。ある研究者は、このパウロの言葉の背後には、ガラテヤ書の2章に記されているエルサレム会議の取り決めがあると推測しています(E・ベスト)。ガラテヤ書の2章7節と8節にこう記されています。「それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけたのです」。このように、ペトロは割礼を受けているユダヤ人に福音を宣べ伝え、パウロは割礼を受けていない異邦人に福音を宣べ伝えることが決められていたのです。しかし、この取り決めを越えて、偽使徒たちはエルサレムからコリントへとやって来たのです。このようにして彼らは神が割り当ててくださった範囲を超えて、パウロたちがしたことを、あたかも自分たちがしたかのように誇っていたのです。それに対して、パウロは、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、キリストの福音を携えてだれよりも先にコリントを訪れたことで誇るのです。使徒言行録の16章を見ますと、パウロたちが、聖霊によってアジア州で御言葉を語るのを禁じられたこと。さらには、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかったことが記されています。そして、パウロはその夜、マケドニア人の幻を見るのです。一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と願う幻を見るのです。この幻を神さまからの召しと確信して、パウロはマケドニア州へ渡るのです。このようにして、ヨーロッパで福音が宣べ伝えられることになるのです。パウロは、マケドニア州のフィリピ、テサロニケ、ベレアで福音を宣べ伝えます。そして、アカイア州のアテネ、コリントでも福音を宣べ伝えるのです。イエス・キリストの福音を誰も聴いたことのない土地で、パウロは初めてイエス・キリストの福音を宣べ伝えたのです。パウロは、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」という主イエスの御言葉に励まされて、1年6か月の間、コリントにとどまり福音を宣べ伝えたのです。そして、コリントに住む者たちの中から、イエス・キリストを信じる者たちが起こされたわけです。コリントは、まさに、神さまが割り当ててくださった範囲、パウロの宣教地であったのです。このようなパウロの議論は、私たちには少し分かりづらいかも知れません。といいますのも、私たちは一つの教会に一人の牧師がいることを当然のように考えているからです。教会が会員総会で牧師を招く決議をして、その招きに応じて、ある人がその教会の牧師となるからです。しかし、当時は、そのような制度はまだ整っていません。コリントの信徒たちに始めて福音を宣べ伝えたのは、パウロでありました。しかし、パウロだけではなくて、他の人々もコリントで福音を宣べ伝えたわけです。雄弁術を得意とするアポロもコリントで福音を宣べ伝えたのです(使徒18:24参照)。ですから、パウロは、第一コリント書の3章で、「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と記したのです(一コリント3:5、6)。パウロは、この手紙をエフェソで記しています。パウロは、異邦人の使徒として、あらゆる地域で福音を宣べ伝えました。また、福音宣教によって生まれた教会を、手紙によって牧会しました。パウロがいないコリント教会に、エルサレムから偽使徒たちが入り込んで来て、パウロを批判し、パウロが宣べ伝えたのとは異なる福音を宣べ伝え始めた。偽使徒たちは、コリント教会の牧師気取りで、パウロがしたことをあたかも自分たちがしたことであるかのように誇っていたのです。
3 主から推薦される人
15節の後半から17節までをお読みします。
ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。「誇る者は主を誇れ。」自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。
パウロの希望、それはコリントの信徒たちの信仰が成長して、パウロの働きが定められた範囲内でますます増大することです。さらには、アカイア州を越えて、他の地域へ、具体的に言えばイスパニア(現在のスペイン)に福音が告げ知らされるようになることでした。このことをパウロは、ローマの信徒への手紙の15章に記しています(パウロは、第二コリント書を執筆した数ヶ月後にローマ書を執筆した)。パウロはローマへ行った後に、イスパニアへ行く計画を立てていたのです(ローマ15:28参照)。
16節の後半に、「わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです」とあります。このことも、パウロはローマ書の15章に記しています。パウロはキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。キリストの名が告げ知らされていない地域に、キリストという土台を据えることこそ、異邦人の使徒パウロの本懐(もとから抱いている願い)であるのです。
17節に、「誇る者は主を誇れ」と記されています。これは、エレミヤ書9章23節からの引用であります。「誇る者は主を誇れ」。この御言葉を、パウロは第一コリント書の1章でも引用していました。しかし、ここでは、その意味するところが異なっています。エレミヤ書と第一コリント書では、神さまの裁きという文脈で、自分の知恵や力ではなくて、主イエスこそが、私たちの誇り、拠り所であると記されていました。しかし、今朝の御言葉で、パウロが、「誇る者は主を誇れ」と記すのは、自分が宣べ伝える福音を用いて、信じる者を起こしてくださるのが主イエスであるからです。このことも、パウロはローマ書の15章で記しています。実際に開いて、確認したいと思います。新約の296ページです。ローマの信徒への手紙15章17節から19節までをお読みします。
そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。
パウロは、自分を通して、主イエス・キリストが働いてくださっていることをよく知っていました。それゆえ、パウロは、福音宣教の文脈において、「誇る者は主を誇れ」と記すのです。信じる者が起こされるとき、宣教者は自分を誇りたくなります。しかし、パウロは言うのです。その信じる者を起こしてくださったのは主イエスであると。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。そして、主イエスを誇り、拠り所として、福音を宣べ伝える者こそ、主から推薦される適格者であるのです。
私たち羽生栄光教会にも、羽生市とその周辺地域が神さまから割り当てられております。その神さまが割り当てられた範囲で、私たちは主イエス・キリストを拠り所として、福音を宣べ伝えていきたいと願います。