神の力で戦う 2019年6月23日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙二 10章1節~6節
聖書の言葉
10:1 さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。
10:2 わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。
10:3 わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。
10:4 わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、
10:5 神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、
10:6 また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。コリントの信徒への手紙二 10章1節~6節
メッセージ
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序
ペンテコステ、埼玉東部地区の講壇交換と、しばらくコリントの信徒への手紙二から離れていましたが、今朝から再び、コリントの信徒への手紙二を読み進めて行きたいと思います。
1 5通目の手紙
今朝は、10章1節から6節までをお読みしましたが、9章とは随分違うなぁと思われたのではないでしょうか。パウロは、8章と9章において、エルサレム教会への献金について記してきました。今朝の御言葉の直前、9章15節では、「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」という感謝の言葉を記していたのです。しかし、10章に入ると、がらりと変わりまして、論争的な内容となっています。10章から13章までは一つの大きなまとまりで、偽使徒たちに惑わされているコリントの信徒たちに対して記されています。ですから、10章から13章までは、1章から9章までを記した後で、しばらく時間が経ってから記されたと考えられます。だいぶ前に、パウロはコリントの教会に宛てて、4通の手紙を記したことをお話しました。1通目は、第一コリント書の5章に記されている「以前に記した手紙」です。2通目は、第一コリント書です。3通目は、第二コリント書の2章に記されている「涙の手紙」です。4通目は、第二コリント書です。しかし、第二コリント書を1章から9章までと10章から13章までの二つに分けるならば、パウロは、コリントの教会に合計5通の手紙を書いたことになります。4通目の手紙と5通目の手紙が後に一つにまとめられ、第二コリント書として私たちの手元にある。このように推測できるのです。そのような推測に基づいて、今朝の御言葉を読み進めて行きたいと思います。
2 キリストの優しさと心の広さをもって
10章1節と2節をお読みします。
さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。わたしのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。
私たちは、ここから、コリント教会を惑わせていた偽使徒たちが、パウロをどのように中傷していたかを知ることができます。偽使徒たちは、パウロのことを、面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出ると中傷していたようです。このようなパウロへの中傷は全く根拠のないものとも言えません。例えば、第一コリント書の4章で、パウロは、自分が使徒であることを疑う者たちに対して、自分が使徒であることを記しています。この所も論争的な文書ですが、その18節から21節でこう記しています。新約の304ページです。
わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく力にあるのですから。あなたがたの望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。
偽使徒たちは、このような文書を読んで、パウロは、「離れている時には、強硬な態度に出る」と言っていたのだと思います。
今朝の御言葉に戻ります。新約の336ページです。
パウロは、「高慢な人の言葉ではなく、力を見せてもらおう。あなたがたは、わたしが鞭を持って行くことを望むのか」と記しました。では、実際、パウロがコリントを訪れたときは、どうであったのでしょうか。これまでの私たちの推測によれば、パウロは、テモテが侮辱されて帰って来たことを受けて、コリントの教会を訪ねました。そのとき、第一コリント書で教会の交わりから閉め出すように言われていた「みだらな行いの人」は、パウロを公の場で中傷したのです。また、コリントの信徒たちは、パウロを弁護せずに、どっちつかずの態度を取りました。そのとき、パウロは、どうしたのか。その人を鞭をもって罰したのか。そうではなく、パウロは何もせずに、エフェソに戻ったわけです(13:2参照)。そして、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書いたのです。このようなパウロの態度を、偽使徒たちは、「コリントの信徒たちに面と向かっては弱腰である」と中傷していたのです。面と向かっては弱腰だが、離れていると強気な態度にでる。パウロはそのような勇気のない、信用できない人物であると偽使徒たちは中傷していたのです。そのように自分が中傷されていることを知りつつ、パウロは、「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが」と記すのです。もちろん、パウロはここで、偽使徒たちの中傷を認めているわけではありません。むしろ、偽使徒たちが「弱腰」と中傷しているものが、「キリストの優しさと心の広さ」であると記すのです。偽使徒たちには、パウロは面と向かっては弱腰に見える。しかし、それはパウロがキリストの優しさ(柔和)と心の広さ(寛容)をもって、コリントの信徒たちに向き合っているからなのです。そのパウロが、離れて書いている手紙においても、キリストの優しさと心の広さとをもって、コリントの信徒たちに願うのです。
また、偽使徒たちは、パウロが「肉に従って歩んでいる」と中傷していました。「肉に従って歩んでいる」とは、「聖霊を与えられていない人間の欲望のままに歩んでいる」ということです。パウロは聖霊に従って歩んでいるのですが、偽使徒たちは、パウロのことを肉に従って歩んでいると中傷していたのです。そのような者たちに対して、パウロは勇敢に立ち向かうつもりであると言うのです。偽使徒たちは、パウロは離れていると強硬な態度に出るが、面と向かっては弱腰だと中傷していました。しかし、パウロは、自分を肉に従って歩んでいると見なしている者たちには、勇敢に立ち向かう、強硬な態度に出ると言うのです。そして、コリントの信徒たちに対して、自分が強硬な態度を取らずに済むようにと、パウロは願うのです。パウロは、キリストの使徒として、キリストのやさしさと心の広さとをもって、自分がコリントの信徒たちに対して、強硬な態度を取らずに済むようにと願うのです。そのような願いをもって、パウロは、偽使徒たちの主張を論駁し、自分がイエス・キリストの使徒であることを論証するのです。
3 神の力で戦う
3節から6節までをお読みします。
わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。
パウロは、自分が肉において歩んでいることを認めます。「肉において歩んでいる」とは、「肉体を持って歩んでいる」ということです。しかし、パウロは、「肉に従って戦うのではありません」と記します。ここでの戦いは、福音宣教という悪魔との霊的な戦いのことです。パウロの戦いの武器は肉によるもの、人間の知恵や雄弁術によるものではありません。パウロの戦いの武器は要塞をも破壊するに足る、神に由来する力であるのです。この「神に由来する力」こそ、十字架の言葉であり、パウロが宣べ伝えたイエス・キリストの福音であります。第一コリント書の1章18節から24節で、パウロはこう記していました。新約の300ページです。
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
また、2章3節から5節で、パウロはこう記しています。
そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
このように、パウロは、人の知恵ではなく、神の力であり、神の知恵である十字架のキリストを宣べ伝えたのです。そして、神の力である十字架の言葉によって、コリントの信徒たちの心にある要塞を打ち砕いたのです。私たち人間の心には、高い壁に囲まれた要塞があります。その要塞に、王として君臨しているのは、自分自身です。かつて私たちの心にも、要塞があり、その王座には私たち自身が君臨していたのです。しかし、その要塞が神の力である十字架の言葉によって破壊され、その王座に、主イエス・キリストが君臨してくださったのです。それゆえ、私たちも、肉に従ってではなく、霊に従って生きる者とされたのです。自分の欲望に従ってではなくて、神様の御意志に従って生きる者とされたのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の336ページです。
4節の後半に、「わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らったあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ」とあります。この御言葉は、パウロの戦いが霊的な戦いであり、パウロの武器が神の力である十字架の言葉であることを裏書きしています。また、神に由来する力によって破壊される要塞が、神様に敵対する人間の心の有り様であることを裏書きしています。パウロが「十字架の言葉は神の力である」と記すとき、そこで起こることは、人間の理屈が打ち破られ、神の知識に逆らうあらゆる高慢が打ち倒され、あらゆる思惑をとりこにして、キリストに従わせるということであるのです。私たちは、十字架につけられたイエス・キリストを信じています。このことは、パウロが記していたように、人間の理屈から言えば愚かなことです。十字架刑はローマ帝国の極刑でありました。その十字架につけられたイエスという男がキリスト(救い主)であるとは愚かな話です。しかし、その私たち人間の理屈を、神の力が打ち破ってくださった。神の力が、私たちのあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせてくださったのです。それゆえ、私たちは、「イエスは主である」と公に告白することができたのです(一コリント12:3参照)。私たちが十字架のイエス・キリストを信じることができたのは、十字架の言葉と共に働く聖霊が、私たちの理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせてくださったからなのです。
パウロは6節で、「また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています」と記します。これは偽使徒と、偽使徒たちによって惑わされているコリントの信徒たちへの警告の言葉です。そして、ここにあるのは、パウロの「自分はイエス・キリストの使徒である」という自己認識です。パウロは、1節で、「このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います」と記しました。それは言い換えれば、この私パウロがキリストの使徒として願うということです。「使徒」とは「権威を委ねられて遣わされた者」のことです。代理人、名代のことです。ですから、キリストに従順である人は、キリストの使徒であるパウロにも従順であるはずです。しかし、偽使徒たちは、パウロがキリストの使徒であることを否定しておりました。また、コリントの信徒たちの中には、偽使徒たちに惑わされた者たちがいたのです。そのような者たちを念頭において、「不従順を罰する用意ができている」とパウロは記すのです。
今朝は、最後に、「使徒」についてお話したいと思います。ローマ・カトリック教会は、「使徒たちの後継者は各地の司教であり、ペトロの後継者はローマ教皇」であると見なします(『カトリック要理』42参照)。しかし、私たちプロテスタント教会の理解では、使徒は一代かぎりのもので、2世紀前半には、この地上から姿を消しています。では、私たちのキリストへの従順はどのようにして具体的に示されるのでしょうか。それは使徒たちの教えである新約聖書に従うことによって、具体的に示されるのです(『ウェストミンスター信仰告白』1:1参照)。誤解のないように申しますが、牧師は使徒ではありません。牧師は、神様によって御言葉の教師として立てられたものですが、使徒ではないのです。では、牧師の語る説教を軽んじてもよいかと言えば、そうではありません。なぜなら、そこで語られているのは、使徒たちの教えであり、イエス・キリストの福音という神の力であるからです。私たちは、神の力をどのようにして受けるのでしょうか。それはイエス・キリストの福音を聴くことによってです。私たちは、イエス・キリストの福音と共に働く、聖霊によって、キリストに従う者とされるのです。主の日の礼拝においてこそ、神の力は私たちの理屈を打ち破り、私たちのあらゆる高慢を打ち砕き、私たちをキリストに従う者としてくださるのです。